美しいと思えて
「──う、うわあっ!? ごめん!!」
自分が何をしているのかもわからず、驚いて後ろに大きく転がってしまったジェード。
大きな声を出すと喉元の傷が痛むのだがそんなことを気にしている場合ではない。
胸の前で両手を握り締める少女に、ジェードは脱いだ上着を投げた。
とりあえず何か羽織ってもらわなければ目線のやり場に困ってしまう。
「……逃げぬのか?」
なぜ彼女に触れていたのか、自分自身の行動に戸惑いを隠せない様子のジェードに少女が恐る恐る声をかけた。
「わしは……主を殺そうとしたんじゃぞ……?」
「ええと、確かに襲われたけど……殺そうとはしてなかったじゃないか」
殺そうと思えば一呼吸で殺せたはずだ。
それなのにこの少女はそうせず、命を奪うことを最後の最後まで躊躇っていたようにジェードは感じていた。
「怖くは……ないのか……?」
「どちらかと言えば、怖がっているのは君じゃないか」
ジェード自身もこの状況はよくわかっていない。
それでも彼女を残してこの場から去るようなことだけは絶対にしてはいけないような気がした。
「なぜわしに触れたんじゃ……?」
少女は街でジェードの絵を眺めていた時のように、次々に違うことを尋ねてくる。
しかしあのときのような和やかな雰囲気は完全に消え去り、この場所には少女の恐怖心とジェードの困惑だけが渦巻いていた。
「わしに殺されそうになっていながら、なぜ恐れることなくわしに触れたんじゃ…?」
「それは……ごめん、わからない。頭がぼーっとしてて」
動揺を隠せない少女はジェードに再び同じ疑問を投げかけた。
それに対してジェードは曖昧な返事しか返すことができない。
できないのだが──
「でも、どうしても触れたくなったことだけは覚えてる。その、とても……美しいと思えて」
「美しい……わしがか……?」
少女の胸には形容し難い思いが湧き上がった。
彼女はジェードが口にした言葉に対して照れ臭いような、それでいてどこか尊いような感情を覚えた気がした。
「痛っ……!」
「……! 痛むのか?」
思い出したように襲ってきた胸の傷の痛み。
服についた赤黒い染みを抑えて顔を歪めるジェードを見て、少女が憂心を顕にした声を上げる。
「少しね。でも浅いからきっと大したことはないよ」
「少し待っておってくれるか? すぐに戻る」
少女はそう言い残して茂みの中へと消えた。
待つこと数分、少女は何やら葉のついた植物の茎を咥えて戻ってきた。
「それは?」
「薬草じゃ。近くに生えておって助かった」
その植物はジェードにも見覚えがあった。
確かその葉を磨り潰して塗り薬として売っている店が家の近くにあったような気がする。
少女は茎からおもむろに数枚の葉を噛みちぎると、口の中で転がしながら咀嚼し始めた。
「見せてみい」
柔らかく崩れた葉を手のひらに吐き出すと、少女はジェードにそう言った。
「えっ……と?」
「胸の傷を見せてみよと言うておるのじゃ!」
「あっ、うん、そうだよね……ごめん……」
茂みの中で裸の少女と二人きり。
少女は上着を羽織っているとはいえ、この状況で自分まで服をはだけさせることに変な背徳感を覚えたジェードであった。
このような手当てには慣れているのか、少女は座らせたジェードの胸と首の傷口に噛み潰した薬草を手際よく塗り込んでいく。
少し滲みる。そして傷周りがひんやりする。
近所の店で買った薬を塗ったときと似たような感覚だ。
少女による手当てが終わると、地面に座り込んで押し黙った二人の間に気まずい空気が漂った。
「なぜ追ってきたんじゃ?」
先に口を開いたのは少女だった。
「それは……その、謝りたくて。僕の絵のせいで気を悪くしてしまったみたいだから──」
「それは違うぞ! 断じて違う!!」
身を乗り出して否定する少女の勢いに思わず仰け反るジェード。
顔が近い。よく見ると大きな瞳と高い鼻が印象的な美人顔だ。
そして唇の隙間からちらちらと見え隠れする犬歯が少し神秘的にも見える。
「あ、うん……そうなんだ。じゃあなんで、その……いきなり逃げたの?」
「逃げた」という表現が適切ではない気がして言葉を選ぼうとしたが他に思いつかず、結局そのまま口にしてしまったジェード。
「……怖くなったからじゃ」
自分の発言でまた少女を不快にしてしまうかと心配したが、彼女は気にする素振りを見せなかったため少しほっとした。
「主がわしの正体に気づいたから、殺されるかもしれぬと思った。じゃから逃げた」
「気づいた? 僕が? あのとき僕は君のことを何も知らなかったんだけど……」
「そんなはずなかろう。ではなぜ主の絵の中のわしには耳と尻尾がついておったのじゃ?」
「それは、そういうふうに描いたら綺麗かなって思って……」
特に理由があったわけでもない。そういうふうに描きたかったから描いた。
敢えて言葉にするなら、絵描きとしての閃きというものだ。
まさか本当に耳や尾がついているなんて思いもしなかった。
「それじゃあ、やっぱり君は──」
少しの沈黙のあと、ジェードはずっと頭によぎっていたことを確かめることにした。
「『妖狐』……なんだね?」
ジェードの問いに対して、少女は俯きながら小さくこくりと頷いて答えた。
妖狐──プラムの街の北の森に住んでいる物の怪の類だ。
人の姿に化けた妖孤に市民が襲われる事件が過去にしばしば起きていたことから、街の人間はすっかり森に近づかなくなってしまった。
狐が化けるという話は主に東の果てにある国でよく耳にするらしいのだが、このあたりでは狼が化けるという話のほうがずっと馴染みがある。
しかしプラムはその中でも例外で、この街で化けて出るのは狼ではなく、昔からずっと狐だった。
「君が妖狐だってことには確かに驚いたよ。でも、だからってそれだけで殺されるだなんて大袈裟なんじゃ……」
「大袈裟なものか! 何年か前、人間は大勢で森にやってきてわしら妖狐を次々に撃ち殺していったではないか!」
「何年か前って、もしかして……」
四年前の妖狐駆逐作戦。
プラムの市民を襲う妖狐を退治しようと、街の狩人を中心に男たちが猟銃を持って一斉に森に踏み込んだことが過去にあった。
この作戦で妖狐の数は激減したが、妖狐の反撃にあって犠牲になった者も多く、作戦は痛み分けという形で幕を閉じた。
これ以降、市民と妖狐との間に大きな衝突は起きていないという。
ということはつまり、この妖狐は四年前の作戦の生き残りというわけだ。
「そっか……じゃあ殺されると思われても仕方ないよね。残念ながら、あの街では妖狐があまりいいものだと思われてないのは事実だし」
「主もそう思っておるのか……?」
「とんでもない! 君は僕の絵を評価してくれたじゃないか! 芸術がわかる感性を持っているのは本当に素晴らしいことだよ!」
今度はジェードが身を乗り出して妖狐の言葉を否定した。
彼は絵の話になると人が変わったように熱くなってしまうことに自分で気づいていない節があった。
「じゃが、主の絵を見てわしも逃げた……」
「それは……怖がらせてしまうような絵を描いた僕にも責任があるというか……」
妖狐は耳が垂れてしゅんとしてしまっている。
ジェードに対して負い目を感じているのが丸わかりだ。
こんな気まずい話をするために追ってきたんじゃないのに。
何か気の効いた言葉でもかけられればよかったのだが、このようなときに限って頭が真っ白になる。
ジェードは俯く妖狐の悲しげな睫毛を見つめることしかできない自分がなんとも腹立たしかった。
そのとき、何かを聞き取ったのか不意にしゅんと垂れ下がっていた妖狐の耳がピンと反応した。
それと同時に妖狐は目の前を横切る川の対岸へと機敏に目を向けていた。
ジェードも妖狐の視線を追ってみるが、その先には何があるわけでもない。
自分たちがいる川岸と同じように、木々や茂みが葉を揺らしているだけだ。
「……どうかしたの?」
「仲間が呼んでおる。すまぬが行かねばならぬようじゃ」
そう言って妖狐は立ち上がり、肩から羽織っていたジェードの上着を脱ぎ捨てた。
再び一糸まとわぬ姿になった妖狐から、ジェードは思わず目を背ける。
「主には悪いことをしたな。本当にすまなかった」
「ちょっと待って!!」
その一言に今生の別れであるかのような不安感を抱いたジェードは、咄嗟に妖狐を呼び止めた。
妖狐は踏み出そうとした足を止めたが、ジェードの方を振り返ろうとはしない。
背を向けたままでジェードの別れの言葉を待っているようであった。
だがジェードは──
「君と出会ったのも何かの縁だ。僕は君のことをもっと知りたい。だから……君さえよければ、また会いにきてくれないかな?」
──別れの言葉など口にしなかった。
彼女は誰も相手にしないジェードの芸術に触れてくれた。
ジェードは自分を殺さなかった彼女の真意をまだ知らない。
彼女もまた、ジェードが彼女に対して抱いた貴き感情があることをまだ知らない。
僕には君と話したいことが、話さなければいけない気がすることがまだまだたくさんあるんだ……!
妖狐はジェードの言葉を背に受けたものの、何も告げることなく両手をついて獣のような走りで川の対岸へと去っていった。
「明日の同じ時間、同じ場所で絵を描いてる! 待ってるから!!」
妖狐の姿を追おうとするようにジェードは立ち上がり、茂みの中へと消えた彼女に向けて吠えた。
その叫びが彼女に届いたかどうかを知る術はない。
ジェードは妖狐が脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、薄暗くなり始めた森から街へと足を向けた。
街へ戻ってきたジェードは、妖狐を追って放置してきてしまった絵や画材を回収しようと元の場所へと足を進めた。
しかしそこに置いてあったはずの絵は一枚たりとも残ってはいなかった。
いや、厳密に言えば絵自体はそこにあるのだが、そのすべてがジェードのいない間に破り捨てられたり水をかけられたりして、もはや絵とは呼べない状態になってしまっている。
まあ、こうなるとは思ってたよ。
薄々わかっていた事態にジェードは落胆することもなく、売り物にならなくなった絵をくしゃくしゃにして一つに丸め、画材を道具箱に納めて家路についた。




