別れ、そして旅立ち
第一章、最終話です
「──アンバぁぁぁッ!!」
疲弊した身体に鞭打ちながらジェードは駆けた。
目の前でその身を力なく横たえようとする少女の動きがとてもゆっくりに見える。
それなのに自分の身体も一緒に減速しているように感じられてなかなか距離が縮まらない。
頭の中は真っ白で何も考えていない。
それでも脚は土を蹴り、腕は少女へと伸びる。
首から下が別の生き物になったような錯覚の中で、ジェードの伸ばした腕は幸いにも地面に倒れる寸前の少女の身体を受け止めた。
「アンバー、しっかり!!」
悪い予感は的中した。
抱きとめた少女の身体は、刃物で腕を突き刺されたのかと思うほど冷たかった。
生気を失った肌は透けるように青白く変わり果て、一瞬息が止まっているのかと思うほど呼吸が弱まっていた。
「──し……様……」
「アンバー、僕はここだよ! しっかりして!」
ゆっくりと瞼を持ち上げたアンバーの弱々しい瞳がジェードを見上げた。
それに応えるようにジェードは彼女の冷たい手を握り締める。
「すまぬ、主様……さっきは取り乱してしまったが……主様はわしに心配をかけたくなかっただけなのじゃろう……?」
満足に吸い込めていない息の大部分を使って、アンバーは微かに聞き取れるだけの言葉を発する。
ジェードは彼女の口元まで耳を近づけてその言葉を聴きとろうとしていた。
「落ち着いて考えれば……わしの住む森がこれから燃やされるなど……言い出しづらいものな……まったく、優しすぎるのも考えものじゃぞ主様よ……」
アンバーが降らせた突然の雨。
お伽話になった伝説が本当であれば、これはアンバーの生命を代償とした雨乞いの儀式によってもたらされたと考えるのが自然だ。
この雨により森はほとんど鎮火されている。
予想外の事態に驚いた狩人たちが撤退していく足音が時折聞こえてくるが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「どうして……君がこんな無茶をする必要なんて……!」
「自己犠牲をしてでも守りたかったのじゃ……森も仲間も、それに主様も……何一つ失いとうはなかった……それほどまでに主様のことが……愛しくなってしまったのじゃ……」
「アンバー、お願いだからもう喋らないで……!」
ジェードは冷えきった少女の身体を温めようとするように抱き寄せた。
さらに弱まっていく彼女の息を、これ以上発声に使わせたくはなかった。
「すまぬのう、主様……せっかく抱き締めてくれたというのに……わしはもう主様の温もりも腕の感触も……何もわからぬ……」
いつものように細腕がジェードの背中に回ってくる様子はない。
耳元で囁かれる彼女の声に、ジェードは目頭が急に熱を持つのを感じた。
「残念じゃ……これが……最……後…………」
「…………アンバー……?」
耳元で声が途切れ、合わせている頬にひんやりとした雫が流れてきた。
やがて重力に逆らえなくなった彼女の頭部が力なくコクリと傾いたのがわかった。
その感覚を皮切りにジェードの視界は大きく波打つように歪んだ。
「…………ぅ、ぁぁ……ぁぁぁぁぁあああああああああッ!!!」
自分の喉からこんなに大きな音が出るなんて知らなかった。
今まで誰に虐められようと蔑まれようと、こんなにも胸が痛かったことはなかった。
今まで全然平気だったくせに、独りぼっちになるのが急に恐ろしくなった。
君を失うのが、怖くて怖くて敵わなかった。
今ここで起きていることを信じたくなくてただただ吠える。
無様な泣きっ面を見た運命様が同情してくれないかと祈り続ける。
しかし腕の中に抱えた冷たい少女は目を閉じたままピクリとも動こうとはしなかった。
どうして……!
どうして、どうして、どうして……!
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……!
どうして……こうなった……!!
どこで間違えたんだ。
嘘をついて彼女を森に帰したのがいけなかったのか?
大商会に抗議しに行って捕まったのがいけなかったのか?
そもそも僕らが出会ったこと自体が間違っていたのか……?
僕が彼女にまた会いたいなんて言わなければ、こんなことにならずに済んだのだろうか……?
答えなど誰も寄越してはくれない堂々巡りの中で一生溺れ続けるのかと思った。
ところがそのとき、ジェードは周囲から自分に向けられる複数の視線を感じとった。
動かなくなった少女を抱き締める青年の慟哭に引き寄せられるように現れたのは、十数匹の妖狐の群れだった。
腕に抱える少女以外の妖狐を目の前にするのは初めてのことであったが、青年の中に感動や感激は湧き上がらなかった。
そうか、彼らは僕を殺しに来たのか。
真っ白な頭でジェードはそう直感した。
同族への誇りが強い妖狐たちは、おそらく仲間の危険を察知して助けに来たのだろう。
しかしそれには間に合わず、目の前にいるのは助けようとしていたはずの仲間を抱えた憎き人間。
彼らが怒り狂おうともジェードに釈明の余地などない。
彼女を失ったのは自分のせいだ。
だから自分は妖狐たちの怒りの捌け口として死ぬのがお似合いだと、ジェードは覚悟を決めた。
ところが妖狐が動く様子はなかった。
炎が消え、煙った森の茂みの陰からずっとジェードたちを見つめていた。
今まで炎に覆われていたため気づかなかったが、いつの間にか夕陽は沈んで森は薄暗くなっている。
二つずつ対になってこちらの様子を伺う妖狐たちの目は、暗い森の中でぼんやりと光って見えた。
少女を抱えて啜り泣くジェードに一匹の妖狐が歩み寄ってきた。
襲われる覚悟を決めていたジェードだったが、その妖狐は彼の横でピタリと立ち止まった。
そしてジェードの表情を観察するように見上げたあと、腕に抱えた少女の身体とジェードの身体の間に鼻先をぐいぐいと押し込んできた。
離せと言っているような気がして、ジェードは少女を抱き寄せる腕を緩めた。
すると妖狐は冷たくなった少女の身体を鼻先でつつき始めた。
何度触れても少女の身体からまったく反応は返ってこない。
無駄だよ、彼女はもう……
魂が抜けたようになったジェードも途方に暮れ、少女については半ば諦めつつあった。
そのときだった。
妖狐の鼻先に微かな光が灯ったように見えた。
妖狐がその鼻先で少女の胸に触れると、そこに蝋燭の火のような小さな光が一瞬灯ったような気がした。
その光は溶けてなくなるように消えてしまい、ジェードはそれをしっかりと目に捉えることはできなかった。
妖狐が少女から離れると、周囲にいた妖狐たちは次々とジェードたちに歩み寄ってきた。
そして先程の妖狐と同じように、順番に鼻先で少女の胸に触れていく。
その度に少女の胸に小火が灯っては体内に染み込むように消えていく。
妖狐は一体何をしているのだろうか。
これが妖狐にとっての弔いの儀式であったりするのだろうか。
それとも他の何かだろうか。
何が起きているのかジェードは理解が追いつかなかった。
森を救った英雄を讃えようとするかのように、妖狐たちは代わる代わる同じ行為を繰り返していった。
まさか彼らは……
ジェードの中に一つの仮説が浮かんだそのときだった。
「……ぅ……ぅう……」
腕の中から小さな呻き声が聞こえた。
小鳥がさえずるような澄んだ声──もう一度聞くことはもう叶わないと諦めていた声がジェードの耳にこだますようだった。
「……アン……バー……?」
「……主様……か?」
呆然としていて気づかなかったが、いつの間にか少女の身体は体温を取り戻していた。
彼女が呼吸する音ははっきりと聞こえ、重そうに持ち上げた瞼の下からは生気の戻った水色の瞳が翡翠色の瞳を見つめ返していた。
「……夢でもみておるようじゃった。二度と主様の温かさが感じられなくなるような、そんな嫌な夢を……」
「アンバー……!!」
もう、こうすることしかできなかった。
ジェードはまるで寝起きのようにぼんやりとしている少女を力の限り抱き寄せた。
「主様、痛い……じゃが温かい……わしはまだ、主様を感じられるのじゃな……」
そう実感するだけで、アンバーの目からは堪えきれなくなった慕情が止めどなく溢れ出てきた。
ゆっくり持ち上がったアンバーの腕がジェードの背中へとまわってくる。
二人にとってこの感覚は何千年、何万年も待ち焦がれていたようにすら思えた。
どういうわけかジェードは見逃されたようで、いつの間にか妖狐たちの姿は見えなくなっていた。
彼らがアンバーにそれぞれの生命の一部を分け与えたのか、それとも何か他の事象を引き起こしたのかは知る術もない。
誰もいなくなった暗い森の中は、力強く抱きしめ合った二人の慟哭だけが響き渡ったのだった。
*****
「ジェード、本当に行っちまうのか?」
「うん、ずっとこうするのが夢だったからね。あんな騒ぎを起こしてこの街にも居づらくなっちゃったし、いいきっかけだよ」
空気の澄んだ爽やかな朝。
まだ人の少ない大通りには、大きな荷物を背負うジェードを見送る彼の家族の姿があった。
「まったく、まさかお前が本当に出て行っちまう日が来るなんてな」
「たまには帰ってきてちょうだいね、ジェード」
「まー、店ならオレが継ぐからさ。そのへんは気にしなくていいからね、兄さん」
「ぅぇぇん、ばいばいジェードおにーちゃーん!」
楽しいことばかりではなかったけれど、家族との暮らしもとても幸せだったと今では思う。
長男が店を継げとあんなにうるさかった父のエドガーも、この日だけは静かに背中を押してくれるようだった。
こうして両親と一つ下の弟、泣きじゃくる幼い妹に見送られ、ジェードは生まれ育った家を去って行くのだった。
*****
プラムの街を出る前に、ジェードは北の森の川辺を訪れていた。
森の入り口付近は焼けて酷い有様だが、アンバーと通った川辺の美しさは損なわれていなかった。
「──そんな大荷物でどうしたのじゃ?」
不意に川の対岸から声がした。
見るとそこには秋の風に琥珀色の髪を揺らす一人の少女──アンバーの姿があった。
「この街を出ることにしたんだ。旅をしながらいろんな場所の絵を描くのがずっと夢でね」
アンバーは川面から顔を出す飛び石をぴょんぴょんと渡ってジェードの元までやってきた。
元気よく跳ねるその姿をもう一度見られるなど、昨晩は思ってもいなかった。
本当に奇跡と呼ぶに相応しい夜だっただろう。
「この街にはもう戻ってこないかもしれない。だから出発する前に君に会っておきたかったんだ」
「ふむ、そうか……」
アンバーの耳が垂れるのが見えた。
彼女が感じていることはジェードと同じだ。
互いにかけがえのない存在となった相手と離れ離れになるのはやはり心苦しい。
ジェードはそんな彼女との別れ際にどんな言葉をかけるべきかまったく考えつかなかった。
「……わしはの、主様」
「ん?」
黙り込んでしまった重い空気に割り込むようにアンバーが口を開いた。
「わしは主様のことを好いておる。昨晩は酷いことをたくさん言ってしまったが、今でもその気持ちは変わっておらぬぞ」
「ありがとうアンバー、すごく嬉しいよ」
「じゃからその……主様さえよければ、わしも一緒に連れて行ってはくれぬか?」
「……えっ?」
ジェードは思わず拍子抜けしてしまった。
命を懸けて救おうとするほど森を大切に思っているアンバーがそのようなことを言い出すとは思ってもいなかった。
「わしの命を繋いでくれた仲間たちのためにも、これからは悔いのないように生きていきたいのじゃ。今ここで主様と今生の別れとなっては、わしはきっと一生悔やみ続ける。じゃから──」
「いいのかい? 仲間たちと別れて、故郷の森を離れることになるんだよ?」
ジェードの言葉はアンバーを諭すように優しかった。
自分のそばにいたいと思ってくれるのはとても嬉しい。
しかしジェードの旅についていくということは、即ち人間として生きるということ。
今までの生き方をすべて捨ててまでそうすることが、アンバーにとって本当に幸せなことなのかはまだわからないのだ。
「確かにそれも寂しいのう。じゃがこの森は遅かれ早かれまた人間たちに燃やされてしまうじゃろう。群れの仲間たちは他の森に移ることにしたようじゃ。じゃからどちらについていくにせよ、わしはこの森を離れることになるのじゃよ」
ジェードは彼女にかける言葉が見つからなかった。
森の焼却を止めることができない自分の無力さがもどかしかった。
彼女はいつだって人間の勝手な都合で肩身の狭い生き方をしている。
理不尽に命を狙われ、故郷の森すら追われている。
一度くらいは彼女の望み通りの生き方をして欲しいのだが、ジェードにそれを叶える力はない──
「それに、主様についていけばわしの望みも叶うのじゃよ」
──ないと思っていた。
しかしアンバーの言葉はジェードの考えとは真逆を行くようだった。
「君の望みって?」
「主様と旅をすればもっといろんなものが見られる。人間の華やかさにもっと触れられるじゃろう? まだ知らぬことばかりの人間の世界を、わしは主様と一緒に見てみたいのじゃ!」
「そっか、本当に君らしいね」
何度人間の醜さを目の当たりにしようと、彼女の本質は変わっていない。
それがジェードにとっては非常に喜ばしく思えた。
アンバーが人間に対して抱く憧れ──それこそが二人が出会うこととなった原点なのだから。
「それに約束したじゃろう? 主様はいつかわしの絵を描いてくれると。そしてわしは主様の納得のいく絵が描けるときまで待っていると」
「そうだったね。もちろん覚えているよ」
「わしはあの約束をなかったことには──"嘘"にはしたくないのじゃ」
アンバーの言葉はジェードの胸の奥深くまで響き渡るようだった。
ジェードは自分のついた嘘で彼女の心を深く傷つけてしまった。
あの過ちを二度も繰り返すわけにはいかない。
もう二度と、彼女と交わした言葉に"嘘"を生みたくはなかった。
「──うん、わかった」
ジェードの心は決まった。
彼は少女に右手を差し伸べ、それを見つめる彼女に向けてを本懐を示す言葉を紡いだ。
「僕はあの約束を必ず守ってみせる。だから一緒に世界を見に行こう、アンバー!」
その瞬間、アンバーの尻尾が忙しなく揺らめき、頬が赤く染まった。
水色の瞳が潤み、彼女の両手が歓喜で震えているのがわかった。
「……主様ぁぁぁっ!!」
「ちょっ、落ち着いてアン──」
手を取ろうとしただけのジェードだったが、アンバーは喜びのあまり飛びついてきたのだった。
そのまま草の上に押し倒されたジェードが視線を隣に向けると、そこには拍子抜けした表情で瞬きを繰り返すアンバーの顔があった。
自分で押し倒しておいて何を驚いているんだか。
何が可笑しかったのか、アンバーが笑いを堪えて吹き出した。
しかし結局堪えきれず、彼女は口に手を当ててくすくすと笑い始めてしまった。
気がつくとジェードも彼女につられて笑い出していた。
笑わずにはいられなかった。
これからも"僕ら"は──"翡翠と琥珀"は共に生きていくことができるのだから。
川辺に倒れ込んだ二人の笑い声は秋の風に撫でられ、大きく豊かな森に広く深く木霊したのだった。
第一章、完結しました!
ここまでお付き合いくださりありがとうございます!
ここまで読んでみていかがだったでしょうか?
ぜひ感想にてお話を聞かせてもらえると嬉しいです!
第二章からはジェードとアンバーの二人旅が始まります
時に甘く、時に切なく、時に自分の価値観を省みることができるような、そんな作品を目指していきます
これからも応援よろしくお願いします!