もう一度触れて
もう一度触れて欲しいという妖狐の頼みはジェードにとって物理的には非常に簡単で、だが精神的には非常に難しいものだった。
「そう言われても、僕はどうしたら……?」
「昨日のように触れてくれるだけでよい。わしはどうしても忘れられぬのじゃ。慈しむように髪を撫で、優しく涙を拭ってくれた主の温かい手の感触が……じゃから怖いのを我慢してこうして会いに来たのじゃよ、わしは」
妖狐は頼みを無下にすればこのまま泣き出しそうな雰囲気だ。
泣き出されるのは困るが、引き受けると背徳感に押し潰されそうになる。
照れ臭いような後ろめたいような気がして尻込みする自分自身が、ジェードはとても情けなかった。
「主……?」
「ああ……わかった、やってみるよ」
躊躇いを妖狐に悟られそうになりながら、ひとまずジェードは頼みを聞くことにした。
大した要求ではない。ただ妖狐に触れるだけでいいのだ。
それも昨日一度できたことである。きっと今日だってできるはずだ。
ジェードは自分を見つめる妖狐の頬に向けてゆっくりと右手を伸ばしていく。
右手が熱い。
手そのものが熱を持っているせいでもあるが、まだ触れていないはずの妖狐の頬から感じられる恥じらいの感情が右手を焼いていた。
あと少し──
しなやかな柔肌を赤く染めた頬が、ジェードの体温を感じる瞬間を今か今かと待ちこがれている。
ついに風が吹けば触れるのではないかというところまで右手が妖狐の頬に近づき──
「……ごめんっ!」
──ジェードは触れる寸前でその手を引き戻した。
荒げた息を肩で整えながら自分の右手を左手で握り締める。
とんでもなく熱い。
手だけではなく全身から火が出ているようにすら感じられた。
いつの間にか上がっている息も、少女に触れようとする際に無意識に呼吸が止まってしまっていたせいだ。
ジェードがふと視線を持ち上げると、妖狐は目を見開いて驚いたような表情をしていた。
しかしその表情はすぐに曇ってしまった。
耳と眉が垂れ下がり、目に浮かぶ涙が今にも零れ落ちそうになっている。
いけない……!
昨日出会ったばかりの少女。
それも人間ではなく妖狐。
しかしその程度のことはどうでもよいと言い切れるほどに、いつの間にか彼女はジェードにとって特別で大きな存在になってしまっていた。
彼女のこんな顔は二度と見たくなかったのに、僕が躊躇ったせいで……!
ジェードの胸の中に後悔が広がった。情けなさが湧いた。自己嫌悪が渦巻いた。
どうして僕はこんなにも意気地なしなんだ。
どうしてたった一人の少女の小さな望み一つ叶えてあげられないんだ。
躊躇う必要なんてないじゃないか。
彼女の心はこんなにも純粋で、こんなにも尊くて、こんなにも愛おしいのに……!
ジェードは無意識のうちに少女の肩に両手をかけて自分の方へ引き寄せ──
「……ぬ……し……?」
──抱き締めていた。
何が起きたかわからない少女は目を見開いたまま動くことができない。
ジェードの体温が伝わってきて全身が焼けるように熱い。
しかし不思議なことにそれを振り払う気にはならない。
そして溜まりに溜まっていた涙が大きな一雫となり、艷やかな頬を流れ落ちた。
あれ、僕は何を……?
ふと我にかえったジェードは、いつの間にか腕の中にいる少女の姿に気づいた。
「……わああっ!? ご、ごめん!!」
自分の行動に驚いたジェードは飛び上がるように後ろに転がった。
「主よ、今のはなんじゃ……?」
「ちが、違うんだ! 今のはその、なんと言えばいいか……!」
まだ心臓が暴れている。まだ全身が燃えるように熱い。
ジェードは冷静になりたくてもなれない状況に陥っていたが、それは妖狐も同じようであった。
「もう一度……してみてくれぬか?」
身体に僅かに残ったジェードの体温を確かめるように、妖狐は自分の肩を抱いて俯いている。
「え? う、うん……」
驚いて距離を取ってしまったジェードは、またゆっくりと少女へ近づいた。
彼女は肩を抱いていた腕を下ろし、ジェードの腕が伸びてくるのを待っている。
二度も同じ躊躇いをするものかと覚悟を決めたジェードは、再び少女の肩に手をかける。
そしてゆっくりと自分の身体の方へ引き寄せ、もう一度少女を抱き締めた。
彼女の身体は驚くほど細い。
決して身体つきがよくないジェードよりもかなり肩幅が狭く、腕にすべての力を注ぎ込めばこのまま折れてしまいそうな印象を受ける。
ジェードは抱き締める左手を少女の腰に、右手を後頭部にそれぞれ添えた。
腰に左手が触れた瞬間、少女の身体が僅かにぴくりと反応した気がするが、そのままジェードを受け入れた様子だった。
一方で少女の胸には形容しがたい感情が再び溢れていた。
嬉しい。尊い。優しい。暖かい。愛おしい。
あらゆるものがこみ上げてきて胸が苦しいが、それでもやはり悪い気はしない。
少女は細腕を持ち上げると、そっとジェードの背中へとまわした。
妖狐として生きてきた今日まで、このような感情を味わったことは一度もなかった。
ずっと感じていたい。この感情に浸ったまま眠ってしまえたらどんなに幸せだろうか。
「──ごめん!」
再び発せられたジェードの謝罪の言葉とともに、少女は腕の温かさから引き離された。
「ちょっと……休憩させて……」
妖狐にとって夢心地だった時間は一瞬であったような、しかしそれでいて随分と堪能出来たような、複雑な気分であった。
「主よ、教えてくれ。今のは何じゃ……?」
「何って、何が?」
「わしが主の腕の中で感じたもののことじゃ!!」
「ちょっと待って!? 君が感じたものの説明を僕に求めるのは筋違いじゃないかい!?」
妖狐自身も気が動転していてわけがわからなくなっていた。
相手に捕らえられるという状況は、森の中で彼女が生きてきた経験では非常に危険なものであるはずだ。
実際に妖狐がジェードを押し倒し、牙を突き立てて命を奪おうとしていたあのときがまさにそうであった。
本来なら死を意味するはずの状況下で胸の中にこみ上げてきた心地よい感情。
その正体がなんなのかを妖狐が知る術はなかった。
「知らぬ……こんなものは知らぬぞ……」
「嫌だったなら謝るよ……」
「違う! むしろ逆じゃ! ずっと主の腕の中にいたいくらいじゃ!!」
「それはいろいろとまずいんじゃない!?」
言葉を強めながらじりじりと詰め寄ってくる妖狐は冗談を言っているようには見えなかった。
「あんなに心地よいのに、何がまずいんじゃ? それとも主は嫌じゃったとでも言うのか……?」
「まさかそんな、嫌だったわけじゃないけど……なんだか照れ臭いし、それに僕たちはまだ知り合ったばかりだろう?」
「知り合ったばかりではまずいのか?」
「まあ、普通はね」
ジェードはあまりにも人間味溢れる彼女を見ていてすっかり失念していた。
彼女は森で育った妖狐だ。人間の常識が通用しないのは当たり前である。
「あんなにも心地よいのに、出会ったばかりではまずいのか……人間の感覚はよくわからぬ」
「あはは……」
自分が変わっているとよく言われていたように、人間であるジェードからすれば妖狐もかなり変わっているように見える。
ひょっとしたら似た者同士なのかもしれないなと、ジェードはちょっとした親近感を彼女に対して抱き始めていた。




