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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
プラム編
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どう生きるか

 川辺で妖狐(ようこ)の少女と会った翌日。

 この日は雲一つない快晴の空の下で涼しげな秋の風が街を吹き抜けていた。


 描いた絵を一枚残らず紙屑にされてしまったが、大通りの隅っこに座るジェードは懲りもせずまた紙の上に炭を走らせていた。


 今日は意地でもここを動かない。


 彼はそう心に決めて朝一番から座っている。

 いつ来るかわからない、本当に来るのかどうかすらわからない妖狐(かのじょ)を待ちながら、ジェードはひたすら手を動かし続けた。


 まだ肌寒く人通りの少ない朝。

 他の街からやってきた荷馬車や出掛ける住民たちで賑わう昼下がり。

 あちこちの家から夕食のいい匂いが漂ってくる夕暮れ。


 ジェードはこの日のうちにそのすべてを経験したが、妖狐は彼の前に現れない。

 彼女を待っている間に、ジェードの周囲には数枚の素描(そびょう)が出来上がってしまっていた。


 来てはくれないか……


 昨日妖狐の少女と出会った時間はとっくに過ぎてしまっている。

 しかし彼女が現れる気配は一向に感じられなかった。


 この一枚が仕上がったら諦めよう。


 そう心に決めたジェードは、もうすぐ完成する絵の上に無心で画材を走らせ続けた。


 そのときだった。

 ふと視線を上げたジェードの目に見覚えのある姿が映った。


 金色を少し溶かしたような橙色の髪、ところどころほつれた質素な格好、折れそうなほど痩せ細った小さな肢体。

 初めて会ったときの妖狐の少女と極めて似つかわしい人物が、ジェードのいる大通りの反対側を歩いていた。


 思わずジェードは立ち上がり、背伸びをして少女を目で追う。

 しかしその姿を再び視界にとらえることはできなかった。


 見間違いだろうか。


 多くの商売人たちが家へと帰っていった黄昏時とはいえ、通行人の数は決して少ないわけではない。

 似たような外見の娘が一人や二人いたところで不思議ではない上、互いに大通りの両端にいたのでははっきりと確かめられない。


 彼女に焦がれるあまり、幻でもみたのだろうか。

 とうとう本当に頭がおかしくなってしまったかな。


 よくよく考えれば、妖狐(かのじょ)が会いに来たのであればそんなに遠くを歩くはずがない。

 まっすぐジェードの元へ向かってくればよいのだ。


 ジェードは再び椅子に腰掛け、素描の続きに取り掛かった。

 それから僅かに数分、とうとうジェードは最後と決めた絵を完成させてしまったのだった。


 やっぱりあれは泡沫(うたかた)の夢だったのか。


 包帯を巻いた首や胸の傷を思い起こしながら、ジェードは画材を道具箱に戻し、周りに広げていた絵をくるくると巻いた。


 すると、屈んで後片付けを行うジェードの隣に立ち止まった影が一つ。


 顔を上げるとそこにいたのは、待ち焦がれていた妖狐の少女の姿だった。


 彼女はジェードに対して横を向いたまま立ち止まり、まったくこちらを見ようとしない。

 ジェードの胸には一日中待ち続けた努力が報われた安堵が溢れると同時に、何をしているのだろうという疑問が湧いた。


「ええと、もう店じまいにしようと思ってたんだけど、見ていくかい? …………昨日ぶり」


 気の効いた言葉も浮かばず、なんとなく冗談を言ってみたが後悔しか残らなかった。


 その言葉を聞いてようやく少女はジェードの方を向いたが、その表情はなんとも形容し難かった。

 眉を釣り上げ、白い肌を真っ赤に染めて口をくしゃりと結び、目には大粒の涙が浮かんでいる。

 ジェードに対して怒っているのか、それとも今すぐ泣き出したいのか、どちらにせよ虫の居所が悪いことだけはすぐにわかった。


「……四回」


「……えっ?」


 何を数えたのかわからないが、少女はジェードにしか聞こえない蚊の鳴くような声で呟いた。


(ぬし)の前を通り過ぎた数じゃ! なぜ呼び止めてくれぬ! 本当は待ってなどおらんかったのか!?」


「えっと!? ごめん、気づいてあげられなくて……!」


 どうやら彼女はジェードに会いに街まで来たものの、彼に声をかけられずにいたようだ。

 ジェードは本当は自分を怖がってはいないだろうか。怪我をさせたことを恨んではいないだろうか。

 きっとそんな葛藤の中、この街までやってきたのだろう。


 そして気づいてもらえたらもう一度話をしてみようと思ったものの、下を向いて絵を描くジェードが簡単に気づくはずもない。

 気づいてもらえなかったものの諦めきれなかったのだろう、ジェードの前を何度も往復した挙句、結局自分から接触しに行ってしまったといったところだろうか。


「でも、あんなに遠くを歩いてたらわからないよ! 人通りだって少ないわけじゃないのに」


「気づいておったんじゃな……! 気づいておったのに主という男は……!」


「わかった、謝る! 遠すぎて見間違いかと思っちゃったんだよ……」


 思えば人間を恐れている彼女にとっては正体を知られた者に会いに行くなど、それだけでもかなり勇気が必要なことだ。

 それなのに自分から声をかけに来いなんてことを言うのは酷というものだろう。

 そう思ったジェードは、今回については自分に非があるとすることでおさめようとした。


 内気な性格故に相手に押されるとすぐに引いてしまう。

 自分の悪い癖だとわかってはいるのだが、簡単に治るものでもない。


「でも、嬉しいよ。こうして君がまた会いにきてくれて」


 少女は相変わらず泣きそうな顔をしたまま俯いている。

 その頭に耳はついておらず、腰にも尻尾は見られない。

 爪も牙も短くなっており、本当に人間のそれとまったく変わらない姿だ。

 妖狐は人に擬態するのが得意だとは聞いているが、本当に見事なまでに正体を隠せるものだと感心する。


「それじゃあ、どこかのお店にでも入ろうか。そろそろ冷えてくるし、ゆっくり話すならそのほうが──」


 歩き始めたジェードだったが、少女がついてこないことに気づいて足を止めた。


 どうしたんだろう。

 まだ怒っているんだろうか。


「……りが……よい……」


「ええと、なんて?」


 俯いたまま何かを呟く少女の声に先程までの猛りはない。

 まだ怒っているわけではないようだが、今度は極端に恥じらっているように見えた。


「主と二人きりが……よいのじゃが……」


 ジェードは自分の頬が熱を持つのを感じた。

 恋人を持ったこともないジェードは、妖狐とはいえ異性にこのようなことを言われたのは産まれて初めてである。

 さらに追い打ちをかけるように、潤んだ瞳の上目遣いがジェードの胸を突いたような気がした。


 妖狐がどのような意図でこう言ったのかはわからないが、ひとまずジェードは彼女の意思を汲み、人気のないところへ行こうと決めた。



 *****



 プラムの街の北の森。

 二人きりになれる場所を探したが街の中には見つからず、妖狐の少女とジェードは二度目に出会った川辺へとやってきた。


 先導していたジェードが、ちゃんと彼女がついてきているか確かめようと振り返る。

 すると、いつの間にか後ろを歩く少女には耳と尾がついていた。


「ねえ、その耳と尻尾は普段どうやって隠してるの?」


 川辺に腰を下ろしながらジェードは少女に尋ねた。


「どうやってと言われても困るのう」


 ジェードの問いに対し、妖狐は少し距離を空けて隣に腰掛けながら答えた。


「わしら妖狐(きつね)にとっては物心ついたときからできる当たり前のことじゃから、立ったり歩いたりと大して変わらぬのじゃが」


「そうなんだ。じゃあずっと隠していれば妖狐だって気づかれないんじゃない?」


「ずっとはできぬのじゃ。今のような中途半端な姿に化けるだけなら容易なのじゃが、耳や尻尾、爪や牙を隠すには多く養分を使うのでな」


「養分……ええと、つまり?」


「ずっと隠しておると、ものすごく腹が減るのじゃ」


 随分と野性的な原動力であるが、しかしこれで合点がいった。

 だから彼女は既に正体を知られているジェードの前では余計な消耗を抑えるため、最低限の扮装で済ませているのだ。

 逆に街の中を歩くときは自分の正体に気づかれるわけにはいかない。

 耳や尾といった特徴的な部分もすべて隠しておく必要があるということだ。


「それはそうと主、怪我の具合はどうじゃ?」


 妖狐はジェードの首に巻かれた包帯を痛々しそうに見つめながら呟いた。


「ああ、君の応急処置がよかったのかな、割と平気だよ。触るとまだ少し痛いけど」


「本当にすまぬ……」


「それは昨日も聞いたよ、怒ってないから気にしないで」


 せっかくまた会えたというのに、妖狐はまたしょんぼりとしてしまった。


「ねえ、ひとつ教えてくれないかな──」


 これでは昨日のような気まずい空気になりそうだと予感したジェードは、話題を変えようとした。


「さっきの言葉は……二人きりがいいっていうのはどういう……?」


 ジェードは街で妖狐が口にした言葉の真意を問うた。

 まさか自分のことを好いているなどとは思っていない。

 きっと他の意味があって言っているのだから気にしないでよいとは思っているのだが、やはり尋ねずにはいられなかった。


「それは、わしがまだ慣れておらぬからじゃ……人間に」


 ほら、やっぱりそうだった。

 わかっていたとも、うん。


「たくさんの人間に囲まれるのはやはりまだ怖くての。わしが妖狐(きつね)じゃと気づいておらぬうちはよいが、気づかれたらどんな顔をされるか……」


「街にはよく来てるって言ってなかった? それなのに人に囲まれると嫌なの?」


 ジェードが妖狐の絵を描く前、彼女は確かにそう言っていた。

 本当に楽しかった久々の客人との会話だ、一言一句忘れてなどいない。

 それともあれは適当に話を合わせるための方便だったとでも言うのだろうか。


「街によく行くのは本当じゃぞ。ただ、今までは陰から人間たちを見ておるだけじゃったから……」


「なんでそんなことを?」


「……憧れだからじゃ」


「憧れ……?」


「そうじゃ。"生きるために"生きておるわしら妖狐(きつね)と違って、人間は生きることにいろんな目的や意味を見出しておるじゃろう? わしはそんな人間の生き方に憧れておる、と言えばわかるかの」


 妖狐はちらちらとジェードの顔色を伺いながら返答を述べた。

 その返答はジェードにとってはまったく予想もしていなかったものである。


 ジェードは妖狐の言っていることがなんとなくわかる気がした。

 自然の中で動物や獣といった存在が持っているのは、食事にありつき、安全な場所で眠り、子孫を残すという循環。

 それは生命維持や種の保存のための本能的で生理的な欲求に基づいている。


 しかし人は"生き甲斐"を非常に重視する。

 動物たちのような生理的欲求も持っているが、それとは別に"自身の生きる意味"を求めるのが人間というものだ。

 商人たちが富を手にしたり、政治家が上へと成り上がることで他者に認めてもらおうとしたり、芸術家が生きた証を作品として残したりするのがいい例だ。


 おそらく妖狐が言いたいのはこういうことなのだろう。

 生きていることはそれだけで奇跡であるというのに、人間とはどこまでも欲深い生き物である。


「別にこの森で妖狐(きつね)として生きていくことに不満や不都合があるわけではない。じゃが、"生きるためにどうするか"ではなく、人間のように"どう生きるか"を追い求める生涯は、わしの目にはとても華やかに見えたのじゃ……」


 ジェードは言葉を失った。

 街の人々に忌み嫌われる妖狐である彼女だが、こんなにも美しい心と感性を持っている。


 心は人間と変わらないのに、どうして互いに歩み寄ることができないんだろうか。


「だから人間の近くでその生き様に触れたかったと、そういうことかい?」


「うむ、その通りじゃ」


「なるほど納得した。ねえ、もう一つ聞いてもいいかな?」


 ジェードの言葉に俯いていた顔を上げた妖狐はこくりと小さく頷いてみせる。


「さっき君は、いつも"陰から見ているだけ"だったと言ったよね。なのに僕に近づいてきて話をしてくれたのはどうしてなんだい?」


「それは主が一人ぼっちだったからじゃ」


 その言い方はなんだか応える。間違ってはいないんだけど……


「主は一人で絵を描いておったし、街の人間も誰も主に近づこうとはしておらんかった。それがわしには好都合じゃった。産まれて初めて人間と話すことができる機会かもしれぬと思ったのじゃよ」


「あはは、僕を選んだというよりは成り行きだったわけか……」


 多くの人間が集まる場所を苦手とする妖狐。

 今までは人間に近づくだけで接触は避けてきた妖狐。

 そんな彼女が勇気を振り絞って初めて話をしてみた人間がジェードだった。


 ところがその結果、彼女はジェードを恐れて逃げ出す事態となってしまった。

 きっとあのときは後悔の念も大きかったことだろう。やはり見ているだけにしておけばよかった、と。


「確かに最初は成り行きじゃったかもしれぬ。じゃが今は、他でもない主だから近づきたい、話がしたいと思っておるのじゃ」


「……というと?」


 ジェードが説明を求めると、妖狐は頬を赤らめて俯いてしまった。


「主はあのとき、わしに触れたじゃろう……?」


 妖狐に川辺で襲われたあのとき。

 酸欠で意識が朦朧とする中、目の前にいる少女の姿に心を奪われ、気がついたら手を伸ばしていたあのときだ。


「あぁ、うん。頭がぼーっとしててよく覚えてないけど、多分。」


 白肌を真っ赤に染め、恥ずかしそうな上目遣いで見つめる妖狐の顔を見ていると、なんだが自分まで気恥ずかしくなるようだ。


「主なんじゃよ、わしの……"初めて"は……」


「ええと、"初めて触れたのが"ってことでいいんだよね? なんだか誤解が産まれそうな言い方はやめて欲しいな?」


 妖狐の表情と言葉にジェードの顔が熱を持ち、猛った心臓が容赦なく胸の内側を叩く。

 この異様に胸の中がふわふわするような背徳感はなんなのだろうか。


 恋人と話していて気持ちが高ぶるというのはこんな感じなのだろうかという考えがジェードの頭をよぎるが、なんせ恋人などいたことがない彼には確かめようがない。

 さらには目の前にいるのは人間ではなく妖狐だ。

 彼女を相手にこのような気持ちになってよいのかもわからず、背徳感は増す一方であった。


 しかし同時に妖狐の言いたいこともなんとなく伝わってきた。

 ずっと遠目に憧れるだけの存在だった人間。

 その中でも産まれて初めて会話したジェードという男。

 その男が自分に触れたという事実──妖狐である自分は人間に疎まれるものだとずっと思ってきた彼女にとって、これ以上に胸を打つ出来事はないのかもしれない。


「なあ、主よ──」


 頭の中も胸の中もよくわからない感情でいっぱいいっぱいのジェードの眼を、妖狐は真っ直ぐに見据えて彼を呼んだ。


「──もう一度、触れてはくれぬか……?」


 妖狐の潤んだ瞳に見つめられ、ジェードの胸の中に突風が吹き抜けるような感覚が走った。

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