畏怖と慈愛
──完全に見失った。
街を北へ北へと走る少女を追いかけてきたジェードだったが、大通りの脇道に入る角を曲がっていった彼女の姿を見たのが最後だった。
ジェードが曲がった時には少女の姿はなく、相変わらず多くの通行人や荷馬車が溢れかえっているだけだった。
しかしジェードにはここで諦めるという選択肢などなかった。
彼女は自分の絵を見事だと褒めてくれた。
誰の相手にもされない自分なんかと一緒に楽しそうに語らってくれた。
それはジェードにとって特別な時間であり、彼女は特別な客人である。
そのお礼がしたくて渡した絵であったはずなのに、そのせいで彼女を傷つけてしまったかもしれない。
このまま諦められるはずがなかった。
プラムの街の北部。
きっとまだ近くにいるはずだと、ジェードは人混みを縫うように小走りで少女を探す。
しかしどこにも見つからない。見かけによらずかなり足が速いようだ。
一通り探し歩いたが彼女は見つからなかった。
となると、あとはあそこしか……
可能性は非常に低いとジェード自身も思っている。
しかしもう他に探す宛もない。
億分が一であろうが兆分が一であろうが、もう賭けるしかない。
覚悟を決めたジェードは、街の者ですらほとんど近づかない北の森へと足を向けた。
北の森──文字通りプラムの街の北部にある広大な森林である。
幹が太く、葉の大きな樹木が立ち並ぶその森の中は、昼間でも日光が遮られて薄暗いと言われている。
夜の森に足を踏み入れようものなら、何も見えない人間など獣たちの恰好の餌となってしまう。
だが、街の人々が近づかない最大の理由は他にあるのだとジェードは聞いたことがある。
ひとまずそんなことはどうでもいい。
もし彼女が森の近くまで逃げているのなら、暗くなる前に見つけなければ。
街の北端の門を越え、ジェードは草木の生い茂る森の入り口へと向かった。
北門の外は放置された建築物の廃墟が立ち並ぶ貧民街になっていて、穴だらけの衣服の痩せ細った者たちが生ごみを漁り泥水を啜っている。
裕福な商人が大勢いる街の中とはまったくの別世界である。
裸同然の格好で自分を見つめる子どもを横目に、ジェードは北の森を目指して歩く。
ごめんよ、うちは家族五人で食べていくのがやっとなんだ。
誰に対してでもない言い訳を胸の内でつぶやきながら、ジェードは生い茂る草木を掻き分けて森の中へと消えた。
森の中は噂に聞いていた通り薄暗く、太い木の根があちらこちらに張り巡らされているせいで足場が悪い。
何度も躓いて転びそうになりながら、ジェードはいるかどうかもわからない少女の姿を探して歩く。
茂みを押し分けて歩く度に、枝葉が身体中を引っ掻いて痛い。
腕や脚の皮膚がヒリヒリと小さな悲鳴を上げている。
薄暗くて見えないが、おそらくたくさんの引っ掻き傷ができてしまっているだろう。
それでも止まるわけにはいかない。
例え泡沫の夢であったとしても、彼女がくれた特別な時間をこのまま忘れてしまうことなど到底できなかった。
そのとき、ジェードは何かが草を掻き分けていったような痕跡を見つけた。
自分がつけた跡ではない。ひょっとしたらあの少女がここを通ったのだろうか。
明確な理由も根拠もないが、ジェードは直感だけでそう決めつけて痕跡を辿った。
もしこれが大型の獣の通った跡だったなら、追いついた瞬間に餌になってしまう。
しかしその可能性は気にとめる必要もないと思えるほどに、ジェードは少女を見つけ出すことに躍起になっていた。
森に入ってから数分、前方から川のせせらぎが聞こえてきた。
森の中に川が流れていたのかと新たな発見に感心しながら、とりあえずそこまで行ってみようとジェードは足を進めた。
川が見えるところまでやってくると、少し開けた空間に出た。
目の前をまっすぐに横切る河川の流れは非常に穏やかで、野鳥のさえずりや水飛沫がはねる音に心が洗われるようだった。
この光景も描いてみたいと創作意欲が湧き上がったが、今は他にやることがあるはずだとジェードはそれを押し殺した。
そのときに気づいた。
流れの中に立ち尽くす影が一人。
一糸まとわぬ姿で川の水を身体に這わせる若い女の姿がそこにはあった。
大きな背徳感と羞恥心がこみ上げたジェードは、思わず茂みの裏へと隠れてしまった。
しかし、隠れる寸前で信じ難い光景を目のあたりにしたような気がした。
きっと見間違いだ。見間違いであって欲しい。
目の前の光景の真偽を確かめるべく、ジェードは茂みからゆっくりと顔だけを覗かせた。
やはりそこには美しい少女が一人立っていた。
川の水を両手ですくい上げては肩からかける動作を繰り返している。
見間違えるはずなどない。
彼女の姿はジェードの前から逃げ出した少女のそれそのものであった。
──そのものであるはずだ。
しかしそう断定できない自分がいることにジェードは気づき始めていた。
彼女の外見は先程までとは明らかに違っている──頭の上には大きな獣の耳がピンと立ち、腰からは毛皮に覆われた太い尾が垂れ下がっていた。
これじゃあまるで、僕が描いた絵そのものじゃないか……
状況がまったく飲み込めない。
なぜ逃げた少女はこんなところで水浴びをしているのか。
なぜ彼女には獣の耳と尾がついているのか。
そしてなぜこの光景から目が離せなくなっているのか。
不意に森の南側からジェードの背を押すように強い風が吹いた。
その風は川面に無数の弧を広げ、少女の腰まで伸びた美しい髪を乱した。
そのとき、ジェードと髪をかき上げた少女のそれぞれの視線が交差した。
少女は風が吹いてきた方角をなんとなく見やっただけだったのかもしれない。
しかしそこには風に揺られて擦れる葉の音の中から顔を出すジェードの姿があった。
少女の視線がジェードの眉間を貫く。
ようやく探し人を見つけ出したというのに、探さないほうがよかったのかもしれないという後悔の念がジェードの胸に渦巻いた。
目が合った瞬間、落ち着きを取り戻していた少女の表情が再び畏怖に歪んだからである。
少女は一瞬辺りをせわしなく見回したかと思うと、両手をついてジェードに向かって走り出した。
人のような姿をしていながら、両手両足で走る様はまるで動物のようである。
その速さも人間の領域を超えていた。
決して運動が得意ではないジェードの反応速度では到底避けきれず、飛びかかってきた少女に勢いそのまま押し倒されてしまった。
倒された時に後頭部から落ちたのだろう、脳が揺れて意識がぼんやりする。
不明瞭な意識の中で感じるのは微かな後頭部の鈍痛と胸元をチクチクと刺すような感覚。
そして異様なまでの息苦しさ。
息を吸おうとしても気道に空気が通っていくのを感じない。肺が膨らむ感覚がない。
どういうことだろう。
頭を打って呼吸の仕方を忘れてしまったのだろうか。
朦朧とする意識の中、僅かに開くことができた瞼の隙間から見えるぼんやりとした景色は一面の銀世界だった。
いや、銀世界とは少し違う。
白いことには間違いないのだが、ほんの少し赤みを帯びているような色使いだ。
視界が少しずつ明瞭になってくると、今度は一面の白色の中に明るい色の毛髪や真紅の斑点が確認できた。
そうか、この白色は肌──飛びかかってきた少女の白肌だ。
それが視界を覆い尽くすほどに接近しているんだ。
僅かに橙色の髪の毛が見えることから考えて間違いないだろう。
じゃあ、この赤い斑点は……
──血だった。
少女の柔肌に付着した少量の血液。
一体どうしたんだろう。
なぜこの少女は怪我をしているんだ?
しかし、その疑問が的を得ていないことにジェードが気づくまでに大した時間はかからなかった。
頭を打った衝撃が徐々におさまり、意識が鮮明になってくると、自分が今置かれている状況が客観的に把握できた。
ジェードを押し倒した少女がジェードの胸に鋭い爪を突き立て、首筋に噛み付いていたのである。
その姿はまるで獲物をとらえた肉食動物がとどめを刺そうとする瞬間のそれそのものであった。
自分の身体を襲う爪や牙に気づくと、胸の痛みや息苦しさが一層増した。
一度は取り戻した意識だったが、首筋に噛み付いた牙が呼吸を許さないせいで酸欠となり、再びジェードを微睡みが襲った。
僕は、このまま死ぬのか。
不思議と恐怖はない。
このまま噛み殺されることを受け入れてしまったような冷静さだった。
その冷静さ故に気づいた。
ジェードの首に触れている牙と唇が微かに震えている。
胸に食い込んだ爪もだ。いや、あるいは少女の身体全体が小刻みに震えているような気さえした。
どうしたのだろう。
その爪で心臓を抉れば、あるいはその牙で喉元を裂けばジェードを殺せるというのに、少女はいつまでもそうしようとしない。
それどころか圧倒的優位な立場であるはずの少女のほうが恐怖心に苛まれているように感じられた。
どうしたんだい。
そんな言葉をかける代わりにでもするつもりだったのだろうか。
ジェードは自身の右手をゆっくりと持ち上げ、少女の髪に触れた。
少女の全身がびくりと反応したのが伝わってくる。
怖がることはないよ、大丈夫。
まさに今自分を噛み殺そうとする相手に対し、ジェードの胸中はどういうわけか慈愛のような感情に満ち溢れていた。
転んで泣き出した幼子をあやすように、悪夢に魘された赤子を寝かしつけるように、温かい慈しみが込められた優しい右手が少女の髪をそっと撫でた。
撫でられた少女は一瞬固まっていたが、突然ジェードを突き放すように距離をとった。
気道が開き、ジェードの肺にようやくひんやりとした空気が流れ込んでくる。
咳き込んで上半身を起こしながら、ジェードは少女が立ち退いた方向に視線を移してみた。
目に涙を浮かべた少女は腰が抜けてしまっており、未だに震えながらジェードを見つめている。
金色をほんの少し溶かし込んだような橙色の髪と、その上に座している尖った耳。
太い尾は毛が逆立ち、腰周りに巻き込まれたようになっている。
肢体はかなり痩せていて、先程まで抑えこまれていたのが信じられないほどに細い。
きめの細かい肌は恐怖で血の気が引いて青ざめ、さらに白さが際立ってしまっている。
まるで描いた絵が目の前で生きているようだ……
酸欠で意識が朦朧とする中、ジェードは目の前の少女に手を伸ばした──伸ばさずにはいられなかった。
ジェードの右手と少女の顔の距離が徐々に狭まる。
少女に抵抗する気力はまるで残っておらず、迫る右手を震えながら見つめることしかできない。
ついにジェードの右手が少女の頬に触れた。
少女の身体がまたびくりと反応する。
しかしジェードの手つきは髪を撫でたときのように優しい。
やがて右手は頬を滑るように少女の顔を登り、親指が彼女の涙を拭った。
そしてこの瞬間、ジェードは酸欠の微睡みから意識をはっきりと取り戻した。
あれ、僕は何を──
目の前にいるのはずっと探していた少女。
気づいたのは泣きそうな顔で震えている裸の少女に触れようと手を伸ばす自分。
意識が覚醒する折としてはまさに最悪としか言いようがなかった。




