一室の団欒
デニスの楽団の馬車に揺られてフィスキオの街に辿り着いたジェードとアンバー。
楽団員が宿泊するという宿屋にはまだ空室があったため、ジェードたちも同じ宿屋でしばらく過ごすことにした。
宿屋の二階へ上がり、部屋の扉を開けるとそこにはベッドと小さな机が一つずつあった。
正面の壁にある窓からは夕焼けに染まった向かいの建物が見える。
外から微かに聞こえてくる楽器の音もまた趣があり、しばらく滞在するには申し分ない部屋だろう。
「おおお、これが"ベッド"というやつかの? この上で寝るのじゃな、主様!」
「見るのは初めてかい? 寝転んでごらん」
こんな小さな宿屋の一室でも、森育ちのアンバーにとっては初体験のものばかりだろう。
瞳をキラキラ輝かせて子どものようにはしゃぐアンバーは飛び込むようにベッドに転がった。
枕が跳ね、シーツが少しだけふわりと浮き上がる。
アンバーは寝転んだままベッドを手で押してみたり足をばたつかせてみたり、しばらくその感触を楽しんでいた。
「とても柔らかいのう! 芝の上とは大違いじゃ!」
彼女は尻尾をパタパタと振りながら満面の笑みを浮かべている。
そういえばいつの間にか耳も尻尾も顕になっている。
部屋で二人きりになったからもう問題はないのだけれど。
「ごめんよアン、あんまりお金がないばかりに一人部屋しか借りられなくて。僕は床に寝るからベッドは君が使ってくれ」
そう言ってジェードははしゃぐアンバーを横目に荷物を下ろした。
「そこまでせずとも、少し詰めれば二人寝転ぶには十分な大きさじゃぞ?」
「いやいやそんな! 僕らが同じベッドで寝るなんて、ダメだよいろいろと……」
少し赤くなったジェードが両手を振る。
ところが彼の意図が汲めないアンバーはベッドの上にペタンと座り込んで首を傾げたままだ。
「何がダメなのじゃ、主様? 森では星を見ながら二人並んで眠ったではないか」
「あのときは気がついたら寝ていただけだから、なんて言うか──」
「あっ! 主様、あれは!」
あれ、聞いてくれないのか。
必死に弁明しようとしていたジェードの言葉は簡単に遮られてしまった。
年頃の少女と同じベッドで眠るということがジェードにとってどれほどの茨の道か、きっと彼女はわかっていない。
プラムの北の森の獣道のほうが何倍も進みやすい気がする。
呆れつつもジェードがアンバーの指差す方を見ると、そこには机の上の小さな花瓶にささった青い花があった。
「あれは……」
「リンドウ! じゃな!」
「おっ、よく覚えてるね、アン」
「他でもない主様に教わったことじゃ。簡単に忘れるものか」
平原で休んでいる時に話したことをアンバーはきちんと覚えてくれていたのだった。
よくできましたと褒めるようにジェードはアンバーの頭を撫でた。
頭を揺さぶられる彼女の緩みきった表情は嫌いではない。
撫でられるだけでどうしてそこまで嬉しいのかと疑問にも感じるが、そんなアンバーを見ているとジェード自身も不思議と微笑ましく思えた。
「それより主様、ずっと人間に化けておったから腹が減った!」
「確かにそろそろ夕食の頃合いかもね。何か買ってくるからここで待っててくれるかい? お金はないから大したものは食べさせてあげられないけど」
「主様と一緒に食べられれば何でもご馳走じゃよ」
アンバーは耳や尻尾まで隠して完全に人間に擬態すると多くの養分を消費すると前に言っていた。
馬車に揺られる数時間の間ずっとそうしていたのだから、きっと今は腹ぺこに違いない。
ジェードは一人で部屋を出ると、宿屋の二階から早足で階段を降りていく。
一階部分は酒場になっていて、小さな厨房に立つ男が一人で料理の仕込みをしていた。
さすがに酒場の料理を頼むと高くつきそうだと思い、ジェードは宿屋を出て屋台を見てみることにした。
宿屋の外は本当に賑やかで、あちこちから笛や弦楽器や打楽器の音が聞こえてくる。
街を歩いているといつの間にか歩調が聞こえてくる旋律と重なっている。
屋台に並んでいると自然に肩が揺れ動いて聞き耳を立ててしまう。
音楽という文化が人間の生活にどれほどの彩りを与えているか、この街にいるだけでそれを肌で感じることができるようだった。
「はいよ、二人前お待ちどう!」
「どうもありがとう」
それほど大きくもないパンが二つ。
旅費の節約のためこんなものしか買えなかったが今は致し方ない。
絵を売ってお金を作るまで贅沢は禁物なのだ。
*****
「お待たせ、アン。今戻っ……あれ?」
宿屋に戻ったジェードが扉を開けると、部屋には誰もいなかった。
静かな室内で聞こえるのは宿屋の外で演奏される楽器の音だけだ。
「アンバー? おかしいな、どこに行ったんだろう?」
大して広くもない部屋を見渡すが、アンバーの姿はやはり見当たらない。
外に出たのかもしれないとジェードが扉の方を振り返ろうとしたそのとき──
「──わしはここじゃぁあああっ!!」
「うわあぁっ!?」
一瞬何が起きたかわからなかった。
足元から声がしたかと思うと、ベッドの下から輝くような琥珀色が勢いよく飛び出してきた。
ジェードは驚いて腰を抜かし、尻餅をつく。
そのときに勢い余って買ってきたパンを宙に放ってしまった。
「「あっ」」
拍子抜けした二人の声の中、視界を上から下へと通り過ぎていく二つの物体。
落ちる前にそれを受け止めようとジェードが手を伸ばす。
一つは右手が捉えたものの、左手が狙ったもう一つは掴み損ねて再び宙を舞う。
慌てて体勢を立て直し、左手でもう一度掴みかかる。
しかし別の両手が横から伸びてきてそれを受け止め、ジェードが伸ばした左手は虚しく空を切った。
──静寂。
ゆっくりとジェードが視線を持ち上げると、そこには両手でパンを受け止めて目を丸くしたアンバーの姿があった。
ジェードと目が合うとアンバーは小さく吹き出し、やがて一人で大笑いし始めた。
「アハハハハ! 主様はいつも簡単に転がりすぎじゃぞ!」
「ベッドの下に隠れてたのかい? まったくお転婆だなぁ。危うく夕飯を落とすところだったよ」
「落とさなかったのじゃからよいではないか。ああ、しかし今のはとても面白かった!」
「僕はちっとも面白くなかったよ……」
待っている時間が退屈だったのか、アンバーはジェードに悪戯を企んでいたようだ。
腹を抱えて楽しそうに笑うアンバーを見ていると叱るに叱れないジェード。
結局彼もつられて笑い出してしまい、許してあげてもいいかとつい甘やかしてしまったのだった。
二人はベッドに隣合って腰かけ、それぞれパンを齧り始めた。
ほんのり温かくて香ばしく、安価だった割に味もよかった。
「む? 主様のは匂いが違うのう」
「気づいたかい? 僕のは干し葡萄が入っていて、君のはバターが入っているよ」
「そっちも美味そうじゃの!」
「じゃあ半分ずつ千切って交換しようか」
「賛成じゃ!」
何も特別なことなどない、その日の食事についての話題。
こんな些細な話でも、彼女と交わしているというだけでどうしてこんなに楽しいのか。
安い夕食を美味しそうに頬張る彼女の横顔をいつまでも眺めていられそうな気がするのはなぜだろうか。
今思えばアンバーをプラムの森に残して一人でこの旅に出ようとしていた自分が信じられない。
彼女はいつの間にかそれほどまでにジェードにとって特別な存在になっていた。
*****
「ふぅ、美味かったのう! じゃが、久しぶりに主様の手料理が食べたいものじゃ」
「そうかい? じゃあお金に余裕ができたらまた何か作ってあげるね。この街なら僕の絵も少しは売れるかもしれないし」
「きっと大丈夫じゃよ。主様の絵の素晴らしさを一番よく知っておるわしが言うのじゃから間違いない!」
「あはは、ありがとう、アン。そうと決まれば、早速何か描いてみようかな」
ふと窓の外を見るとすっかり暗くなっていた。
初めて訪れた街で初めて見る夜景。
外から聞こえてくる楽器の音色と合わさって神秘的に見えるその景観はジェードの創作意欲を胸の奥から湧き上がらせるようだ。
ジェードは鞄から画材を取り出すと机の前にあった椅子を窓辺へ運ぶ。
その椅子にゆっくりと腰掛けたジェードは、窓から見える風景を手にした紙に描き始めた。
どうすれば"音"という概念を絵の中で表現することができるか。
例えるなら、その絵を見るだけで街の中に溢れる様々な楽器の音色が想像できるような──そんな絵に挑んでみようと思うと心が弾むようだった。
自分の世界に入り込んでひたすら手を動かすジェード。
アンバーはベッドに腰掛けたままその後ろ姿をじっと見つめていた。
これも彼女にとっては好きな時間の一つだ。
ジェードの隣で一緒に語らう時間ももちろん好きだ。
しかし夢中になって絵を描く彼の背中を黙って眺めているのもこれはこれでいいものだと思える。
必死で何かに取り組んでいる彼の姿はどうしてこんなにも素敵で格好いいのだろう。
しかしそんな愚問に答えなどは必要ない。
その同じ疑問の堂々巡りに酔いしれることができるだけで、アンバーにとっては非常に心地よいひとときであることには違いないのだから。
いつもご愛読ありがとうございます
今回はあまり山場もない感じですが、二人の会話にほんわかしてもらえたらなーなんて思ってます笑
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今後ともよろしくお願いします!
以上、わさび仙人でした!