世話焼き番頭
暖簾をくぐると、足元には石畳が敷き詰められていた。
石畳の真ん中は大きく窪んでいて、窪みの縁には丸く削られた石が円を描くように並べられている。
その広さは宿泊客が二十人ほど同時に湯浴みを楽しめるくらいだろうか。
二人で使うには些か大きすぎるほどの湯船を覗き込むと、脛ほどの深さまで溜まった水面から微かに湯気が立ち昇っていた。
「ほほーう。ここに足を浸ければよいのか?」
「うん、そうだよ」
「熱いじゃろうか」
「あはは、大丈夫だよ」
温泉に浸かるつもりが予想外の足湯となってしまったが、尻尾をパタパタと振るアンバーはとても嬉しそうにしている。
彼女は温泉は初体験だと言っていたが、それはジェードも同じであった。
あまり裕福ではないジェードの実家には風呂場などなく、彼はいつも井戸水を固く絞った布で身体を拭いていた。
たまに石鹸が手に入ったときはそれで身体や髪を洗うこともできたが、冷たい井戸水は冬の身体には特に応えたのだった。
アンバーは足の指先を浸けたり持ち上げたりしながら湯の温度を恐る恐る確かめている。
それを横目に微笑みながら、ジェードは脱衣場で靴を脱ぎ去った素足をするりと湯の中へ滑り込ませた。
湯の表面に波紋が広がり、湯船の壁に当たって跳ね返ってくるのが見える。
じんわりと指先から染み込んできた熱で血液が温められ、ふくらはぎから太ももへと昇ってくるのがわかった。
「足しか浸かっておらぬのに、身体中が温まる感じがするのう」
「本当だね、すごいなぁ」
「どうだ、うちの湯は。気に入ったかー?」
不意に脱衣場の方から威勢のいい声が聞こえた。
振り返ると受付をしていた金髪の女がこちらに向かって歩いてきていた。
アンバーは慌てて耳と尻尾を隠していたが、女がそれに気づいた素振りはなかったため一安心だ。
「ここの湯は肩凝りや腰痛、皮膚病なんかには特に効果があるんだ。ま、今は足湯だから、血の巡りを良くして身体を温めたり、足のむくみをとったりするくらいだが」
ジェードとアンバーが腰かけるすぐ後ろまでやってきた女は誇らしそうにそう言って笑った。
「確かに。この街まで歩いてきて疲れ切った脚が生き返るみたいだよ」
「脚ってのはデカい筋肉や神経が集まってる、言わば第二の心臓だからな。疲れを残さねーようにしっかり休めておけよ」
「へえ、随分詳しいんだね」
「職業柄な。うちの家系は先祖代々この温泉宿を守ってきたんだ。これくらいの知識がなきゃ、ここの番頭は務まんねーよ」
両手を腰に当てた彼女の立ち姿は威厳に満ちていた。
その若さには似つかわしくないほどの堂々とした風格はジェードも見習いたくなるほどだ。
「そうだ、何か飲むか? ここまで持ってきてやるよ」
「いやいやそんな、そこまでしてもらわなくても──」
「いいんだいいんだ。どーせ他の客もいねーし、だったらアンタらに精一杯贔屓させてもらおうじゃねーの」
遠慮するジェードの言葉に耳を貸すことなく、女は浴場を去っていった。
言葉遣いも荒く、態度も粗雑な面があるものの、彼女はこの仕事に誇りを持って取り組んでいるのがなんとなくわかった気がした。
不意に、間隔を空けて隣に座っていたアンバーが少しだけジェードの方へ寄ってきた気がした。
彼女の方へ視線を向けると目が合う前にそっぽを向かれてしまったが、じっとりと睨まれていたことにはまったく気づいていないジェードであった。
「おう、米の酒と山羊の乳を持ってきたんだが、どっちがいい?」
数分後、金髪の女は片手に盆を載せて浴場へと戻ってきた。
盆の上には徳利と猪口、それから真っ白な中身の詰まった瓶がそれぞれ二人前ずつ用意されていた。
「わざわざ済まないね。ええっと……?」
「ああ、エヴァだ。よろしくな」
そう名乗った女はジェードたちの後ろに膝をついた。
「僕はジェード。旅の絵描きだ。彼女は連れのアンバー。こちらこそよろしく」
「ジェードにアンバーだな。よし、覚えた!」
二人の顔を交互に見合わせたエヴァは歯を見せてニカッと笑った。
最初は少し身構えもしたが、彼女は思ったより接しやすい性格をしているようにも思えた。
「んで、どっちを飲む?」
「そうだね、せっかくだから僕はお酒をもらおうかな。連れには山羊の乳を」
「あいよっ!」
盆を床に置いたエヴァは猪口をジェードに手渡すと、徳利から酒を注いだ。
ジェードは女性にお酌をされるのは初めてのことだったが、エヴァは随分慣れた手つきであるように見えた。
「主様だけ酒を飲むのか? ずるいぞーっ!」
「君が飲むと大変なことになるだろう……?」
ジェードの隣に手をついて身を乗り出すアンバーは羨ましそうに猪口を見つめていた。
しかし彼女に酒を飲ませるわけにはいかない。
先日アンバーが酒に酔って人への擬態ができなくなったとき、ジェードは本当に冷や汗が止まらなかった。
酒に興味があるのはわかっているが、せめて他に誰もいないときでなければとても飲ませられない。
「なんだ、アンバーは酒に弱いのか? 確かに強そうには見えねーな」
山羊の乳の瓶から栓を抜きながらエヴァはニヤニヤと笑っていた。
面白くなさそうな顔をしたアンバーは半ば強引にその瓶を受け取ると、中身を一息に飲み干してしまった。
「…………む、美味いではないか」
「当ったり前だ。宿の裏で飼ってる自慢の山羊たちの乳なんだからな。他の宿じゃ飲めねーぜ?」
アンバーの反応を見てまたもにやけ顔を見せたエヴァ。
悔しそうに瓶の口を齧りながらエヴァを睨むアンバーの姿がとても微笑ましく、ジェードも酒が進むのだった。
*****
「おや、いつの間にかこんな時間だったんだね」
浴場を出ると街はぼんやりと薄暗くなっていた。
本当なら夕焼けが綺麗な黄昏時であるはずが、どうやら噴火の影響で火山灰が舞っているらしく、景色はあまりいいとは言えない。
「そんじゃ、晩飯の支度でもするか。出来上がるまでその辺で座ってな。なんなら部屋にいてもいいぞ、呼びに行くからよ」
エヴァに連れられてジェードとアンバーは宿の広間へとやって来た。
使い古された木の匂いが鼻をくすぐるこの空間の雰囲気はとても居心地がいい。
長いテーブルが数台置かれたこの場所がおそらくこの宿の食事処なのだろう。
ここでもアンバーの好奇心は健在で、何か見つけた様子の彼女は広間の奥へと一人で入って行ったのだった。
「いいや、ここに居ようかな。何から何まで済まないね」
「客がいちいちそんなこと気にすんなよ。こっちは仕事でやってんだからな」
そう言って広間の隣にある厨房へ向かうエヴァが小さな溜め息を漏らすのをジェードは見逃さなかった。
「……エヴァ、どうかしたのかい?」
「ああ、いや、大したことじゃねーよ。ただ、実はアタシは料理があんま得意じゃなくてな」
今までの様子と打って変わって、エヴァは照れ臭そうに頬を掻いていた。
そんな中、アンバーは広間の至る所に飾られた木彫りの置物をずっと物珍しそうに眺めているのだった。
「普段はちゃんと料理人がいるんだが、今は事情があってアタシ一人で宿を回してるんだ」
「それは大変だね。なら、夕食は僕に任せてくれないかな?」
「はぁ!? なんでそうなるんだ!?」
早速その気になったジェードが張り切って腕まくりをする様子にエヴァが取り乱した。
大きな胸を揺らしながら目の前まで迫ってくるエヴァはいろんな意味で威圧感がある気がした。
「えっと、実は僕の実家は小料理屋でね。決して味は悪くないと思うんだけど」
「そういうことが言いたいんじゃなくてだな。アンタらは客なんだからのんびりしてろよ!」
「いいからいいから。君のもてなしへのせめてものお礼だよ」
エヴァの制止も聞かず厨房へ入ったジェード。
二人の騒ぎを聞きつけたのか、木彫りの置物を眺めていたアンバーも厨房の前までやって来た。
「なんじゃ? 主様が作るのか? 久し振りに主様の手料理が食えるのう!」
「昨日野宿した時にも作ったじゃないか」
「あれはわしが捕まえた野鳥を焼いただけではないか。そうではなくて、もっとちゃんとした手料理が楽しみなのじゃよ!」
アンバーはそう言ってぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいた。
いつものことながら、自分の手料理をここまで楽しみにしてくれる彼女のためなら作り甲斐もあるものだ。
「へー、アンバーは狩りができんのか。華奢な割に意外と逞しいんだな」
エヴァの言葉にジェードもアンバーも口籠った。
アンバーの正体が妖狐である事実についてほんの少しだけ墓穴を掘った気がしないこともない。
「……ま、まあの! なに、飛びかかって"ガッ!"と掴むだけじゃ。誰でもできるぞ!」
「素手で捕んのか!? いやいや誰でもはできねーよ。アンバーはすげーんだな」
掘った穴がさらに深くなった気がした。
これ以上この話を続けると本当に正体に気づかれてしまいそうだが、エヴァは特に気にする様子もなかったため安心してよさそうだ。
アンバーの合流もあって二対一。
ジェードは上手くエヴァを言いくるめて厨房に立つことを許された。
どんな事情があるかは知らないものの、人手が足りないのなら少しくらい手伝いたいと思うのがジェードの人柄というものだった。
ジェードが夕食を作る間、アンバーとエヴァの二人は広間のテーブルについていた。
自分がフォローできないのは少しばかり心配だが、アンバーにもたまにはジェード以外の人物と二人で話す機会があってもよいだろう。
アンバーはもう人間に対して過度な恐怖心を抱くことはなくなったようだが、果たしてエヴァと上手くやれるだろうか。
そんな一抹の不安を抱えながらも、ジェードは何も口出しすることなく見守ってやろうと決めた。
まあ、どうせ厨房からじゃ彼女たちの会話は何も聞こえないしね。
広間のテーブルに向かい合って座ったアンバーとエヴァ。
隣にジェードがいなくて緊張しているのか、アンバーは両手を膝に置いて背筋を伸ばしている。
エヴァはというと頬杖をついて脚を組んでいた。
どうやらこの姿勢が一番落ち着くらしい。
「なあ、いきなり不躾なことを聞くようで悪いんだが──」
先に口を開いたのはエヴァだった。
彼女の言葉を聞いてアンバーもエヴァに視線を向けた。
「アンタら二人はあれか? "デキてる"ってことでいいのか?」
テーブルに身を乗り出したエヴァがアンバーにそっと耳打ちした。
「……はて、何ができておるというのじゃ?」
アンバーの視線は一瞬テーブルの上に載ったエヴァの大きな胸に向いたが、彼女の問いかけにはすぐに答えた。
といっても、質問に質問で返す形になっているのだが。
「おいおい、人が遠回しに聞いてやってんのに鈍いな、アンタは」
呆れた声を漏らすエヴァが背もたれに身を委ねる。
その様子を見つめるアンバーの視線は、やはりのけ反って強調されたエヴァの胸元に無意識に向いてしまっていた。
「つまりあれだよ、アンタとジェードは"恋仲"なのかって聞いてんの」
「"コイナカ"……というのもわしにはよくわからぬのじゃが」
「ありゃ、そう。好きだから一緒にいるってわけじゃねーのか」
アンバーの答えにエヴァは残念そうな表情を浮かべた。
アンバーにとっては何がそんなに残念なのか見当もつかない。
「そんなことはないぞ。わしはあの者のことを好いておるが、これは主の言う"コイナカ"とは違うのか?」
「恥ずかしげもなく言えるのがすげーな。まあアンタが好きでも、ジェードがそう思ってないんなら違うんじゃねーの?」
「あの者もわしのことを好いておると言ってくれたぞ?」
「じゃあやっぱり恋仲なんじゃねーか。なんで自覚がねーんだよ、不思議なヤツだな」
何も聞き取れないものの、厨房から見る限り二人は何やら楽しそうに話しているように見えた。
どうやら仲良くなれたようだとジェードもほっと胸を撫で下ろした。
その後もうしばらくして夕食を完成させたジェードは、二人の待つテーブルへと自慢の料理を運んだ。
どういうわけかエヴァがニヤニヤとした視線を向けてきている気がしたが、敢えてそのことには触れないことにしたジェードだった。




