湯の街
今回より第三章、バーデン編が開始です。
涼しげな風が吹き抜ける小道。
その両側は深い緑で覆われた林が広がっていて、空気が非常に澄んでいる。
早めの昼食を済ませた身体には、木々の隙間から小道へ差し込む暖かな日差しが染み渡るようだ。
いっそこの道の真ん中で横になって、眠りこけてしまおうか。
案外そんな過ごし方も悪くないと思えるほど気分のよい陽気。
その中をよたよたと欠伸をしながら歩く青黒い髪の青年は、地図を取り出そうと背負った鞄へ手を伸ばした。
「主様ーっ! あとどのくらいで着くのじゃー?」
「ちょっと待ってくれー! 今地図を見るからー!」
随分小さく聞こえる、小鳥がさえずるような澄んだ叫び声。
その声の主は青年の小指の爪くらいの大きさに見えるほど先を一人で歩いている。
些細な会話にもかかわらず大声を上げなければならないのは、眠気が襲い来る身体には少しばかり苦行だ。
「わしも見るーっ! 主様早く早くー!」
「そんなに急がなくても街は逃げないよー! というか、君地図読めるのかいー?」
「あはは、読めぬー!!」
先を歩く少女に聞こえぬよう「じゃあ見ても仕方ないじゃないか」と小言を呟く。
それでも彼女は"一緒に同じことをする"のが楽しいのだと、彼は知っている。
やれやれと溜め息をつきながらも、青年は先で待つ少女の元へと足早に向かった。
足を進めるとそこで待っていたのは、質素ではあるが小洒落た衣服に身を包んだ琥珀色の髪の少女。
雲一つない快晴の空を封じ込めたような水色の瞳が、愛しい者の駆け寄ってくる姿を嬉しそうに映している。
「あれから大きな川を渡ったから、今はちょうどこのあたりかな?」
「ほほう、ではもうすぐではないか?」
「そうだね、これから小さな山を一つ越えたらすぐだ。今夜は野宿しなくて済むぞ」
地図を指差しながら推論を述べる翡翠色の瞳の青年の名はジェード。
旅をしながら見た様々な光景を紙の上で表現する絵描きだ。
「別にわしはまだ野宿でも構わぬぞ。主様の隣で寝られるならどこでもよいからの!」
そう言ってジェードの腕にしがみつく少女の名はアンバー。
見た目は人間とそっくりなものだが、実は彼女の正体は物の怪の類である妖狐だ。
その証拠となるのが頭の上にピンと立つ獣の耳と、腰から垂れ下がった太い尾である。
普段は人間に擬態するため不思議な力で隠しているのだが、正体を知るジェードと二人きりの時はこうして耳と尾をさらけ出している。
「僕はそろそろベッドで寝たいな。何日か野宿続きだから背中が痛くって」
「ではさっさと山を越えてしまおう! そうすればふかふかのベッドが待っておるぞ!」
「さっさと、ね……」
森育ちのアンバーと比べて体力に自信がないジェードは山越えが少し憂鬱に思える。
早く次の街には辿り着きたいが、山越えは疲れるためあまり急ぎたくはない。
ああ、板挟みだなぁ。
こういうときはどこかに腰を下ろして紙を広げて絵を描いて、そうやって現実逃避したい。
「では行くぞーっ!!」
そんなジェードを他所に、アンバーは腕を掲げて意気揚々と進み始めた。
まあ、そうなるよね。
楽しそうな彼女の姿を見ると思ったよりあっさり諦めがついた。
地図を丸めて鞄に差し直したジェードは「はいはい」と呟き、先を歩く少女に続くのだった。
平坦だった道は次第に山道へと変わっていく。
登り坂も増え、ジェードは早くも息が上がり始めていた。
軽い足取りで先を進むアンバーの体力を少しばかり分けて欲しいものだ。
「わあーっ! 主様大変じゃ!!」
不意にアンバーがただ事ならぬ叫び声をあげた。
「なに、どうしたんだい、アン?」
「あそこじゃ! あそこで山火事が起きておる! かなり大きいぞ!!」
真っ青な顔で彼女が指差す方角を見ると、隣の大きな山の頂上から太い煙が空へと立ち昇っていた。
しかしその正体を知るジェードにまったく焦る様子はなかった。
「あはは、山火事じゃないよ。あれは火山だ」
「カざン……?」
「見るのは初めてかい? あの山の中は岩を溶かすほどの高熱になっているんだ。だからああして煙が昇っているのさ。山が燃えているわけじゃないから安心していいよ」
「そうじゃったか。不思議な山じゃの」
ほっと胸を撫で下ろすアンバーを見て、ジェードも息をついた。
また雨乞いをし始めるのではないかと一瞬肝を冷やしたが、その心配はなさそうだ。
もうしばらく歩くと、山越えも折り返しに入ったのか下り坂が増えてきた。
それと同時に山道の空気が少しばかり硫黄臭くなってきた。
ずっと火山の風上を歩いていたため空気が澄んでいたが、どうやら山越えの途中で風向きが少し変わったらしい。
人より嗅覚が敏感なアンバーにはこれが応えたようで、彼女は臭いに慣れるまで鼻をつまんで歩いていた。
「む? なんじゃ、土の中から水が噴き出しておるぞ?」
すっかり木々が少なくなった砂利道の端で、アンバーはしゃがみ込んで何かを見ている。
ジェードが歩み寄ると、微かに蒸気を昇らせる小さなせせらぎのようなものがあった。
「どれどれ……わっ、思ったより熱ッ!」
「主様!? 熱いのか!?」
せせらぎに触れたジェードは慌てて手を引っ込めた。
驚くアンバーと対称的に、彼は少しばかり嬉しそうな表情を浮かべた。
「すごいよアン! このあたりは火山地帯だから、温泉でも湧いてるのかもしれない!」
「……オんせン?」
また現れた新しい言葉にアンバーが首を傾げた。
「あ、えっと、温泉っていうのはね、地下水が火山の熱で温められたもののことだよ。アンは湯浴みをしたことはないかい?」
「湯浴み……水浴びなら森で毎日しておったが、湯を浴びるというのは初耳じゃのう」
「もしかしたら次の街でできるかもしれないよ。こんなに近くで湧いているなら、きっと温泉宿の一つくらいあるだろうから」
「それは楽しみじゃのう! 早く行くぞ主様!!」
アンバーはジェードの手を取って再び歩き出した。
山を一つ越えて疲れも見られるジェードは、半ば彼女に引きずられるように歩きながら次の街を目指したのだった。
*****
「うん、着いたね──」
それからはそう長く歩くことはなく、二人は街の東側の門に辿り着いた。
「間違いない。この街が"バーデン"だ」
すっかり古びた門をくぐり、街の中へと足を踏み入れる。
しかしその光景は、プラムやフィスキオ等のこれまで訪れた街と比べると随分物寂しい気がした。
街全体がぼんやりと薄暗く、人通りもあまり多くないのだ。
その理由は少しばかり気になったが、ひとまずは山越えで疲れた身体を早く休めたい。
至る所に並んだ看板を見ると、やはりここは温泉宿が多く存在する街であるようだった。
どの宿にするか目移りしそうだったが、二人はその中でも看板や入口の掃除が特に行き届いた宿を選んで中に入った。
「……らーっしゃいー」
「えっと、どうも。二人部屋に空きはあるかい?」
出迎えてくれたのは、ジェードと同じくらいの髪の長さの金髪の人物だった。
年齢もジェードと同じくらいか、あるいは少し年長といったところだろう。
細い目が睨みつけるような眼光と耳についた大きなピアスの威圧感に少したじろいでしまいそうになる。
その雰囲気はいかにも男らしいが、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだその豊満な体型から、この人物が女性であることはすぐにわかった。
「んああ、こっからここまで全部二人部屋だ。どーせ他の客もいねーし、好きなとこ使いな」
「そ、そうかい。あはは……」
そう言って受付の女性は、頬杖をついたまま卓の上にずらりと並べた鍵を指差した。
口の悪い彼女の姿に、少しはずれくじを引いた気がしないこともない。
適当な鍵を受け取ったジェードとアンバーは廊下を歩く。
その先の部屋に入ると、中はとてもよく整えられていて居心地がよさそうであった。
宿の入口といい部屋といい、受付の女は態度こそ悪かったが仕事はきっちりしているようだ。
「おおー! よい部屋じゃの! ……む、主様、ベッドが二つあるぞ?」
「二人部屋を借りたんだから、それはそうだよ。今は無理して一人部屋に泊まるほど困窮していないからね」
鞄を下ろして上着を脱ぐジェード。
重たくなった身体を休めたいところであったが、何故か少し不満そうな顔をしたアンバーの視線のせいでどうにも落ち着かなかった。
「まあ、よいか。それよりも主様、早く湯浴みに行くぞ! ここでならできるのじゃろう?」
「あはは、来るなりいきなりだね。わかったよ」
ぴょんぴょん跳ねるアンバーは、初体験の湯浴みに興味津々といった様子だ。
そんなアンバーの頭をそっと撫でて落ち着かせると、ジェードは彼女を連れて部屋を後にした。
*****
「──えっ……お湯がない?」
「ああ、そーだ」
受付をしてくれた金髪の女の元へ戻ってきたジェードは彼女の言葉に耳を疑った。
温泉宿だというのに、ここの湯船には人が浸かれるだけの湯が張られていないというのだ。
「それは一体どういうことだい? もしかして、他のお客がいないって言っていたのと関係が?」
「なんだ、アンタらこの辺の人間じゃねーのか。じゃあ知らなくても仕方ねーか」
そう言って女が背もたれに身を委ねると、座っている椅子がぎしっと音を立てた。
「実は一週間くらい前にあの火山が噴火してよぉ。それからというもの、この街に流れてきていた湯がごっそり減っちまったんだ」
そう言って女は窓の外で噴煙を立ち昇らせる火山を親指で指し示した。
「今はどこの宿も似たような状況でな。おかげで温泉目当ての観光客も来なくなっちまって商売あがったりだ。今は足湯程度の量しかねーが、それでもよけりゃ浸かっていきな」
「そうかい……。どうする、アン?」
「ふむ、足しか浸かれぬのか。わしはそれでも構わぬ、行こう主様!」
一応アンバーの意見を仰いだが、答えは予想通りだった。
彼女は全身であろうが足だけであろうが関係なく、初体験の温泉が楽しみで仕方ないのだ。
「じゃあそうしようか。浴場はどっちだい?」
「そこの廊下の突き当たりだ。一応言っとくとウチは混浴だが、足湯だったらまあ問題ねーだろ」
そう言って女は後ろの棚から二枚の手拭いを取り出し、ジェードに渡した。
これもまた手入れが非常に行き届いているようで、指に吸い付くような優しい手触りがとても心地よかった。
ジェードは女に礼を述べると、先に走って行ったアンバーに続いて廊下を進んだ。




