過去編 血を洗う雨 前編
山小屋の老人、アドルフの過去のお話です。
前後編となっています。
荒げた息を整えながら、自分の両手に目を移す。
傷だらけの右手に握った槍はぽっきり折れて、もはや使い物にはならない。
返り血に濡れた左手に持っていたはずの小さな盾は、邪魔になってどこかへ放ってきてしまった。
棒切れ一本という貧弱な装備と成り果てた状況だったが、このときの俺はとても満足していた。
「――俺たちの、勝利だああぁぁッ!!」
俺が雄叫びを上げながら棒切れを天高く掲げると、後ろに控える数十人の男たちが一斉に歓声を上げた。
足元に転がる敵兵の亡骸からは、鎧が血で汚れているせいでとんでもなく不快な匂いがする。
昔は嫌いだったこの悪臭だが、今ではさほど気にならなくなった。
なぜなら、鼻の奥に染みついてしまいそうな鉄の異臭は、このあと手に入る大量の金銀の香りで上塗りすることができると、俺は知っているのだから。
*****
男たちの陽気な声と共に、カコンと木製のジョッキがぶつかる小気味よい音がする。
普段はあまり人が多くないこの酒場も、今はすっかり顔を赤くして騒ぎ立てる男たちで満席だ。
辺りを見渡せば、どちらが酒に強いか飲み比べをしている者や、床に転がっていびきをかいている者もいる。
服を脱いで踊り出した者と、それを囲んで笑っている者らがいるのは、正直やや恥ずかしい気にもなる。
いつもの俺なら一喝してやめさせるところだが、今日は何も言わず見逃してやることにしている。
今日だけは、俺たちが生きて帰ってこられた有難みを、こうして噛み締めさせてやりたいのだ。
「副団長ぉ~。今日はやけに静かっスねぇ~」
一人静かにジョッキを傾けていると、どこかからふらりとやってきた若い男が隣の席に座った。
「何の用だ、酔いどれ小僧。俺がいつもいつもやかましく怒鳴りつける男だと思ったら大間違いだぞ」
「うわっ、酷っでぇ呼び方しねぇでくださいよぉ~。オレにはちゃあんとロイって名前があるんスからぁ~」
「んなことはとっくに知ってんだよ、馬鹿野郎」
酒に強い俺は、いくら飲んでも顔色一つ変わらない。
もし自分が酒に酔ったら彼のようになってしまうのだろうかと想像すると、この体質には感謝するしかない。
「にしても、今日は危なかったっスねぇ~。オレがいなかったら負けてましたよぉ~絶対」
「何言ってんだ。俺からすりゃ、お前さんなんてまだまだひよっこだ」
「えええ、ひよっことは何スかぁ~」
俺を含めてこの酒場にいるのは、とある傭兵団の一行だ。
高い金で雇われて戦争に出向き、敵兵を殺すというこの仕事は、世間からは決してよくは見られない。
しかしあちこちで戦争が頻発していることもあって、やっとこさその日暮らしをしている学のない若者たちにはこんな仕事しかなかった。
貧しかった俺もまた、14歳のときにこの傭兵団に入った。
命を懸ける仕事なだけあって稼ぎはよく、気がつくと20年近く武器を振り回していた。
今ではこの傭兵団の副団長を任され、団員たちの命を預かる身となっている。
「今日のオレ大活躍だったっしょ~? ひよっこってのはマルサスみたいなヤツのことを言うんスよぉ」
飄々とした赤ら顔が悪びれた様子もなく口にしたその言葉を聞いて、俺は黙ってロイを睨みつけた。
それを見たロイが急に背筋を伸ばして口をつぐんだあたり、今のが失言だったということは自覚したらしい。
「……マルサスはまだ経験が浅かったんだ。そう言ってやるな」
「……そっスね。今のはちょっと反省するっス」
そう言ってロイは手に持った酒を一息に飲み干し、空になったジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。
「かなり鈍かったっスけど、いいヤツだったっスよ……。副団長知ってます? アイツ、手先がすっげぇ器用で……顔に似合わず編み物とか……今度帰ったら妹に渡すんだとか言って……」
そこまで言うと、ロイはテーブルに伏せて泣き崩れ始めた。
傭兵という仕事をしていれば、こういったことは珍しくない。
この仕事を始めて随分経つが、戦に出るたびに仲間たちが次々に減っていくのはとても胸が痛む。
それでも新しい入団希望者は変わらずやってくるあたり、この頃は治安がいいとは言えない情勢だったのは間違いない。
*****
それから程なくして、俺たちの傭兵団は新しい仕事を引き受けた。
もちろん戦の仕事だったのだが、これがまた熾烈を極めた。
数の差で圧されてしまった俺たちの傭兵団は大敗を喫し、団員の三分の一以上が命を落として撤退を余儀なくされた。
「……くっ、そ……」
年貢の納め時というやつだろうか、俺は退いていく仲間たちの足音と悲鳴を遠くに聞きながら、逃げ込んだ林の中で命尽きるのを待っていた。
俺の腹に太い剣を突き刺してきやがった敵兵はなんとか喉元を裂いてやったが、命からがら逃げてきた俺ももう長くは保たないだろう。
焼けるように熱く痛む腹からの出血が止まらない。
それに、だんだん眠くもなってきた。
今眠ったら、きっと目覚めることはないだろうということはなんとなくわかる。
思い返せばろくでもない人生だった。
自分の命を売って、金をもらって人を殺して、幸せとは程遠いような汚れた生き方だった。
そんなことを考えているうちにいつの間にか頭がぼんやりしてきて、俺は誰にも見られない場所で一人瞼を閉じたのだ。
*****
次に瞼を開けると、最初に目に入ってきたのは真っ白な衣服に身を包んだ一人の若い娘だった。
てっきり地獄行き確定だと思っていたが、どうやら俺を迎えに来たのは有難いことに天使様とやらだったらしい。
「あっ、気がつきましたか! よかったぁ、このまま死んでしまうかと……」
俺は始め、目の前の娘の言っていることが理解できなかった。
何を言ってるんだ、俺が死んだから天使が迎えに来たんだろう、と言おうとしたが、腹に開いた穴の激痛が突然蘇ってきて呻くことしかできなかった。
「あっ、まだ動かないでください! お医者様に止血と縫合はしていただきましたが、傷が塞がっているわけではないんですから」
俺は、信じられなかった。
まさかまだ自分が生きているなど、誰が予想しただろう。
部屋を見渡すと、どうやら小さな診療所のベッドの上にいるのだろうということがわかった。
しかし、目の前にいるこの娘は一体誰なのだろうか。
顔に覚えはないし、何が起きているのかさっぱりわからない。
「でも、助かって本当によかったです。林で倒れている貴方を見つけたときは、どうなることかと……」
「……お前さんが、助けてくれたのか?」
「いえいえそんな! 助けてくださったのはお医者様です。私は何も……ッ!」
「だが、最初に俺を見つけてくれたのはお前さんなんだろ。そんでこうして目が覚めるまで世話してくれてたのも」
あたふたと慌てる娘の制止も聞かず、俺は腹の激痛を堪えながらゆっくりと身体を起こした。
「礼を言う。お前さんは命の恩人だ」
「そんな、私は本当に何もしてませんよ……。お礼ならお医者様に」
「そうだな、医者にもあとで言わせてもらうとしよう。だが今はお前さんに言わせてくれ」
どこまでも謙虚な娘は照れ臭そうに頬を赤らめていた。
今まで散々人の命を奪ってきた俺が、こうして命を救われてもいいものなのかという疑問も湧いたが、これについてはひとまず後回しにしようと決めた。
「俺はアドルフだ。お前さん、名前は?」
「……リュビア、です」
そう言って娘は気恥ずかしそうに笑った。
最初は天使と見間違えてしまったが、あながち間違いということでもないのかもしれないな。
咄嗟にそんなことを考えてしまった当時の俺は、今思い出しても鼻で笑いたくなるくらいに青く、そして若かった。
*****
どうやらリュビアの住む村は、俺たちの傭兵団が拠点を置いていた街の隣にあるらしい。
それを聞いた俺はすぐにでも仲間の元へ戻ろうとしたが、傷が治るまではだめだとリュビアに熱心に引き止められてしまった。
仕方なく村に留まることにした俺は、しばらくの間リュビアと共に暮らした。
その暮らしは傭兵として戦っていたときと比べると驚くほどに平和で、経験したことのない暖かさに溢れていた。
そうこうしているうちに、俺はいつの間にかリュビアに惹かれていった。
可憐でいつも礼儀正しく、上品な彼女の隣で暮らした日々はとても幸せだった。
だからこそ、この思いは秘めたままにしておこうと俺は決めていた。
俺は傭兵――人殺しだ。
すっかり血に汚れてしまった俺ごときが、彼女の隣にいられることだけでも起こりえないはずの奇跡である。
そんな俺が、こんなにも素晴らしい女性を自分のものにしたいなど、そんな資格があるはずはない。
そう諦めていながらもリュビアへの思いは膨らみ続け、俺は傷が癒えてもなお、彼女の元につい居座り続けてしまった。
前は頻繁に傷の具合を気にしていたリュビアが、最近は何も尋ねてこないのは幸いとしか言いようがない。
傷が治れば、俺は街の傭兵団に帰る。
俺たちはそういう約束で、今まで共に暮らしてきたのだから。




