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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
フィスキオ編
30/126

答え

 ぶつかるように宿屋の戸を開け、中へと駆け込む。

 一階の酒場でグラスを磨く従業員が驚く様子も気にとめることなく、ジェードは部屋までの階段を一気に駆け上がる。

 そして自分が借りている部屋の前まで辿り着くと、走ってきた勢いそのまま転がり込むように部屋の扉を開けた。


 目に入ってきたのはベッドに腰かけた琥珀色の髪の少女。

 彼女はジェードが戻ってきたことに気づくと慌てて目を背けた。

 後ろを向いた彼女の頭の上で垂れた耳がぴくぴくと動く。

 やがて小さく鼻をすすって目元を拭い、アンバーはにっこり微笑みながらジェードの方を振り返った。


「おお、戻ったか主様(ぬしさま)。いやあ、実に素晴らしい演奏じゃったのう!」


 顔は笑っていても、垂れた耳と赤くなった目元が本音を物語っている。

 どう声をかけたらいいかわからないジェードは、ゆっくりと部屋に踏み入るとアンバーの隣に腰かけた。

 ジェードの体重を受け止めたベッドが弾み、アンバーの身体が上下に揺れる。

 彼女の隣で何を言えばいいか考えながら、ジェードは荒げた呼吸を整えた。


「……ねえ、アン──」


「──怒ってはおらぬ」


 ジェードの一言目は俯いたアンバーの呟きに搔き消された。

 すうっと息を吸ったアンバーは、隣に座るジェードに向けて顔を上げるともう一度静かに微笑んでみせた。


「主様は本当に優しいお人じゃからのう。目の前で苦しんでおる者がおったら見捨てておけぬのじゃろう。わしのために火の海になった森に飛び込んできてくれた、あの時のようにの」


 アンバーはにっこりと笑ったまま文句の一つも言ってはくれなかった。

 拗ねてもう一度蹴飛ばしてくるような様子を見せてはくれなかった。

 そのほうがジェードにとっては遥かに気が楽だったかもしれないのに。


「わしは主様のそんなところも含めて好いておったし、じゃからこそ一緒におりたいと思ったのじゃ。じゃから、怒っておらぬ」


「…………」


 言葉が出てこない。

 真っ先に謝らなければならないはずなのに、ジェードは唇を噛み締めながら膝の上で拳を握ることしかできなかった。


「……ただ、正直に言うと、少し悲しかった。わしと一緒に舞台を見ると約束したはずじゃったのに、主様は他の女子(おなご)のところへ行ってしまって隣にはおらんかった。それが少し……ほんの少しだけじゃが悲しかった」


 息が詰まるかと思った。


 僕はなんて大馬鹿者なんだろうか。

 一番大事な人との約束を破ってまで僕がしたことは、本当に正しかったと言えるのだろうか……?


「主様が迎えに行ったおかげで、ビアンカは舞台に上がれたのじゃろう? 彼女と主様の間には、さぞかしよい信頼関係が出来上がったのじゃろうな」


「……アン?」


 微かに何かを含んだような言い回しが、やけにジェードの耳に障った気がした。

 それを察したアンバーは、再び俯くと膝に置いた手を震わせながらさらに続けた。


「もし……主様がもしビアンカと共に行きたいと言うのなら、止めはせぬ。わしはどこか、適当な山にでも住み着けばよい話じゃ」


「アン……? 何を……言っているんだい……?」


 ジェードの手も震え始め、背中に冷たい汗が流れる。

 彼女の言葉をこれ以上聞くことに耐えられないと全身が悲鳴を上げている。


「わしのことなら心配は要らぬぞ。森暮らしに慣れておるのは、主様もよく知っておるじゃろう?」


「ちょっと待ってくれアン、どうしてそんなことを言うんだい……?」



 君の元を去ろうだなんて。

 そんなこと、これっぽっちも思っていないのに……!



 心が叫ぶが声にならない。

 内側から胸を食い破ろうとする何かが呼吸の邪魔をするようで苦しい。

 それでも留まることを知らない息苦しさは、ジェードの中でさらに大きく膨れ上がっていく。


「わしは主様のことを好いておる。じゃから主様の幸せの邪魔はしとうない。わしよりビアンカを選ぶというのなら、わしは潔く主様の元を──」


「──アンバーっ!!!」









 膨れ上がった思いを一気に吐き出すように名前を叫ぶと、ジェードは目の前の少女を力の限り抱き寄せていた。

 全身の筋肉がみしみしと音を立てるほどに抱き締めた彼女の身体は今にも折れてしまいそうだ。

 しかしそれでも離そうとはしない。このまま離したくはなかった。


「やめてくれ……。君の口からそんな言葉は聞きたくない……」


「……じゃが、主様──」


「──何も言わないでくれ!!」


 耳元で声を荒げるジェードに、アンバーの肩がびくりと反応する。

 無意識に強い口調になってしまったのは自分の不甲斐なさに腹を立てているからなのか、それとも聞きたくない言葉ばかり並べる彼女に怒っているからなのか、ジェードにももうわからなかった。


「どうして自分の気持ちに嘘をつくんだい……。僕は自分の気持ちに素直になり過ぎた。そのせいで君をこんなに傷つけたのに、どうして君は平気で嘘をついて笑っていられるんだ……」


 約束を破ってまでビアンカを助けたいと思ったのはジェードの我儘だ。

 本当なら彼女はそれを簡単に許すべきではない。

 そのはずなのに本音を隠して身を引こうとするアンバーの姿が──いや、彼女にそうさせてしまった自分自身が、ジェードはどうしても許せなかった。




「強がるのはやめてくれ。僕の前では自分に嘘をつかないでくれ。君は僕のことを好きだと言ってくれる。そんなの僕だって同じだ────僕だって、君のことが好きなんだよ!!」




 初めて、誰かに好きだと言った。




 今まではっきりとわからなかった思いに、ジェードはようやく答えを見出した。

 その言葉に腕の中のアンバーがハッと息を呑んだのが伝わってくる。




 やっと、好きだと言ってくれた。




 ジェードはいつも彼女に対する気持ちを曖昧にしか答えてくれなかった。

 そのためアンバーは、愛しく思っているのは自分だけなのかもしれないと、心のどこかで不安を感じていた。

 それが間違いだと証明する彼の言葉は、まさに彼女が途方もなく待ち望んでいたものだ。


「……大好きな君が苦しそうに嘘をつくところなんて見たくない。だから、そんなことを言わないでくれ。僕が悪かった、アンバー……」


「主……様……」


 震える腕を持ち上げ、ジェードの背中へと運ぶアンバー。

 その腕をぎゅっと引き寄せると、胸から伝わるいつもより熱めの感情(ぬくもり)が彼女の涙を誘った。


「…………嘘じゃ」


 少女は涙と共に強がりを流し、抑えられなくなった思いと共に小さく言葉を吐き出した。


「少しだけなんて嘘じゃ。本当はすごく寂しかった……! 胸が苦しくて苦しくておかしくなりそうじゃった!!」


「……ごめん……!」


「本当は怖かった! 主様がこのままわしの前からいなくなるなど、考えただけで恐ろしくてたまらなかった!!」


「……本当にごめん……!」


「主様とお別れなどしとうない! わしはこれからも主様と一緒におりたい! ずっとずっと離れとうないんじゃ!!」


「知ってる……よく知ってるよ……!」


 次々に溢れ出すアンバーの思いを、ジェードはただただ受け止める。

 腕の中で大泣きする少女の言葉も感情も、すべて自分がまとめて受け入れなければならない。

 それこそが彼女の思いに対する自分の覚悟だと決め、ジェードはより強く少女を抱き締めるのだった。


 いつの間にか日は落ちて、フィスキオの街は薄暗くなっていた。

 早くも昇り始めた青白い月の光が、慟哭のこだます一室にまっすぐ降り注ぐ。

 月光に照らされた机の上、小さな花瓶に刺さったリンドウの花はより一層蒼さを増して輝いていたのだった。



 *****



「おや、行っちまうのか? もう少しゆっくりしてけばいいのに」


 翌朝、まとめた荷物を背負って酒場へと降りてきたジェードとアンバーに、楽団長のデニスが声をかけてきた。


「それも悪くないんだけど、デニスさんたちの演奏を見たら創作意欲が湧き上がってきてね。もう居ても立ってもいられないのさ」


「ワハハ! そいつは演者冥利に尽きるってもんだな」


 満足そうに笑うデニスも、彼を取り囲むように座る楽団員たちも、ジェードの言葉を誇らしそうにしていた。

 人の心を動かすという表現者の喜びはジェードにもわかる。

 分野は違えど、ジェードには楽団員(かれら)に対してそういった仲間意識のようなものが芽生えていた。


「デニス楽団の名前はまたどこかで聞くこともあるだろうし、そのときはまた素晴らしい演奏を楽しみにしているよ」


「おう! また会えたら次も酒の席に付き合ってくれよ!」


 あはは、と苦笑して誤魔化したジェードは、手を振る楽団員たちに見送られて宿屋を後にした。

 後ろをてくてくとついてくるアンバーも嬉しそうに手を振り返していた。

 人間独特の文化である音楽に直に触れたことは、彼女にとっても非常に刺激的な体験だったのだろうと思うと少し喜ばしい気がした。





「──ジェードさん!」


 宿屋を出たあと、呼び止める声にジェードが振り返る。

 そこにはこちらに向かって駆けてくるビアンカの姿があった。


「やあ、ビアンカ。見送りとは嬉しいね」


「まあね。最後に伝えておきたいこともあったし」


 ビアンカと話すジェードの隣に立つアンバーの表情からは、もう我慢も強がりも見られない。

 ジェードの思いを知った彼女は別れの挨拶をしようとする二人を微笑んで見つめていた。


「私、踊り子としてお父さんの楽団に正式に加入したの。団員(みんな)といろんな街を周りながらもっともっと舞の修行を詰むことにしたわ」


「今でも十分すごい腕前なのに、相変わらず自分に厳しいんだね」


「それが"私の才能"だって教えてくれたのはあなたじゃない」


 悪戯っぽく笑うビアンカに「それもそうだね」と笑い返すジェード。

 その表情を見ていると、彼女はもう大丈夫だと安心できた。

 これからは楽団の仲間たちと共に、前を向いて夢を追い続けていくのだろう。


「あなたのおかげで私は生まれ変わることができた。本当に感謝しているわ、ジェードさん」


「僕の方こそ、素晴らしい舞を見せてくれてありがとう、ビアンカ。また見られる日を楽しみにしているよ」


 ジェードが右手を差し出す。

 するとビアンカは少し驚いた表情を見せながらも笑顔でその手をがっちりと握った。

 この握手は友情の証か、はたまた再会の約束か。

 いずれにせよ二人の間に生まれた絆のようなものの証明であることには変わりない。


「おっとそうだ、危うく忘れるところだったよ」


「……?」


 ビアンカは鞄を漁るジェードの姿を首を傾げながら見つめる。

 彼が取り出したのは、綺麗な筒状に巻かれた一枚の紙だった。


「昨晩描いたんだ。この感動をどうしても絵に残しておきたくてね」


 ビアンカが紙を広げると、そこには繊細に描かれた絵が現れた。

 炭で描かれた素描(そびょう)であるため色はついていない。

 しかし今にも動き出しそうな躍動感溢れる絵に、ビアンカは引き込まれるように見入っていた。


 それは一人の踊り子の絵。

 後ろに控える何人もの奏者と共に、観衆に生き生きと舞を披露する少女の爽やかな笑顔がそこにはあった。


「すごい……」


「受け取ってもらえるかい?」


「え、いいの?」


「もちろん。そのために描いたんだからね」


 その絵はビアンカに何かを訴えかけてくるような気がした。


 君の目指すものは正しい。だから迷わず進めばいい。

 そうすればきっとこの絵のように明るい未来が待っているから、と。


「渡すつもりで描いたというのに、今まで忘れておったとはどういうことじゃ」


「うっ……そこには触れないで欲しかったなぁ。早く旅の続きに出たくてうずうずしてたんだよ……」


 くすくすと笑うアンバーにつられ、ビアンカも笑い始める。

 二人の少女に挟まれて笑い者にされるジェードはまさに穴があったら入りたい心境だった。


「それじゃ、またいつか」


「うん。本当にありがとう、ジェードさん」


 手を振って再び歩き出したジェードとアンバーに手を振り返して見送ったビアンカ。

 二人の姿が見えなくなると、宿から出てきたデニスがビアンカの隣に立った。


「いいのか? あのまま行かせちまって」


 デニスはどこか残念そうで意味深な言葉をビアンカに漏らした。


「ジェードさんに大事な人がいるのは、見てたらわかるわ。私なんかが割り込めるような関係じゃないもの、あの二人は」


「そうか? 俺はお前にも見込みはあると思ったんだがな」


「それは単に親馬鹿なだけでしょ。ほんっとに男の人ってみんな鈍感なんだから」


 巻き直した絵を大事に胸に抱えたビアンカは、拍子抜けした顔の父親を残して宿屋へと戻って行った。

 その表情にかつての面影はなく、しっかりとした足取りは彼女の覚悟を物語るようだった。



 *****



 フィスキオの街の中は相変わらず楽器の演奏や歌声で賑やかだ。

 並んで歩く二人の歩調は聞こえてくる音に合わせて自然に揃う。

 もうすぐ街の出口となる門が見えるはずだ。

 そう思った矢先、ジェードはあることを閃いて不意に立ち止まった。


「主様? どうしたのじゃ?」


「アン、少しだけここで待っていてくれるかい?」


「構わぬが、どこへ行くのじゃ?」


「いいからいいから」


 はっきりと何も答えぬまま、ジェードは屋台の並ぶ通りの方へと入って行った。

 彼が何を考えているのかわからないが、アンバーは言われた通りその場でじっとジェードの帰りを待つことにした。






「お待たせ、アン。はい、これ」


「これは……」


 戻ってきたジェードの手には、綺麗にたたまれた新品の衣服があった。

 ジェードの向かった先には服を売っている店があったようだ。


「ずっと貧民街(スラム)で拾った服だっただろう? 新しいのを買ってきたから、今度からはこれを着るといいよ」


「おおお……。嬉しいぞ主様! では早速着替えるとするかのう!」


「ちょっと待って! それなら人がいないところで……!」


 妖狐は羞恥心が薄いことをすっかり忘れていた。

 人通りの多い道端で服を脱ぎ始めたアンバーを慌てて制止すると、ジェードは彼女を狭い路地へと連れていき、そこで着替えるよう促した。






「これでよいかの、主様」


 数分後、着替え終わるのを表通りで待っていたジェードの前に現れたアンバーの姿は見違えるようだった。

 これまではワンピース状の子供っぽい古着一枚だったのに対し、今回ジェードが買い揃えてきたのはもっと歳相応のものだ。

 長袖のシャツと七分丈のパンツは大きさもぴったりで、厚い腰巻が華奢な身体によく似合っている。


「うん、すごくいいね」


 我ながらよい着こなしにできたものだと自画自賛したくなったジェードだった。


 絵描きだけに、ね。なんちゃって。


「──やっぱり主様大好きじゃあーっ!!」


「待って、アン、落ち着──」


 服を買ってもらえたのが相当嬉しかったようで、幸せそうに頬を染めたアンバーはジェードに飛びつくように抱き着いてきた。

 ジェードは反射的に慌てて彼女を引き離そうとするが、腕にくっついたアンバーはびくともしない。


「ちょっとアン、見られてる! 周りにすごく見られてるから離れて!!」


「なんじゃなんじゃ、よいではないかー! 自分の気持ちには素直になって欲しいのじゃろうー?」


「そうは言ったけど、人前はちょっと……! せめて場所くらいは弁えて!?」


 周囲に向けられる視線が非常に気恥ずかしい。

 同じ歳くらいの女性にくすくすと笑われていたり、微笑む老夫婦に見つめられていたり。

 しかし心は不思議とすっきりしていた。


 街を出ると喧騒(せんりつ)は少しずつ小さくなっていく。

 それを背に刻むように歩きながら、翡翠と琥珀は音楽の街──フィスキオを後にするのだった。

第二章フィスキオ編、完結です!

ここまでお付き合いくださった方々、本当にありがとうございます!


ようやくジェードもアンバーに対する思いに素直になることができました。

次のお話からは次の街を舞台にした第三章へと移ります。


今後も応援よろしくお願いします!!

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