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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
フィスキオ編
25/126

路地裏舞踏

 覗き込んだ路地には誰もいなかった。

 ビアンカは思ったより奥まで進んでいったようで、ジェードは狭い路地を歩いて建物の裏まで回り込んでみることにした。


 角を曲がると、ビアンカはそこにいた。

 ところがジェードは無意識に建物の陰に身を隠すように彼女を見つめていた。


 声を、かけられなかったのだ。


 目の前にいる赤毛の少女は、軽やかな足取りとしなやかな腰つきで自分一人の世界に入り込んでいた。

 その動きは指先どころか髪の毛の一本一本にすら全神経を集中したように洗練されている。

 流れるような動きの中で一瞬浮かべた慈愛の表情は、幼さが残る外見からは想像もできないほどの妖艶な雰囲気が滲み出ていた。


 目が離せない。

 瞬きすら躊躇われる。


 人気(ひとけ)のない狭い路地裏でただ一人舞い続けるビアンカの姿を思いもよらず目にしたジェード。

 歌声や楽器の演奏といった音楽の街独特の喧騒はもはや彼の耳には届かない。

 賑わっているはずのフィスキオの街の路地裏で、ジェードは彼女の呼吸の音や足音まではっきりと聞き取れるほどにビアンカの舞に魅せられていった。


「──! 誰?」


 不意にビアンカは動きを止め、僅かに焦りを含んだ声を上げた。

 自分に向けられたその声で我に返ったジェードは、建物の陰からゆっくりとビアンカの前へ姿を見せた。


「ええと、ごめん。僕だよ、絵描きのジェード」


「ジェードさん……」


 ビアンカが大きくついたため息は、自分が顔見知りだったことへの安堵からなのか、はたまた覗き見していた自分に呆れたからなのか、ジェードにはわからなかった。


 しばしの沈黙。

 ビアンカ自身もジェードと同じように、何と切り出せばよいのか迷っているのがわかる。

 しかしここは年長である自分がしっかりせねばと、ジェードは勇気を振り絞った。


「……えっと、デニスさんが探していたよ? 戻ってあげたほうがいいんじゃないかな」


「……別に、放っておいていいわ」


 ぶっきらぼうにそう言い放ったビアンカは建物の壁にもたれるように膝を抱えて座り込んだ。


「隣、いいかい?」


 恐る恐る声をかけたジェードにビアンカは目を合わせようともしなかった。

 何の返事ももらえなかったが拒絶もされなかったため、ジェードは一人分の間隔を空けて彼女の隣に腰かけた。


「舞台に立つのは明日なんだってね。さっきデニスさんから聞いたよ」


「……」


「ビアンカも舞台(そこ)で踊るんだろう? いやあ、今から楽しみで仕方ないなぁ」


「……」


「……えと……」


 口下手で不器用な自分を呪いたくなった。


 ジェードがいくら声をかけても、ビアンカは俯いたままちっとも顔を上げない。

 それどころか彼女の表情はますます重く暗くなっていくような気までしてきた。


「……そんなに嫌なのかい?」


 励まそうと明るく振舞っていたジェードが半分落ち込んだような口調に変わると、ビアンカはようやく視線だけをこちらに向けた。

 目を細めてこちらを睨む彼女の視線に、ジェードはなぜか罪悪感のようなものが込み上げてくるのを感じた。


「……ごめん、デニスさんから聞いたんだ。君が舞台に上がるのを嫌がっているって」


「…………そうよ、私は明日の舞台に立ちたくないの」


 ビアンカはジェードに向けていた視線を再び足元へと向けると、ようやく口を開いた。


「でも、踊ることは嫌いじゃないんだろう? じゃなきゃこんなところに来てまで練習したりしないよ」


「別に、明日の練習をしてたわけじゃ……」


 ビアンカはそう言うと、抱えている膝をさらに引き寄せて縮こまってしまった。

 それでもビアンカは少しずつ会話をしてくれるようになってきた。

 何とかこのまま彼女を元気づけてあげたいと、ジェードはその一心で言葉を紡ぎ続ける。


「でも、僕は君が舞台で踊るところを見てみたいな。観客の人たちもきっと盛り上がると思うよ」


「そんなことないわ。観客(みんな)のお目当てはデニス楽団の演奏。お父さんやお母さんたちの一流の演奏に、私なんかの舞が釣り合うはずないもの……」


 ビアンカの振舞いは、謙虚と呼ぶにはあまりにも重々しい雰囲気だった。

 謙遜しているというより、自分の舞を誰より率先して自分から否定しているような、そんな様子に見えた。


「でも、綺麗だったよ? とても」


 ジェードはつい先ほど目にした舞を素直に賞賛してみせた。

 誇張して言うこともなく、多くの言葉で飾り付けることもなく、見たままの率直な感想をビアンカに投げかけてみた。

 しかしビアンカはそれをあまりよく思わなかったのか、俯いたまま不機嫌な視線だけを再びジェードに向けた。


「みんな口ではそう言うの。もう聞き飽きたわ」


「本当にそう思ってるよ。きっと他の人たちだって──」


「そんなことない! みんな私を傷つけないようにお世辞を言ってるだけ。 両親が大物の奏者だから気を遣ってるだけよ」


 顔を上げたビアンカは、ジェードを威圧するようにそう言い放った。

 そのあとでハッとなった彼女はまた俯くと「……ごめんなさい」と呟いた。


 しかしジェードは彼女が背負っている悩みをデニスに聞いて知っている。

 そこにはプラムの街にいた頃の自分と重なるものがあると感じている。

 そのためジェードは、つい感情的になってしまったビアンカに対して不快な感情を抱くことはなかった。



 だって、君の苦しみは僕にも何となくわかるから。



「……踊るのは確かに嫌いじゃないし、むしろ好き」


 座り込んだままちらちらとジェードの顔色を伺っていたビアンカは、彼が怒ったり気分を害したりしていないとわかると再び口を開いた。


「でも、私は別に可愛くもないし、背も低いしどんくさいし……。なのにそれを人に見られて過大評価されるのが嫌なの……」


「……うん、君の言いたいことはわかった」


 ビアンカの言葉を受け止め、ジェードは彼女の顔を見据えた。

 その視線に気づいたビアンカもゆっくりと顔を上げてジェードの方を向いた。


「でも、持っている才能はちゃんと開いてあげないと勿体無いと思わないかい? それはきっと、楽団の中で君しか持っていない特別なものなんだからね」


 ビアンカはジェードの言葉を聞いて一瞬息を呑んだような気がしたが、またすぐに俯いてしまった。


「……舞の才能なら私には──」


「僕は"舞の才能"とは言っていないよ。君が持っている才能は、もっと別のものだと思うけどな」


「別の、もの……?」


 ビアンカはジェードの言葉に首を傾げた。


「舞の才能じゃない、別の才能って……?」


「……あ、いや、舞の才能がないって言いたいわけじゃなくてね! 君の舞は本当に綺麗だったから、その才能も十分あると思うし! なんだろう、僕が言いたいのは、その……!」


「ジェードさん、落ち着いて。そんなつもりで言ったんじゃないことはちゃんとわかってるから……!」


「そうかい? なんだかごめんよ。悪気があってそう言ったわけじゃないんだ……!」


「大丈夫、大丈夫だから、ほんとに……!」


 励まそうとしたものの結局自分が狼狽え、ビアンカに気を遣わせてしまったジェード。

 自分の青臭さが情けなくて仕方ない。


 こんなはずじゃなかったんだけど……。

 二人であわあわしちゃって、何やってるんだろう、僕。


「それで話を戻すけど、別の才能って……?」


 ようやく二人とも落ち着くと、ビアンカの方からジェードの言葉の続きを求めてきた。


「……君は、僕と似ている気がする」


 路地の隙間から僅かに見える青空を仰ぎながらジェードは呟いた。

 しかしそれはビアンカの問いかけとは的外れな答えで、ビアンカは再び首を傾げている。


「似てるって……? あんなに綺麗な絵を描くあなたと、下手くそな踊り子の私のどこが似てるっていうの?」


「あはは、褒めてもらえるなんて嬉しいね。昨日僕の絵を見てそう思ってくれたのかい?」


「ええ。だって本当に綺麗だったんだもの」


 ジェードはその言葉を待っていましたと言わんばかりに微笑むと、ビアンカに視線を下ろした。


「君はそう言ってくれるけどね、故郷の街で僕の絵は一枚も売れなかったんだよ。三年間で一枚もね」


「三年も!? どうして……あんなに素敵な絵なのに!」


 ビアンカはジェードの言葉に驚いて思わず身を乗り出していた。

 その反応を見ていると、やはり彼女はただ不愛想で人見知りなだけの少女ではないのだと思える。


 きっと根はとても優しくて、人の痛みを理解し寄り添えるような、そんな人だ。


「だからずっと僕は、自分には絵の才能がないんだって思って生きてきた。でもある日アンが──僕の連れが気づかせてくれたんだ。僕の絵が評価されない理由は、持っている才能が思わぬ形で花開いているだけじゃないか、ってね」


 ジェードの持つ才能──それは直感的に相手の本質に気づき、無意識に絵の中に反映させてしまうことがあるというもの。

 つまりはただ観察力が鋭いだけだとも言えるが、この直感と観察力故にジェードは三年も孤独に苛まれてきた。

 自分の持つ才能にもっと早く気づくことができていれば、ジェードはここまで苦しむことはなかったかもしれない。

 ビアンカに自分と同じような苦労をして欲しくない──ジェードはその思いだけを原動力に、彼女に言葉を投げかけ続けた。


「だから、君もきっと僕と同じさ。君はまだ、自分が持つ本当の才能に気づいていないだけなんだ。君の舞は素人の僕から見てもとても素晴らしいものだった。あれを下手くそだなんて、そんなことは言わないで欲しいな」


 ビアンカがジェードに向ける視線は、明らかに最初とは違っていた。

 目の奥にある迷いは未だに消えていないが、それでもジェードに対して少しずつ心を開いているように感じられた。


「……会ったばかりの私のことなんて、そんな簡単にわかるものなの?」


「さあね、本当は何もわかっていないのかも。ただ、僕にはそう見えるよってだけ。大きなお世話だったならごめんよ」


 ジェードはそう言ってビアンカに軽く笑いかけてみせた。

 ビアンカが微笑み返してくることこそなかったが、彼女は視線を逸らしたり俯いたりはしなかった。


「……あなたは、普通の人と考え方が少し変わっているのね。そんな風に言われたのは初めて」


「あはは、変わっているのは自覚しているよ。昔からよく言われるんだ」


 ジェードはそう言って笑いながら立ち上がり、ビアンカに手を差し伸べた。

 その様子を膝を抱えたまま見上げるビアンカは、上から見下ろすとさらに子どもっぽく見えた。


「さあ、宿に戻ろう。デニスさんとアンネさん、本当に心配していたんだよ?」


「…………わかった」


 やはり気乗りはしていないようだが、ジェードと話して少しばかり心が解れたのかビアンカは渋々応じてくれた。

 ビアンカの手を取って引っ張り上げ、立ち上がらせるジェード。

 そして二人は人気(ひとけ)のない路地を抜けて再び表の通りへと戻っていった。


「む、そこにおったのか! 探したぞ主様(ぬしさま)!」


「ああ、ごめんよアン、待たせちゃったみたいだね」


 路地を出たところで聞こえてきたのは小鳥がさえずるような高めの老人口調。

 声のした方角からは頭に仮面を乗せた琥珀色の髪の少女が駆け寄ってくるのが見えた。

 どうやら彼女は楽器体験の屋台を出たあと、姿が見えなくなったジェードをずっと探していたようだ。


「一体どこへ行っておったのじゃ? 向こうに何か面白いもので……も……」


「……ん? アン?」


 急に足を止めて押し黙るアンバーの姿にジェードも思わず首を傾げた。

 アンバーの視線は並んで立っているジェードとビアンカの顔を交互に見やっていた。


「ええと……じ、じゃあ、私は宿に戻るから……」


「あ、うん。またね」


 決まりが悪そうな様子のビアンカは、徐々にジェードから離れながらそう言い残して去って行った。

 アンバーは相変わらず固まったままジェードの顔を見つめている。


 そんな彼女の引きつった表情を見て、ようやくジェードは額に冷たい汗が滲むのを感じた。

ご愛読ありがとうございます!

感想評価など励みになっております。


次回、修羅場、か……?


わさび仙人でしたー!

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