荷馬車と旅団
第一章プラム編も完結し、今回からはフィスキオ編と題した第二章のスタートです
絵描きと妖狐のふたり旅の始まり始まり〜!
「……ちょっとだけ、休憩にしようか……」
平原を伸びる道。
それはこれまで往来してきた数多くの荷馬車が、何十年もの歳月をかけて踏み固めた道標。
そこには大きな荷物を背負った一人の青年と、その先を小気味良く歩く一匹の少女の姿があった。
青みがかった黒髪の青年は額に汗を浮かべていて既に疲れきっている。
ほんの少し金色を帯びた橙色の髪の少女の足取りの軽さとは対象的だ。
少女の頭には獣のような耳がピンと立ち、腰のあたりからは柔らかな毛に覆われた太い尾が垂れ下がっている。
この姿を見れば誰でも彼女が人間ではないことを一目で確信できるだろう。
「またか、主様? さっき休んだばかりなような気もするのじゃが」
「そんなことないよ。はぁ……隣の街って思ったより遠いんだなぁ」
小言を零す青年の名はジェード。
名前の由来である翡翠色の瞳が特徴の絵描きである。
その青年に駆け寄ってくる水色の瞳の少女の名はアンバー。
これはジェードがその琥珀色の髪を見てつけた名前だ。
「むぅ、主様はもう少し体力をつけねばならぬな。殿方にしては身体が細すぎる気もするしのう」
「森育ちの妖狐がたくましすぎるんだよ、アン。それに細すぎるって言われても、そんな筋骨隆々の絵描きなんて聞いたことないんだけど?」
ジェードは荷を下ろして脇の草原に座り込んだ。
疲れた様子などまったくないアンバーもそれに続くようにジェードの隣に腰掛けた。
既にジェードが言ったように、アンバーは森で生まれ育った妖狐である。
人間に憧れを抱く彼女は、先刻こうしてジェードの旅に同行することを決めたのだ。
「主様主様! そこに咲いておる花はなんというのじゃ?」
鉄製の瓶に入った水で喉を潤すジェードにアンバーが尋ねた。
彼女が指差す先には目一杯に青色の花弁を広げる小さな命があった。
「ええとあれは、多分リンドウの仲間じゃないかな? 秋になると草原で花を咲かせるって図鑑に書いてあった気がする」
「ほほう、綺麗な青色じゃのう!」
「花言葉は確か"悲しんでいるあなたを愛する"だったかな? 群生せずに一本だけ咲く様子が悲しんでいるように見えたとか、そんな由来だった気がするけど」
「あんなに綺麗に咲いておるではないか。悲しんでおるようには見えぬのじゃがな」
「まあ、見え方は人それぞれだろうからね」
ジェードの軟弱さに呆れ気味だったアンバーだが、休息を取ることには吝かではなかった。
ジェードの隣に座って語らう時間は彼女にとっては至福のひとときなのである。
「主様は本当に物知りじゃのう」
「母さんが知識欲の鬼でね。小さい頃からいろんな本を読まされて育ってきたから」
「じゃから他の国の言葉も知っておったのか? わしらの名前は遠い国の言葉が由来なのじゃろう?」
「そうなるのかな。話せるほど知ってるってわけじゃないんだけどね」
ジェードの肩に乗ったアンバーの頭の感触はとても軽い。
近すぎるほどの彼女のこの距離感にも随分慣れてきた。
本当に甘えん坊だと呆れることもあるが、この彼女らしさはやはりどこか憎めないものがある。
「他にはどんなことを知っておるのじゃ? わしはもっといろんな話が聞きたい!」
「そんなに焦ることもないだろう? また今度ゆっくり、ね」
ジェードはそう言いながらアンバーの頭を撫でた。
撫でられたアンバーは慌ただしく尻尾を振り、表情が完全に緩みきっている。
たったこれだけでこんなにも嬉しそうにしている様子は妖狐というよりまるで犬だ。
「……む?」
何かを聞き取ったのか、不意にアンバーの耳がピクリと動いた。
彼女が見やった方角へと視線を向けると、ジェードの目に映ったのは遥か遠くからこちらへ近づいてくる馬車だった。
あんなに離れていても気づけるなんて、妖狐は本当に耳がいいんだなぁ。
妖狐は人間に比べて聴覚も嗅覚も身体能力も優れている。
そんな彼女を見ているといつも劣等感に苛まれるジェードだが、種族差ばかりは仕方のないことだ。
よく見ると馬車で手綱を握っている男が何かを叫びながら手を振っている。
ひとまず二人は馬車が追いついてくるのを待つことにした。
「アン、耳!」
「おっと、そうじゃな」
プラムの人々がそうだったように、妖狐をあまり善く思っていない人間も多い。
余計ないざこざを回避するためには、アンバーにはとりあえず人間の振りをしてもらうのがよいだろう。
アンバーが頭の上の耳を両手で覆い、撫でるように手を下ろすとそこには何もなくなっていた。
耳を隠す瞬間を初めて目の当たりにしたジェードだったが、原理は相変わらずさっぱりわからない。
耳ばかり注視していて気づかなかったが、いつの間にか尻尾も消えている。
人への擬態、天候への干渉、生命の救済──知れば知るほど妖狐とは不思議な生き物である。
*****
「いやあ、呼び止めて済まないな。ちと道を聞きたいんだ。どうも地図を失くしちまったみたいでねぇ」
「地図なら持っているよ。ちょっと待っててくれるかい?」
馬車が二人に追いつくと、馬を止めた御者の男が声をかけてきた。
馬車の後ろには大きな荷台がついている。
そこには十名弱の乗員がいて、最後尾には布がかかった大きな荷物が積まれていた。
彼らは道に迷っているようで、ジェードは鞄から地図を取り出して男に差し出した。
「ええと、今いるのが多分ここだから、このまま進めば……よかった、道は合ってるみたいだな。ありがとよ!」
「それはよかった、どういたしまして」
御者の男はニカッと笑うと地図をたたんでジェードに手渡した。
ジェードより少し歳上くらいに見えるが、まだ随分若くて気さくな印象だ。
「あんたらはどこに向かってるんだ? 行き先が同じならお礼に乗せてってやるが」
「具体的な目的地は決めてないんだけど、とりあえずここから一番近いフィスキオの街に行こうと思ってるんだ」
「なら決まりだ。俺たちもそこに向かってるから遠慮せず乗っていきな。なぁ、いいだろ団長?」
御者の男が荷台の方に向かって叫ぶと、たくましい身体をした髭の大男が答えた。
「構わねぇよー。狭くてもよければな」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
今朝プラムを発ってから既に数時間。
次の街に辿り着くまでに野宿を覚悟していたが、乗せて行ってもらえるならその心配も必要なさそうだった。
*****
爽やかな秋の風に吹かれながら、平原に伸びる道を進む馬車。
その荷台に乗った旅団の人々は年齢も性別も様々であった。
狭い荷台でジェードの隣にくっついて座っているアンバーは妙にそわそわと落ち着きがない。
森であのようなことが起きた後だ。
多くの見知らぬ人間に囲まれて普段通りでいるのも難しいだろう。
そんなアンバーの不安を察したジェードは彼女の膝の上に置かれた手をこっそりと握った。
一瞬背筋がピクリと伸びたアンバーの視線がジェードに向けられる。
それに応えるようにジェードはゆっくりと頷いてみせた。
明らかに緊張していたアンバーの表情がほぐれ、力んでいた身体が落ち着きを取り戻していく。
ところがここまで表情筋を緩める必要はないのにと思うほど、彼女の顔は幸せそうにほころんでいた。
「本当に助かった。この道で合ってるのかどうか自信がなかったもんでな」
御者の男に団長と呼ばれていた髭の大男が改めて礼を述べた。
髪は硬そうな赤毛で、もみあげから顎まで繋がっている髭も同じ色。
身体が非常に大きくてたくましく、華奢なアンバーと比べるなら二人分くらいの肩幅がありそうだ。
「俺はデニス。この一団の長を務めている。隣に座ってるのは女房のアンネ、反対側は娘のビアンカだ」
団長の男──デニスが両隣の人物を紹介すると、アンネと呼ばれた女性が上品に会釈をした。
薄い紺色の長髪が日に当たって輝き、彼女の整った顔立ちをより際立たせているように見える。
ビアンカと呼ばれた少女の見た目年齢はアンバーと同じくらいだろうか。
父のデニスと同じ赤毛を三つ編みにして項から胸へと垂らしている。
そばかすがあるせいかとても幼い印象を抱くが、目も合わせようとしないツンとした雰囲気はまったく子供らしくない。
「こらビアンカ、挨拶くらいしなさい。すまないな、こいつは人見知りが激しくて」
「いやいや、平気だから気にしないで」
ムスッとしているビアンカに代わってデニスが非礼を詫びた。
「あ、僕はジェード、旅の絵描きだ。そしてこっちが連れの──」
「アンバー! じゃ!!」
アンバーはジェードの言葉を遮って飛び上がるように声を張り上げた。
そんな彼女はなぜか得意そうな顔を浮かべている。
尻尾を出していたらきっと忙しなく振り回していそうだとジェードは思った。
今まで黙り込んでいた少女が急に元気になったとあって、乗員たちは皆驚いて目を丸くしていた。
「ワハハ、随分嬉しそうに名乗るんだな、嬢ちゃんは」
嬉しそうというより、実際嬉しいのだろう。
大好きな相手からもらった名前はきっと彼女のお気に入りなのだから。
「ま、旅の者同士よろしくな!」
「うん、よろしく! と言っても僕らが街を出て旅を始めたのは今朝のことなんだけどね」
「この辺の街ってことはアンタらはプラムの出身か? あそこはやたら人が多い街だよな」
「国中の商人たちが集まる街だからね。いつも賑やかだよ」
「だが、賑やかさなら今向かってるフィスキオも負けてないと思うぞ? あそこは"音楽の街"と呼ばれているからな」
会話はほとんどジェードとデニスの二人だけで進んでいた。
まだ人慣れしていないアンバー、元々静かそうに見えるアンネ、そしてまったく心を開こうとしないビアンカという女性陣見るとそれも仕方なく思えた。
「音楽の街……ということはデニスさんたちは楽団か何かなのかい?」
「おっ? いい勘してるなお前さん、当たりだ」
「後ろに積んであるのは楽器だろう? だからピンときたんだ」
ジェードは荷台の最後尾に詰まれたものを見ながら答えた。
布がかけられてはいるが、その隙間から弦楽器の一部や色鮮やかな衣装が度々顔を覗かせていたのだ。
「ほほう、これが楽器か……実際に見るのは初めてじゃ」
「触っちゃダメだからね、アン」
「むっ!? わっ、わかっておるっ!」
アンバーは明らかに手を伸ばしかけていたが、そこは言及しないであげることにした。
彼女が興味を抱くのも無理はない。
音楽というのは人間が独自に編み出し、嗜んでいる特有の文化だ。
次の街ではアンバーに貴重な経験をさせてあげることができそうだと、ジェードも胸が踊るようだった。
「気になるか、嬢ちゃん? 少しだけなら聴かせてやってもいいぞ」
「なぬ、本当か!?」
「おうともよ。まあ俺の担当は打楽器だから、聴いてもあんまり面白くないかもな。アンネ、頼めるか?」
アンネはデニスの問いかけに微笑んだまま無言で頷くと、膝に乗せた鞄から棒状のものを数本取り出して組み立て始めた。
慣れた手つきで組み上げられたのは、銀色に輝く美しい横笛だった。
アンネはそれを唇に当てて目を閉じると、ゆっくりと息を吹き込んだ。
鳴り響いたのは澄み渡った清い風を想起させるような高音。
その音は狭い馬車の荷台を飛び出して広大な平原へと響き渡る。
笛の音を乗せた風が吹き抜けると、まるで草花が歌い始めたかのように葉が擦れて新しい音を奏でる。
まるで平原すべてを覆い尽くすように暖かく美しい旋律は、たった二人の聴衆の心にそっと触れるように染み渡った。
たった数十秒の独奏。
思わず呼吸を忘れて聴き入っていたジェードは、演奏が止まったあとで無意識に拍手していたことに遅れて気がついた。
アンバーも感動のあまり呆然としていて、ジェードの見様見真似で両手を叩き合わせていた。
「──ありがとう」
物静かなアンネがそっと呟き、軽く一礼した。
「すごい、すごいのう……本当にすごいのう!!」
感激のあまり同じ感想を繰り返すことしかできないアンバー。
そんな彼女にアンネは笛の手入れをしながら優しく微笑み返していた。
「街では全員での演奏を披露するから、今ので興味が湧いたら是非見に来てくれよ」
「これは見逃せぬぞ、主様!」
「そうだね。絶対見に行くよ、デニスさん!」
*****
それから数時間。
夕陽が紅く輝く下にその街は現れた。
入口の門の外まで聞こえてくる様々な楽器の音色。
それらを讃えて鳴り響く拍手や指笛の喧騒。
ジェードとアンバーは産まれて初めて故郷の外の街へ──音楽の街と呼ばれるフィスキオへと足を踏み入れた。
個人的にアンバーの可愛さをどこまで前に押し出せるかという挑戦をしています、わさび仙人と申します笑
新たな出会い、新たな街
こういうのってなんだかワクワクしますよね!
いつも読んでくださっている方々、本当にありがとうございます!
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