身に滲みる熱 前編
最終話が長くなってしまったので、前後編の二つに分けています。
一歩一歩自分の素足を進めていくと、ひたひたと音を立てながら床に波紋が広がっていく。
視界は白くもやがかかっているようでよく見えないが、水が流れていくような音が絶えず聞こえてくる。
歩いた先にやがて見えてきた石の段を上り、その奥に溜められた湯の深みへと青年は身体を沈めた。
最初の感想は"痛い"だった。
噴煙に焼かれながら山の中を転がったのだから、もちろん身体中火傷と擦り傷だらけだ。
そんな状態で湯に浸かれば、全身を襲う染みるような痛みに涙が出そうになるのも頷ける。
しかしその痛みに慣れてくると、次の感想は――――何も浮かばなかった。
微かに硫黄の匂いがする湯が全身を包んで温めてくれる感覚に、ただただ飲み込まれていくだけ。
この感覚に身を任せていると、頭がぼーっとして思考が鈍っていくのだ。
何も考えず、この温もりに抱かれていればいいのだという安心感が、とても心地よくて敵わないのだった。
もう、このまま湯に溶けて消えてしまってもいいかもしれないな。
実際には起こりもしないそんな考えを巡らせながら、ジェードは湯船の壁にもたれてバーデンの湯を堪能していた。
足湯として利用した時とはまた大違い。
遭難して疲れ切った身体を労うように染み渡ってくる熱がくせになりそうで、ジェードはこの湯にいつまででも浸かっていられるような気さえしたのだった。
「むぐぅ……なにやら変わった匂いのする湯じゃのう」
「――ッ!?」
不意に聞こえた声に驚いたジェード。
浴場の入口の方を見ると――見たがすぐに背を向けて湯に浸かり直したのだった。
そこにはぴちゃぴちゃと足音を立てながら歩いてくる、一糸まとわぬ姿のアンバーがいた。
「アン……!? なんで君が?」
「む? いやのう、主様の背中でも流してやれと、エヴァに強引に連れて来られたのじゃ。何が嬉しいのかとてもニヤニヤしておったが、何を考えておるのじゃろうな」
エヴァ……本当に世話焼きというか、お節介というか……。
そういえばこの宿にやってきたとき、ここは混浴だとエヴァが言っていた。
男女が同時に入浴せざるを得ないのは仕方ないにしても、ジェードがそれを容易に受け入れられるとも思えない。
「今まで浅くてわからなかったが、少し濁っておるのじゃな。それになんだか、ぬるぬるしておる」
湯を触っているのか、背後で水音とアンバーの声が聞こえる。
いくら旅のお供とはいえ、女性と混浴などジェードにとっては大事件と言える。
しかしここまで来た彼女を追い返すわけにもいかず、ジェードはもう腹をくくるしかない状況となってしまったのだった。
「……入っておいでよ、アン。気持ちいいよ」
背を向けたままのジェードの声に促され、アンバーもゆっくりと湯船につかる。
後ろから波打った湯が押し寄せてきて、本当にすぐそこには彼女がいるのだと感じるのがどうにも落ち着かない。
「ほほう、温いのう。こんなものを知っては水浴びに戻れなくなりそうじゃ!」
嬉しそうなアンバーの声に、ジェードもほっと息をつく。
バーデンの湯に肩まで浸かってみたいと言っていた彼女の望みはようやく叶ったのだと思うと彼も喜ばしい。
エヴァが命を懸けてでも守ろうとしたバーデンの湯は、やはりそれだけの価値のあるものだとひしひしと実感するようだった。
そんなエヴァの情熱のために、少しでも力になれていたらいいな……。
一度迷ったとしても、自分の夢に真っ直ぐに向き合ってきたエヴァ。
そんな彼女の生き様は、この非力な青年の心を肥やす糧となったことは間違いない。
だからジェードは、ちっぽけだろうと彼女の夢を支える"誰か"になりたいと、そう思って手を差し伸べたのだ。
「――主様、ぼーっとしてどうしたのじゃ?」
「わッ!?」
突然呼びかけられて飛び上がりそうになったジェード。
声がした方向には、いつの間にか彼の隣までやってきていたアンバーが横から顔を覗き込んでいた。
「エヴァのことを考えておったのじゃな? また主様はわしの前で他の女子のことを……」
「別にそんなんじゃないよ。ただ、僕は本当にエヴァの力になれたのかなって思っていただけで……」
「ほれ、やはり考えておったのではないか!」
頬を膨らましてますます顔を寄せてくるアンバー。
ヤキモチを妬いているのはわかるのだが、こうなった彼女にはどう向き合ったらいいのか、ジェードにはまだはっきりとわからないところがある。
「主様はエヴァのような、胸や尻の大きな女子の方が好みなのか? わしでは不満か!?」
「なんでそうなるんだい!? そんなこと言ってないじゃないか……」
一度アンバーと向き合ったが、裸の彼女を見るのにどうも耐えられなくて、またすぐ視線を逸らしてしまうジェード。
その様子を見たアンバーはさらに頬を膨らませてジェードを睨んでいた。
「じゃあなぜ今目を逸らしたのじゃ! やはり後ろめたいのじゃろ!」
「違うって、それこそ誤解だ! ほら、やっぱり女の子と一緒に湯浴みなんて、目のやり場に困るんだよ……例え君でも……」
アンバーに対して顔を直角に向けたまま弁明するジェード。
彼の言葉に嘘はないとわかったのか、アンバーは睨みつけることはやめたもののまだご機嫌斜めといった様子だった。
「故郷の森でもそんなことを言っておったな。まだ女子の裸は苦手なのか?」
「……うん」
再びアンバーに背を向けて座り直すジェード。
森育ちの妖狐は裸体を晒すことに羞恥心が薄いことは知っている。
しかしこういった種族間の考え方の差というものは、やはりすぐに埋まるものではない。
人間と妖狐の価値観の違いにはどう向き合っていけばいいだろう。
アンに人間の尺度でものを見るように言うのはなんだか気が引けるし、だからって僕が妖狐の価値観に合わせていくのも難しそうだ……。
あれやこれやと考えを巡らせてみるが、頭が痛くなりそうになる。
ジェードには、やはりこれがすぐに結論が出る疑問であるとは思えなかった。
そのときだった。
不意にジェードの首元に白い腕がそっと回され、後ろから温かな重みがのしかかってきた。
背中に感じる小さな膨らみの柔らかさに、ジェードは呼吸が止まり身体が固まった。
何が起きたのか一瞬混乱したが、どうやらアンバーが背中に抱き着いてきたようだということは想像がついた。
「……せっかく帰ってこられたというのに、さっきから主様はわしの方を見てもくれぬ。寂しいぞ、わしは」
「アン……」
先程までのように声を張り上げるのではなく、耳元でそっと囁くような彼女の言葉は、また違った意味で効いてくる。
「それは、ええと、許して欲しいところだな……。苦手なものはやっぱり苦手で……」
「大好きな主様がわしを見て苦手じゃと言うのは、なんだか悲しいのう」
「そう言われてもね……。君は恥ずかしくないのかい?」
「わしは主様に見られて恥ずかしいものなど持っておらぬ。わしはこの身も心もすべて主様のものじゃと思っておるのに、わかってはもらえぬのか……?」
「……」
背中にしがみついたまま寂しそうな声で話すアンバーに、ジェードは罪悪感が込み上げてくるのを感じた。
そうだ、アンは遭難していた僕らのことをずっと心配していたんだ。
街にいるからといって、彼女が不安と無縁だったかといえば決してそんなことはない。
なのにようやく戻ってきた僕にこんなよそよそしい振舞いをされたら、そんなの悲しくないはずなんかないのに……。
湧き上がる自己嫌悪。
彼女の一番の理解者でありたいと願いながら、まだジェードは彼女の思いときちんと向き合えていない。
大きく息を吸って覚悟を決めると、ジェードはアンバーの腕を解いてゆっくりと彼女の方を向き直った――
――のだが、すぐにアンバーの肩に手をかけ、彼女の身体を湯に沈めてしまったのだった。
「君のことが苦手だって言いたいわけじゃないんだ。だけど、ごめん。こればっかりは、すぐには慣れられそうにもないや……」
顔が熱い。
まだそんなに長く浸かっているわけではないのにのぼせてしまいそうだ。
きょとんとしたアンバーに見つめられながら、ジェードの視線はあちらこちらへと彷徨い続けて落ち着く場所を見つけられなかったのだった。
「ふむ、前にも言ったかもしれぬが、主様が照れる様子はなんだか可愛いのう」
「だから、それを茶化さないで欲しいんだけど……」
ジェードがようやく顔を見せてくれてアンバーもふふと笑っていた。
ところがふとジェードの胸元に目をやった彼女がはっと息を呑み、耳がしゅんと垂れ下がるのが見えた。
アンバーの視線の先――ジェードの胸には、かつて彼女の爪でつけた傷跡がくっきりと残っていたのだ。
「……まだ気にしているのかい?」
「気にするなと言いたいのじゃろう? じゃが、こればかりはどうしてものう……」
「まったく、君も僕のことは言えないじゃないか」
「本当じゃな」
アンバーは湯からそっと右手を持ち上げ、ジェードの胸の傷にそっと触れた。
爪痕をなぞる細い指がくすぐったい。
やがてジェードが物憂げな彼女の頭に手を乗せ、優しく撫でてやると、それで安心したのかアンバーは彼の胸元に身体を預けてきた。
甘えてくる彼女に応えようと、固まる身体を必死に動かすジェード。
髪が濡れているせいか、アンバーはいつもよりもずっと色っぽく見える。
すべすべした細い背中に手を回すと、普段抱き合うときとは違った感覚で脳まで熱くなってしまいそうになった。
とても柔らかく、温かい背中。
湯に浸かっているからというわけではなく、肌と肌が直接触れ合って感じる体温は、どこかいつも以上に深く、濃く染み渡ってくるような気がした。
後編へ続きます。




