幸せとは
「……素敵な話ではないか」
語り終えて満足げな表情を浮かべるアドルフに、アンバーはそっと呟いた。
「ああ、自分でも本当に幸せだったと思う」
「わしも主様とそのように生きられたら、どんなによいじゃろうか……」
「それは俺じゃなくて本人に言ってやることだな」
変わらずベッドの縁に腰かけているアンバーは、アドルフの話に耳を傾けながら天井を見上げていた。
愛する者と常に寄り添い、その暖かさに酔いしれながら生きる日々の幸福は、きっと想像以上だ。
「好きだって気持ちは伝えられるときにすぐ伝えておけよ? 人の心ってもんは、思ったよりも簡単に近づいたり離れたりするもんだ。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。あとで伝えたいと思ったときに、もうその思いが届かないほど遠かったんじゃ切なすぎるからな」
「それなら心配はいらぬ。わしは日頃から主様に好きじゃと訴え続けておるからな!」
元気よくベッドからぴょんと立ち上がったアンバーは、褒めてくれと言わんばかりの得意そうな笑顔をアドルフに向けた。
「ははは、それなら安心だな。お前さんらはきっと幸せになれるだろうよ。……だが、テレサは……」
「む? テレサがどうかしたのか?」
急にしおらしくなったアドルフの顔を覗き込むように、アンバーは少し近づいて首を傾げた。
「……いいや、なんでもない。爺の独り言だ、忘れてくれ」
「よいではないか、話してみよ。わしには聞くことしかできぬが、わしばかり励まされても釣り合わぬじゃろう?」
再びベッドに腰かけながら、穏やかな口調でアドルフにそう告げるアンバー。
それを聞いたアドルフは難しそうな顔で唸っていたが、じっくりと彼の顔を見つめるアンバーに根負けしたのか、一言「わかった」と零した。
「テレサはもう五年も俺の世話をしてるんだって話はしたな?」
「うむ、最初に聞いたのう」
「実はな、最近俺は思うんだ。俺なんかの世話が忙しいせいで、テレサは自分の幸せを我慢してるんじゃないか、ってな」
眉を顰めたアドルフは、起こしていた上体を枕に預けながら大きな溜め息をついた。
「今はまだ若いからいいんだがな。このままの生活が続いて、もしテレサが女としての幸せを逃すことになったらと思うと、耐えられんのだ」
「女子としての、幸せ……?」
「ん? わからんか? 要は好きな男と一緒になって、普通に子供を産んで、普通に家族を持って……とまあ、そういうことだ」
アドルフの言っていることは、アンバーにも少しだけわかった気がした。
番の者と子をつくるのは妖狐の界隈でも同じことだ。
しかしながらやはり人間と妖狐とでは、"家族"という概念についても異なった捉え方があるように思えた。
「家族ならもうおるではないか。テレサは今も主とこうして暮らしておるじゃろう?」
「そりゃあそうなんだが……。俺が言いたいのはそういうことじゃなくてな」
「それに、好きな者と一緒になれと言われてもじゃ。今テレサが好いておる者がおるとは限らぬじゃろう?」
「ああ、それなんだがな――」
アドルフは急に口をつぐむと、周囲を少しきょろきょろと見渡し始めた。
そして部屋にはアンバーと自分の二人しかいないこと――テレサが帰ってきた様子がないことを確かめてから、小さく手招きしてアンバーを近くに呼び寄せた。
「多分なんだが、テレサは今、好いている男がいるんじゃないかと思うんだ」
アンバーは耳打ちされたアドルフの言葉に首を傾げると、自分もつられて「なぜそう思うのじゃ?」と耳打ちを返した。
「テレサの耳は見たか? 今あの子は小さな赤い耳飾りをしてるんだが、あれをつけ始めたのはつい最近なんだ。あの子は俺の世話にばかり熱心で、服だの光り物だのにはまるで興味を持たなかったのに」
「……うーむ。耳まで注意して見てはおらんかったのう」
「それだけじゃあない。最近は山の麓の村に行く頻度が増えた上に、時間も長くかけるようになった。買い出しをするだけならあんなに時間はかからない。多分、誰かと会ってるんじゃないかと思うんだが」
「買い物ついでに村の殿方に会いに行っておると?」
「おそらく、な」
なんだか難しい話をされている気がして、アンバーは目が回りそうな気がした。
ただの思い過ごしではないだろうか、とも思ったが、アドルフの真剣な表情を見ると簡単に否定することもできないように思えてくる。
「いや、別に男がいるからって俺が口出ししようとか、そういうことじゃねんだ」
つい身を乗り出していたアドルフは、少し痛そうに脇腹を抑えながら再度ベッドに背を預けた。
その様子を見て、彼を支えようと咄嗟に腕を伸ばしかけたアンバーだったが、どうやらその必要はなさそうだった。
「ただ俺は、テレサに幸せになって欲しいだけだ。村にいるその男のことが好きだっていうんなら一緒になって欲しいが、俺がいるばっかりにずっとそのことを隠してるような気がしてな」
「気になるなら、テレサに聞いてみればよいのではないか?」
「正直に言うはずがない。きっとテレサは俺に気を遣って、そんな相手はいないと答えるに決まってる。俺が動けないせいで、あの子の幸せの邪魔をしてるんだ……」
俯くアドルフにかける言葉が見つからなかった。
自分が五年も寝たきりだろうとまったく動じないような彼が、孫娘の心配になるとやけに小さくなったように見えるのが何とも不思議だ。
「俺はもう十分生きた。勿体ないくらい幸せだった。だから今度はあの子が幸せになるために、俺みたいな爺はさっさと――」
「――それ以上はならぬ」
黙って聞いていたアンバーに突然言葉を遮られ、アドルフは目を丸くして彼女を見やった。
アンバーはというと少しだけ眉を吊り上げ、どこか不満そうな顔でアドルフを睨んでいた。
「テレサのためにさっさと、どうするつもりじゃ。そんなことでテレサが幸せになると思っておるなら、それは絶対に違うぞ」
口調を強めたアンバーの言葉は、まるで年配のアドルフを叱りつけようとしているかのようだった。
まさか自分の半分も歳を取っていない娘にそう切り返されるとは思っていなかったのか、アドルフは徐々に迫ってくる少女の空色の瞳から目が離せなくなっていた。
「テレサは主にも元気でおって欲しいと思っておるのじゃ。そんなテレサの願いも努力も見て見ぬ振りをして、そんなことを口にしてはならぬ。そんな自己満足で自分のことを軽く見てはならぬ。主だって、たった一人で生きておるわけではないのじゃからな」
穏やかな口調に戻ったアンバーは呆気にとられるアドルフから離れ、再びベッドの縁に座り直した。
「見ておればわかる。主と一緒にここで暮らすテレサは本当に幸せそうじゃ。その幸せがなくなれば、主の知らぬところでテレサがどれだけ悲しむと思うておる? 次はきっと、何日か泣くくらいでは済まなくなるぞ」
アドルフに言葉を投げかけながら、アンバーも自分の過去を重ねて考えていた。
故郷の森を救うために自分がしたことを。
そのときジェードがどれだけ悲しんでいたかを。
湯の街の文化を守るためにジェードがしたことを。
その結果自分がどのような心境になったかを。
誰かを愛するということは、その相手と"半心"を分かつことと等しい。
それが恋人であれ家族であれ、相手から預かった"半心"を自分勝手な我儘で消してしまうのはとても罪深いことなのだ。
「――じゃから、言うてはならぬ」
呆然と見つめ返してくるアドルフに、アンバーがそっと微笑みかける。
それを見たアドルフは、我に返ったようにふんと鼻を鳴らしてみせた。
「んなことはわかってたつもりだったんだがな。小娘に教えられるとは、俺もまだまだってことか」
そう言って笑い出すアドルフにつられ、アンバーもくすくすと笑いだした。
ところがアドルフは急に小さく呻くと、脇腹を抑えながらしわだらけの顔をさらに歪めた。
「どうしたのじゃ? また痛むのか?」
「……ああ……。だが心配ない。最近はよく痛むが、すぐに収まるからな」
アドルフの言った通り、少しの間抑えているうちに痛みは引いたようだった。
彼がふうと大きな息をつくと、小屋の玄関口の方から「お爺様、ただいま戻りましたー!」と声がした。
どうやら買い出しに出ていたテレサが帰って来たらしい。
「いいか、さっきのことはテレサには話さないでくれよ?」
「うむ、わかった。約束じゃ」
アンバーが大きく頷いて了承を示すとほぼ同時に居間の戸が開き、買い物の荷物を抱えたテレサが入ってきた。
「あら、アンバーさん。ジェードさんについていなくてよろしかったのですか?」
「平気じゃ。主様なら今は眠っておる」
「そうですか。祖父のお相手をしていただいていたようで、ありがとうございます」
「構わぬ。むしろ相手してもらっておったのはわしの方じゃ」
テレサはふふと上品に笑うと、抱えている荷物を厨房へと運んで行く。
それを見たアンバーが「わしも手伝おう!」と元気について行く。
笑い声を零す二人の少女の楽しげな背中を、アドルフはベッドの上から穏やかな微笑みで眺めていたのだった。




