身に滲みる熱 後編
最終話、後編です。
「……本当に無事でよかった、主様」
「……うん」
「怖かったじゃろう?」
「……うん」
「わしも怖かった。安全なところにいるはずなのに、ちっとも心が休まらなかった」
胸元でぽつり、ぽつりと呟くアンバーの声に答えるジェード。
どこか涙声であるようにも聞こえる彼女を、ジェードはただ腕の中に抱いてじっとしていた。
「主様がわしの前からいなくなるかもしれぬという不安にだけは、どうしても勝てる気がせぬ。どうしようもなく怖くて怖くて、胸が痛くて痛くてたまらなくなるのじゃ」
「できるだけそんな心配をかけないように、僕もこれからは気を付けるよ」
しっとりと濡れたアンバーの髪を撫でながら、ジェードも優しく語りかける。
アンバーはそんなジェードの胸に耳を当てながら、彼の言葉をじっと聞いていた。
「でも、君は僕と違って逞しいじゃないか。今回みたいなことで、僕にもしものことがあっても大丈夫さ。君には今まで通り強く生きていって欲し――」
彼女を励まし、安心させようとしたジェードの言葉は、そっと口元に押さえつけられた細指に止められてしまった。
俯いたまま動かないアンバーは、それ以上は言うなと無言で訴えていた。
「……嫌じゃ。そんなもしもなど聞きとうない」
しばらく沈黙してからそう呟き、顔を上げたアンバーはジェードの顔のすぐ前までにじりよってきた。
その空色の双眸は憂いているようで力強く、また憤っているようでどこか哀愁に満ちているように見えた。
「わしは何があろうと"主様と"生きていきたいのじゃ。わかっておるくせにどうしてそのようなことを敢えて言おうとする……」
口元を抑えられたまま真っ直ぐに視線が交差して寸秒。
アンバーの頬を伝って落ちたのは彼女の涙か、はたまた湯の雫かはもはや区別がつかない。
ただ一つ言えるのは、ジェードの胸に滴り落ちたその雫は、彼の心臓の真ん中を貫いたのかと思うほどに冷たかったということだ。
その刺激に身が縮み、彼女の言葉と視線に心が震えた。
ああ、僕はやっぱり大馬鹿者だ。
彼女にとっての幸せが何なのか、僕は誰よりも知っているはずじゃないか。
なのに僕は、彼女の幸せを想うことよりも、その幸せを失ったときのことを案じてしまった。
共に生きようと誓ったはずなのに、僕という人間はなんて無粋で無骨で不躾なんだろう。
一人でも生きていける彼女の逞しさを、自分の命を投げ出す言い訳として正当化してはならない。
そんな無責任に彼女を放り出していいはずがない。
彼の命はもう彼だけのものではないのだ。
エヴァには偉そうなことを散々言った割に、死を間近に感じて弱気になっていたのは自分も同じだったのだと、今ハッキリと気づかされたのだった。
――人間は、弱い。
だから誰かと手を取り合い、支え合わなければ生きてはいけない。
そしてその相手なら、彼はとっくに決めたはずだというのに――
「……ごめん、アン。こんなことを言うなんて、どうかしていたね、僕は」
アンバーの指がそっと離れると、ジェードはそう小さく呟いた。
彼の言葉を聞くと、アンバーは心臓の音を聞こうとするかのように再びジェードの胸へとその身を預けた。
「もちろん僕も同じ気持ちだ。君と一緒に生きていきたい。これからずっと、二人で助け合いながら」
ジェードの胸元でアンバーが頷くのがわかった。
再び彼女の背中へと手を回すと、アンバーはジェードの肌を求めてさらに身を寄せてきた。
「……主様、好きじゃ」
「うん、僕も好きだよ、アンバー」
「嬉しいのう、わしは幸せ者じゃ」
「うん、僕もとても幸せだ」
細い細いアンバーの身体をさらに抱き寄せながら、一言一言に感情を込める。
僕は彼女と共に生きる。
絶対に手放したりなんかしない。
僕の心は彼女に捧げるためにある。
そして彼女の心は僕のものだ。
他の誰にも渡すつもりはない。
言葉にせずとも、胸の奥深くで確りと誓う。
その覚悟と入れ違うように溢れ出てくる愛おしさを噛み締めながら、ジェードはただ腕の中にいるアンバーの熱を感じ続けた――
「――ぁ痛っだッ!!? …………えっ、アン?」
しかしその余韻は不意に感じた左肩の激痛に掻き消された。
突き刺されたような痛みを残し、アンバーはジェードに背を向ける。
一瞬何が起きたのかと困惑したが、どうやらアンバーが突然ジェードの肩に思い切り噛みついたようだということはわかった。
「……ええと、今のは何……?」
「…………仕置きじゃ」
背を向けたままのアンバーは、若干拗ねたような声で小さく答えた。
「二度とあのようなことは言わぬと約束してくれ。また言ったら、次はもっと痛くするからの」
目を細め、明らかに不機嫌そうな顔で彼女は振り返った。
しかしそんなアンバーの顔を見ていると、なぜかほっとするというか、すっきりした気分になったのはどうしてなのだろう。
「……ああ、そのときは僕の腕を噛みちぎってでも目を覚まさせてくれ」
ジェードの返事に満足したのか、ニッコリ笑うとアンバーは彼の胸を背もたれにするように身体を預けてきた。
「まあ理由はそれだけではないがの。主様が他の女子になびかぬよう、ちゃんと歯型をつけておかねばならぬからな!」
「エヴァのことなら何とも思ってないってば!」
「むー? 本当かのー?」
くっきりと歯型が残った左肩に触れると、ジェードはまだ残っている痛みすら愛おしく思えた。
自分が自分でなくなりそうになったとき、こうして叱って元の自分に引き戻してくれる。
くすくすと悪戯っぽく笑う琥珀色の少女に抱いたそんな安心感が、この上なく心強かった。
「さっきも言っただろう? 僕は君のことが大好きだ。他の人のところに行ったりなんてしないよ」
「本当か、主様?」
「本当だよ、アン」
「絶対にか、主様?」
「絶対にだよ、アン」
何度も言葉にして確かめようとするアンバー。
何度でもハッキリと答えてやるジェード。
同じ問答をしばらく繰り返し、ようやく満足したのかアンバーはにっこりと笑ってみせた。
「うむ、ならばよい! わしも主様が大好きじゃーっ!!」
「わっ、ちょっとアン、飛びついたら危ない! 溺れるから!!」
アンバーに抱き着かれて沈みそうになりながら踏ん張るジェード。
湯煙に紛れた少女の笑い声と慌ただしい飛沫の音は、幸福を噛み締める二人をのぼせるほどの熱で包み込んでいったのだった。
*****
ジェードとエヴァの生還から一週間。
幸い山はあれ以来大きな噴火を起こすこともなく、もう危険はないと判断したのかバーデンの住民たちも続々と戻ってきていた。
ずっと灰の積もった閑散とした街並みを眺めてきたジェードたちにとって、住民たちで賑わうバーデンの風景はどこか新鮮にも感じられたのだった。
「なんだか済まないね。何日もタダで泊めてもらったりして」
「いーっての、そーいうのは。アンタは命の恩人なんだから、このくらいさせてくれ」
「ここの湯のおかげかな、怪我の具合も随分よくなった気がするよ」
「うちの湯は火傷にも効果があるからな。毎日浸かってりゃーそれも当然だ」
傷が癒えるまでバーデンに滞在することになったジェードとアンバーも、いよいよ出発の日を迎えた。
宿の入口で別れの挨拶をするエヴァは松葉杖をついているが、それ以外はすっかり元の明るさを取り戻している。
「アンタに言われた通り、アタシはこれからもこの宿を守って生きていく。それがアタシの――いや、"アタシたち"の夢だからな。アンタも自分の夢に正直に生きろよ、ジェード」
「もちろんさ、約束するよ」
「近くに来たらいつでも寄ってってくれ。そんときゃ精一杯贔屓させてもらうからよ!」
「あはは、そのときは他のお客さんに怒られない程度に頼むよ」
またいつか会いに来ると誓うように、ジェードはエヴァが差し出した手をがっちりと握った。
そのあとで「わしも!わしも!」と騒いだアンバーは、ジェードの次にエヴァの手を握ってぶんぶんと振り回していた。
「あと、それから――」
そう言ってジェードは一本に丸められた紙を鞄から取り出した。
「んだ、そりゃ?」
「山で話しただろう? 君を雛型にした絵を描きたいって。君との出会いをこうして残しておきたかったんだ。もらってくれるかい?」
そう言ってジェードは、滞在している間に描き上げた絵をエヴァに手渡した。
エヴァは受け取った絵を広げると、息を呑むようにそれを眺めていた。
「すげーな、ジェード! ありがとな、これは家宝にしとくからよ!」
「ええっ? そこまでしなくてもいいんだけど……」
「主様の絵は世界一じゃからの。そうしたくなる気持ちもわかるぞ、エヴァ」
「アンまで何を言い出すの!?」
小さな宿に響く笑い声。
それは若い二人の旅人を送り出す切り火であり、祝福であるようだった。
「じゃあエヴァ、またいつか!」
「おう、またな、ジェード!」
「そのときはまた山羊の乳を頼むぞ!」
「もちろんだ。任しとけ、アンバー!」
首だけ振り返って歩くジェードと、ぴょんぴょん跳ねながら両手を振るアンバーを見送る。
二人の姿が見えなくなると、エヴァはジェードから受け取った絵を再び広げ、宿の入口正面の壁に目立つように飾ってみた。
その絵には、片手に盆を持ち、湯に浸かる客に飲み物を運んで歩く一人の女の姿が描かれていた。
女も客も皆満面の笑みを浮かべており、まさにエヴァの思い描く"夢"を体現した一枚として欠点のない文句なしの逸品だ。
「あのう、すみません」
「あいよ、いらっしゃい!」
宿の入口から聞こえた声に呼ばれ、エヴァは恩人の絵に倣うように笑って出迎えてみせた。
*****
「主様、次はどこへ向かうのじゃ?」
「うん、とりあえずはバーデンの隣街に行ってみようかな。地図を見ると少し離れているみたいだけど」
「主様と一緒なら何日でも歩けるぞ、わしは」
「あはは、どうやらまた僕の体力が先に尽きてしまいそうだね……」
広げていた地図を片付けながら小言を漏らす。
軽い足取りのアンバーは、宣言通り何日でも無尽蔵に歩き続けそうな予感がするから少し怖い。
ふとしたこのとき、ジェードの前を進むアンバーが楽しそうに手を振って歩いているのが目に留まる。
ちょっとした思いつきに過ぎなかったが、ジェードは小走りでアンバーと距離を詰めると、楽しげに振られる彼女の右手と自分の左手を繋いでみた。
「――ッ!? 主様? 急になんじゃ、どうかしたか……?」
「ねえ、知っているかい、アンバー?――」
不意を突かれたアンバーが上擦った声で驚く。
顔を赤くしてこちらの顔を見るアンバーに、ジェードはあくまでも冷静に言葉を言い聞かせてみせた。
「人間の恋人同士はね、二人でいるときはこうして手を繋いで歩くんだ。こうしていると、お互いを近くに感じられて心が温かくなるだろう?」
しばらく動揺していたアンバーだったが、そっとジェードの手を握り返すと、すうっと息を吸って気持ちを落ち着けたようだった。
「本当じゃな。主様の手、とても温かい……」
握った手を一度解き、今度は指を絡めて握り直すジェード。
その手をさらにぎゅっと握ったアンバーは、彼に恋人だと言ってもらえたことが嬉しくてたまらない様子だ。
「アン、口元緩み過ぎだよ」
「……ッ! ぬ、主様のせいじゃもん! わしは悪くない!」
そっぽを向いてちょっぴり拗ねた様子を見せながらも、アンバーは握った手を離そうとはしない。
彼女の気持ちを察しているジェードは「はいはい」と適当な相槌で流してあげることにした。
触れ合った肩と結ばれた手から互いの体温が流れ込んでくるように感じる。
湯の街を去る翡翠と琥珀は、その熱の愛おしさが離れぬよう、同じ歩幅でぴったりと寄り添い歩いたのだった。
第三章完結までお付き合いいただき、ありがとうございます!
拙い作品ではありますが、ここまで続けて読んでいただけるというのは非常にありがたいことです。
先日総合100ptも達成し、作者は俄然やる気が満ち溢れています笑
さて、これから続きます第四章についてのお話を少々。
これまでは絵描きのジェードを中心に物語が展開することが多かったのですが、
お待たせ致しました。
次の章は本作のメインヒロイン、妖狐のアンバーが頑張るお話になっています。
ぜひお楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです!
それから、長くなりますがもう一点。
この物語は、各章ごとに様々な街を訪れながら進んでいくのですが、必ずしもこれらの街を連続してまわっているわけではありません。
故郷のプラム→音楽の街フィスキオに辿り着く流れを除き、二人は各章の間にも様々な街を訪れています。
ただ、すべての街で何らかのイベントに遭遇しているわけではない、というつもりで書かせていただいているのです。
街によっては、数日滞在して絵の商売をしたり観光をしたりしただけで、何事もなく去って行った場所もある、と解釈していただければ幸いです。
長くなりましたが、今後もジェードとアンバーの恋模様を、翡翠と琥珀をよろしくお願いします!




