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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
フィスキオ編
20/126

二人の小さな前進

 だんだんと明るくなっていく天井を眺め続けるのは決していい気分ではない。

 しかしそれ以外には特にすることもないからなんとももどかしいものだ。


 小さな宿屋の狭い一室のこれまた狭い一人用のベッド。

 そこで肩を寄せ合いながらアンバーが隣に寝ているというだけで、ジェードは変に緊張してまったく寝つけなかった。


 すぐ横で一人の少女が気持ちよさそうに寝息を立てている。

 彼女がゴソゴソと動く度に全身が強張ってしまう。


 落ち着くんだジェード。

 前にも一度隣り合って眠ったことがあるじゃないか。

 大丈夫だ、眠れるはずだ、眠ることだけに集中して……


 思えばこれも変な話だ。

 身体を休めるための行為であるはずの睡眠に対し、これほどまでに真っ向から取り組んだことが今までにあっただろうか。

 これでは休まるものも休まらない──まさに本末転倒というものだ。





 こうして結局ジェードは一睡もできないまま翌日の朝を迎えてしまったのだった。


「……む、ふぁああ、もう起きておったのか主様(ぬしさま)?」


「…………うん、おはよう、アンバー」


 大きな欠伸をしながら上半身を起こすアンバーを、ジェードはベッドの縁に腰掛けて眺めていた。


 いや、わかっていたよ?

 何も起こらないことは最初からわかっていたし、僕も何も起こすつもりはなかったし。

 それでもさ、慣れないものは慣れないんだよ。


 ジェードが一人苦悶していたことなどまったく知らないアンバーは完全に熟睡していた。

 そんな彼女はまたジェードの隣で眠れたことが嬉しかったのか、目覚めるなりずっとニヤニヤしている。


 まあ、アンが喜んでくれているならそれでいいか。

 彼女の無邪気な寝顔を独占できただけでもよかったと思うことにしよう。



 *****



 フィスキオに到着してから今日は二日目。

 いつまでも旅費の節約ばかりしていては味気ない旅になってしまう。

 そこでジェードは街で一番の大通りの隅に椅子を置いて腰掛け、数枚の絵を並べた。

 こうして絵を売るのも久し振りで、果たして買っていく者がいるのかという不安もあった。

 しかしこれまでと決定的に違うのは、隣の椅子にアンバーが座っていることだ。

 自分の芸術の理解者が"いる"と知っているだけでも心持ちはまったく違うように思えた。


 フィスキオの大通りはプラムほどではないが多くの市民で賑わっていた。

 あちこちから聞こえてくる楽器の音や歌声は昨日と変わらない。

 各地から多くの奏者たちが集まる音楽の街独特の喧騒がジェードの肩を自然に揺らした。


「おや、珍しい商売をしてるじゃないか」


 絵を広げて数分、一人の男が興味を持ったのかジェードに声をかけてきた。


「やっぱり珍しいかい? 音楽の街で絵の商売なんて似つかわしくないとは思ったんだけど、僕にはこれしか能がなくてね」


「いやいや、絵も音楽も人を楽しませようとする心意気は同じだろう。目で見るか耳で聴くかの違いだけさ」


 男は背負っていた楽器を下ろして屈み、ジェードが広げた絵を眺め始めた。

 布で包まれた楽器は形からして弦楽器のようで、この男も奏者であることは容易にわかった。


「……この絵、なんかいいな。いくらだ?」


「──!! 買ってくれるのかい!?」


 ジェードが思わず立ち上がると、腰掛けていた椅子が転がった。

 それに驚いた客の男とアンバーの視線がジェードに向いた。


「だって、そのために置いてんだろ? なんでそんなに大袈裟な反応するんだ……?」


「そう、だね……いや、僕等(こっち)の事情だよ。驚かせてしまってすまないね」


 代金を受け取って絵を渡すと、男はそれを眺めながら去って行った。

 "なんかいいな"などというハッキリしない感覚に素直に従うところを見ると、彼もまた芸術家なのだと実感できて親近感が湧いた。

 表現者というものはふとした直感で心を動かされることもある。

 対象が絵であれ音楽であれ、直感(それ)に共感してくれる相手がいるのは本当に価値があることだ。


 さらに言えば一つわかったことがある。

 プラムの街では不可能だった絵の商売がこの街でなら可能だということ。

 それはつまりジェードの絵に現れる才能を気味悪がる者がいなければ、彼の絵は十分に人の心を動かすことができるということだ。


「やった……絵を買ってもらえたのなんて何年ぶりだろう……!」


「本当によかったのう、主様!」


「うん、ありがとうアン! よーし、なんだか今のでやる気が湧いてきたぞ!」


 ジェードは転がしてしまった椅子を立て直し、宿屋で描いていた絵の続きに取りかかった。

 彼の嬉しそうな横顔を眺めているアンバーも、まるで自分のことのように喜ばしくて胸が踊るように感じられた。


 プラムでは誰もジェードを評価してはくれなかった。

 しかしこの街ではジェードが持つ才能は考慮されず、一枚の絵としてありのまま評価してもらえる。


 自分の感性や努力は決して間違ってなどいない。

 自分の作り上げた絵で人の心を動かすことができる。

 それが証明されただけでジェードはまさに天にも昇るような心地であった。


 それからというもの、物珍しい商売をする青年の前では度々通行人たちが立ち止まるようになった。

 絵を眺めるだけで満足する者、ちょっとした世間話に花が咲く者、並べられた絵を気に入って一枚購入していく者。

 たくさんの人々がジェードの芸術に触れ、感想を述べ、賞賛する。

 たとえ買ってはもらえなくとも、作品が誰かの目に止まるというだけで心が満たされる。

 随分久し振りにこの感覚を味わうことができただけでも、こうしてこの街にやってきた価値はあったと言えるだろう。



 *****



 太陽も南天を通り過ぎた頃、フィスキオの街には柔らかな午後の日差しが差し込み始めた。

 この時間までに売れた絵は九枚。

 おかげで描き溜めてあった在庫はすっかり減ってしまったが、ジェードはかつてない充実感で満たされていた。


「おっ、宿屋で見かけないと思ったらこんなところにいたのか」


 どこか聞き覚えのあるしゃがれ声にジェードが顔を上げると、そこには楽団長のデニスと妻のアンネ、娘のビアンカの姿があった。


「やあ、デニスさん。旅費が心許(こころもと)ないから、ちょっと小遣い稼ぎをね」


 デニス、アンネと順に目を合わせて挨拶をするジェード。

 しかしビアンカに視線を向けると彼女はデニスの陰にひっそりと隠れるように目を逸らしてしまった。


「ほほう、本当に絵が上手いんだな。馬車で絵描きを名乗っただけのことはある」


「そうじゃろう? わしの主様の絵は世界一じゃからのう!」


「ちょっとアン!? いくらなんでもそれは大袈裟過ぎるよ!?」


 嬉しそうに宣伝するアンバーとそれを聞いて慌てるジェード。

 大笑いするデニスと微笑むアンネの視線がとても気恥ずかしい。

 ビアンカはというと話を聞いている素振りはまったくなく、ジェードの周りに広げられた絵を黙って見下ろしていた。


「……どうかな、ビアンカ。どれか気になる絵があったら教えて欲しいな」


 そういえばビアンカとはまだ一言も会話していないことに気づいたジェードは思い切って声をかけてみた。

 しかしビアンカは一度ジェードと目を合わせたものの、またすぐに俯いてしまった。


「…………綺麗、だとは思うわ。どれも」


「そっか。ありがとう」


 出会ってから初めて聞いたビアンカの声は思ったより幼さが滲んでいた。

 随分そっけない態度だが、昨日に比べると少しだけ距離が近づいた気がした。


「そうだお前さんら、このあと何か予定はあるか? もしよかったら宿屋の酒場で今夜一緒に、どうだ?」


 デニスはそう言ってグラスを傾ける仕草を見せた。


「そんな、いいのかい? たまたま会っただけの僕らなんかと……」


「たまたまだろうがなんだろうが出会った縁は大事にするもんさ。同じ芸術家でも違う土俵に立つお前さんの話をもっと聞いてみたいしな!」


「お誘いは嬉しいんだけど……」


 ジェードは隣に座るアンバーを気にかけてしまい、素直に返事ができなかった。

 馬車に乗せてもらったときにそうだったように、彼女はまだ完全に人慣れしたわけではない。

 慣れ親しんでいない者とテーブルにつくことで彼女がまた変に気を張ってしまうなら断った方が──


「大勢で一緒に食事をするのか! なんだか楽しそうじゃのう!」


 あれ、なんだか思ったより乗り気だな。


 水色の瞳をキラキラさせるアンバーからは、馬車で見せたような緊張した雰囲気はまったく感じられなかった。


「主様、よいじゃろう? せっかく誘ってもらったのじゃから、のう?」


「君が平気だって言うんなら……」


 しかし思い返せばプラムを出てからアンバーには何かと我慢させることが多かった気がする。

 人の多い荷馬車、パン一切れという少量の食事、狭い一人部屋での宿泊……


 まあ、最後の件に関しては同じベッドで眠れて喜んでいたみたいだけど。


 今日売った絵でお金もできた。

 ならば彼女に少しくらいの贅沢ならさせてあげてもいいのではないかとジェードは自分に言い聞かせた。


「じゃあ、そうさせてもらうことにしようか、アン」


「やったー! 夜が楽しみじゃー!」


「よし決まりだ。じゃあまた酒場でな!」


 デニスはそう言って手を振り、アンネは小さく会釈をして去って行った。

 終始俯いたままのビアンカはそんな二人の陰に隠れるようにこそこそと歩いて行った。


「大丈夫なのかい? 食事の誘い、受けちゃって」


「ふふ、主様がわしの心配をしてくれるのはやはり嬉しいのう」


「茶化さないでくれよ、アン」


 両手を頬に当ててわかりやすく喜ぶアンバーの姿に、ジェードは少し呆れそうになった。


 結構真面目に話してるつもりなんだけどなぁ。

 僕ってあんまり緊張感とかないのかな。


「なに、平気じゃ。恐ろしかったプラムの狩人と違って、楽団の者らは明るくて接しやすい。彼らとなら話すのも慣れてきたからのう」


「そうなんだ、それはよかった。僕としても嬉しい限りだよ」


「それに森では一人で狩りをすることが多かったからのう。大勢で同じ席につく人間の食事というものにも興味があるのじゃ」


 プラムにいた頃はあんなに人間を怖がっていたアンバーが、旅に出てから早くもひとまわり成長しているような気がした。

 彼女は今、ジェード以外の人間とも上手に付き合っていけるよう努力しているのだ。

 健気な勇気を見せる彼女の心の純粋さにジェードは改めて心惹かれるように感じた。


「そっか、わかった。一緒に楽しもうね」


「うむ!」


 アンバーは大きく頷いて満面の笑みをジェードに向けた。


 もし何かあれば僕が助け舟を出せばいい。

 今は彼女の挑戦を見守ってあげよう。

 妖狐だと気づかれなければきっと大きな問題は起きないのだから。


 その後も陽が落ちるまで絵を売り続けたジェードとアンバー。

 辺りが薄暗くなり、楽器の音が少し止んだ頃、二人はデニスたちの待つ宿屋の酒場へと向かった。

ジェードとアンバーがちょっぴり前に進むお話でした


いつもご愛読ありがとうございます

励みになってます


お互いの作品について語り合えるような字書き仲間ができるといい刺激がもらえて楽しいなと思う今日この頃


Twitterで数人の字書きさんと仲良くさせていただいているのですが、意見交換できるような方がもっと増えるといいなと染み染み思いますねぇ笑


以上、わさび仙人でしたー!

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