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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
プラム編
15/126

 血だらけの指が痛い。

 それでも彼は抵抗をやめるわけにはいかなかった。


 倉庫に閉じ込められたジェードは、脱出のため窓の外側にある鉄格子を外そうと試みていた。

 南京錠で施錠された扉は非常に頑丈で、ここから外に出るのは最早絶望的だった。

 何か手はないかと考えを巡らせていると、ジェードは倉庫の窓枠のうちの一つが古くなって緩んでいるのを見つけたのだ。

 窓の外側には盗人を阻むための鉄格子が嵌められていて、彼はそれを外そうと何時間も素手で奮闘していた。

 鉄格子を固定していた何本もの釘や螺子(ネジ)の大部分は既に外した。

 今手を付けている螺子(ネジ)さえ抜けば鉄格子を外すことができそうだった。


「焦るな、ゆっくり……落ち着いて……」


 指と爪の隙間からは血が滲み、(つま)んだ螺子(ネジ)が滑って上手く回せない。

 急いで回そうとすればするほど空回りすることはこの数時間で痛感した。

 そのためジェードは出来るだけ平静を保てるよう自身に暗示をかけ続けていた。


「……よしっ!」


 その螺子(ネジ)がようやく外れた。

 ジェードは鉄格子を窓の外に突き落とす。

 窓の大きさは青年一人が通り抜けるには十分だった。


 急ぎジェードは窓から転がり落ちるように外へと抜け出した。

 指先での細かい作業に何時間も没頭していたせいか、彼は精神的にかなり疲弊していた。

 こめかみのあたりが締め付けられるような酷い頭痛がする。

 全身が重く、立ち上がると眩暈(めまい)がしてふらつく。

 どうやら倉庫内で飲まず食わずだったため脱水症状になってしまったようだ。


 しかしこの程度の困難で膝をつくわけにはいかない。

 ジェードは自分の頬を叩いて喝を入れ、脇目も振らず北の森へと駆けた。


 西の空には夕陽が沈み始めている。

 街の狩人たちはとっくに森に入っているだろう。

 既に火が放たれていたらジェードには打つ手がない。

 しかし万策尽きようとも彼は森を目指さずにはいられなかった。


 街の北門を抜け、焼け野原となった貧民街(スラム)を抜ける。

 その先で待っていたのは、森の入り口で赤々と揺らめく猛火の海だった。

 沈む夕陽と相まって余計に赤く見える炎は、何十歩も離れた場所に立っているはずのジェードの肌をチリチリと突き刺すような熱を放っていた。


「間に合わなかったか……」


 そう呟くジェードだったが、彼の瞳に諦めの光はまだ灯っていなかった。


 ジェードは意を決して燃え盛る茂みの中へと飛び込み、森を進んだ。

 普段厨房で火を扱うのとは大違い。

 "命を奪うため"に燃え盛る炎は、人の制御下にある釜の火とは段違いの熱量を持っているように感じられた。


「アンバー!! いるかいアンバー!!」


 ジェードは煙で咳き込みながらも少女の名を呼んだ。

 まだ炎は森の入口付近にしか広がっていない。

 森の奥に住む妖狐たちが逃げる時間は十分にあるように思える。

 しかしアンバーは違う。

 既に火の海と化した入口付近(このあたり)は彼女の行動範囲内だ。

 もし近くに彼女がいた場合にはこの猛火に巻き込まれている可能性がある。

 更に言えば火を放つため数人の狩人が森に入っている。

 運悪く遭遇すれば彼女は間違いなく標的にされてしまうだろう。


「アンバー!! いたら返事をしてくれ!!」


 そう叫びながらもジェードは近くに彼女がいないことを祈り続けた。

 森の奥で仲間とともに異変に気づき、安全な場所まで早期避難できれば最善なのだが──


「──様……?」


 ──その道は早々に消え失せた。

 微かに聞こえた震える声。

 どこから聞こえたかわからないその声に向け、ジェードは再び叫び声を上げた。


「アンバー、いるのかい? どこだいアンバー!!」


「──っちじゃ主様(ぬしさま)! わしはここじゃ!」


 その声を捉えたのは左耳だった。

 すかさずジェードは声のする方へと茂みを掻き分けて走り出した。


 やがてジェードの視界には両手を胸の前で握り締めたまま立ち尽くす少女の姿が映った。

 彼女の周囲にもまた凄まじい熱を帯びた炎の壁が立ちはだかるように広がっていた。


「アンバー、大丈夫かい? 怪我は?」


「平気じゃ主様。怪我はしておらぬ」


 一先ず彼女の無事を確認し安堵したジェード。

 しかし落ち着いてなどいられない。

 一刻も早く森から逃げ出さなければこのまま二人とも焼け死んでしまう。


「主様、これは一体どういうことなのじゃ? 街へ行こうとしたら森が……森が……!」


「街の人間の仕業だよ。妖狐を駆除すると言って狩人が森に火を放ったんだ」


 毛が逆立ったアンバーの尻尾は脚の間に挟み込まれるように巻かれている。

 胸中では不安や恐怖に押し潰されそうになっているのが伝わってきた。


「街の人間が貧民街(スラム)を燃やした次は(ここ)を標的にしていると聞いて、止めようとしたけど間に合わなかった。本当に最悪の状況だよ」


「……なんじゃと……?」


「とにかく今は急いでここを離れ──」


 アンバーの手を取って走り出そうとしたジェードだったが、彼女はその手を振り払った。

 アンバーの予想外の行動に驚いたジェードは目を丸くして彼女を見つめた。


「今、貧民街(スラム)も森も人間に燃やされたと言ったのか……?」


「……アン?」


「……知っておったのじゃな」


 俯くアンバーの声は変わらず震えていた。

 しかしその声色は恐怖や不安よりも怒りに満ちているようだった。 


「原因不明じゃと誤魔化しておったが、本当は貧民街(スラム)の火事が人間の仕業だと最初から知っておったのじゃろう!? そして次は森が燃やされることも知っておったのに、(ぬし)は嘘をついてわしを森に帰したんじゃな……!」


 目に涙を浮かべた少女は目の前の青年に向けて声を荒げた。


 群れの仲間の言った通りだった。

 仲間の忠告を無下にしてまで信じようとしたジェードの言葉は偽りだったのだ。

 知りたくなかった真実を前にアンバーの胸中には沸々と口惜しさが湧き上がるようだった。


「そ、それは……!」


 確かに彼女の言う通りだ。

 ジェードは貧民街(スラム)の火事が人間の仕業であることも、次の標的が北の森であることも知っていた。

 しかし嘘をついてまでアンバーを森へ帰したのは、その事実で彼女を傷つけたくなかったからだ。

 そのためには彼女に知られることなく一人で大商会へ抗議しに行く必要があったからだ。

 それがまさかこんな形で反感を買うとは思ってもいなかった。


「落ち着いてくれ、アンバー。確かに僕は君に嘘をついた。でもそれは君のためを思って──」


「わしのためじゃと!? ならなぜ森に危険が迫っておることを正直に教えてくれなかったのじゃ!? なぜ危険だと知った上でわしを森に帰す必要があったのじゃ!?」


 言われてみればその通りだ。


 僕は本当に愚か者だ。


 何もできないくせに自分の力を過信して、一人でこの事態を防げると──彼女も森も全部守れると勝手に思い込んでいた。

 しかし結果として森は火の海と化し、守ろうとした少女の信頼も失った。

 結局自分は何一つとして彼女のために成し遂げてはいないのだ。


 青年は少女に対し、何かを言い返す資格などなかった。


「主も他の人間と同じだったのじゃな……結局主も妖狐(きつね)など駆除されてしまえばいいと思っておったからわしに平気で嘘を──」


「────アン!!」


 突如、飛びかかってきたジェードに押し倒されたアンバーの言葉が途切れた。

 彼女は一瞬何が起きたのかわからなかったが、僅かに遅れてやってきた爆発音が背後から耳を突き刺したことに気づいた。


 アンバーが慌てて顔を上げると、そこには硝煙を上げる猟銃を構えた一人の狩人の姿が陽炎(かげろう)の中で揺らめいていた。


「ぁ……ぁあ……」


 四年前の地獄へと突き戻されたように全身が震え、アンバーは微かな吐息を漏らすことしかできない。

 目の前の殺意に怯えるその姿は、幼かったかつての子狐のそれそのものでしかなかった。


「アン、こっち……!」


 ジェードは震えるアンバーの手を引いて駆け出した。

 幸いにも燃え盛る木々に阻まれて思うように動けなかった狩人はすぐに撒くことができた。

 炎の中、二人は狩人から隠れるように座り込んで息を整えていた。


「主様、血が……」


「大丈夫、弾丸(さっきの)(かす)っただけだよ」


 傷を受けたジェードの左腕は袖に赤黒い染みを浮かび上がらせていた。

 それに気づいたアンバーは目に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな雰囲気であった。


「なぜじゃ……なぜ庇ったりしたのじゃ! 妖狐(わし)のことなどどうでもよいと思っておるくせに──」


「どうでもいいわけないだろ!!」


 初めて耳にしたジェードに怒声に押され、アンバーは身を縮めて押し黙ってしまった。


「確かに僕は君を騙すようなことを言ったし、その結果状況は最悪だ。だけど君のことをどうでもいいだなんて思ってない。何が何でも助けたいに決まってるだろう。だから──」


 ジェードは顔を上げなかった。

 終始俯いたままで弁明にも似た言葉をアンバーに投げかけていた。

 そして彼は最後までその表情を晒すことなく、重く沈みこむような息と共に彼女に懇願したのだった。


「──僕を置いて(ここ)を離れるんだ、アンバー」


 その言葉を聞いて少女は思い出した。

 ずっとずっと胸の奥に押し込んで忘れ去ろうとしていたもの。

 それに被せられた布を一気に引き剥がすように、少女の(なか)に刻み込まれた記憶(もの)が浮かび上がってきた。


 ──貴女だけでも生き延びて──


 ──お前だけでも逃げなさい──


 ジェードが投げ掛けた言葉は、かつての子狐の両親が最期に残したものと同じ意味を含んでいるように思えた。

 だからだろうか、アンバーの胸中にはこれから目の前の(ひと)を失うことを予感させるような感覚が湧き上がってきた。


「僕なら多分平気さ。君さえ安全なところに逃げてくれれば、森を抜けて街に戻ればいいだけだから──」


「──嫌じゃ」


 アンバーはジェードの説得を最後まで聞こうとはしなかった。

 彼女は彼の言葉をすべて聞いたとしてもそれを自分が拒否することが既にわかっていた。


「嫌じゃ! 怪我もしておるしふらふらじゃし、主様一人で森の外まで出られるとは思えぬ!」


 アンバーの答えにジェードは目を見開いて驚きを顕にしていた。

 しかし彼の表情はすぐに真剣な目つきに変わった。


「お願いだアンバー、君に万が一のことはあって欲しくない。僕の言うことを聞いてくれ……!」


「嫌じゃ。"今度も"また自分だけ逃げるなど、わしは絶対に嫌じゃ!!」


「ちょっと、待って!」


 アンバーは突然駆け出したかと思うと、ジェードから少し距離を取って立ち止まった。


「いつじゃったか、貧民街(スラム)の老いぼれがしてくれた中にこんな話があった。若い妖狐(きつね)の雌には、干ばつを潤すほどの雨を降らせる力があるそうなのじゃ。もし老いぼれの言っておったことが本当なら……」


 そう言って深く息を吸い込んだアンバーは目を閉じて両手を胸に当て、祈るように意識を集中させ始めた。

 既に疲弊したジェードはその背中を黙って見つめることしかできない。

 更にはどこか神々しくも見えるその光景に干渉することを、持ち前の感性が拒否しているようにも思えた。


 赤く燃え盛る森が不意に少しだけ薄暗くなったように感じた。

 その直後、木々を蝕む猛火に叩きつけるようなにわか雨が、徐々に勢いをつけながら北の森に降り注ぎ始めた。

 頭上を中心に灼熱の猛火と大粒の冷雨の激しい攻防が繰り広げられているような音が鳴り響く。

 火の海へ飛び込んだ雨は瞬時にその身を焼かれ、虚空へ散っていく。

 しかしその度に森の猛火は少しずつ、確実に勢いを弱めているようだった。


「すごい……もしかしたら本当に……」


 森を守れるかもしれない。

 自分にはできなかったことを、彼女なら成し遂げられるのかもしれない。

 ジェードの胸には驚嘆と同時に期待や希望にも似た感情が湧き上がりつつあった。


 木々の隙間から空が見えた。

 そこには雨雲はかかっていなかったため、この雨が一体どこで発生してどこから降下してきているものなのかは不明であった。

 しかし森が救われるのであれば、そんなことは大した問題にはならないだろう。


 いつの間にか周囲の炎は半分以下とも言えるほどに弱まっていた。

 妖狐は人に擬態する力を持っていることは知っていたが、天候を左右するほどの超常現象をも引き起こせるとは予想外であった。


 そういえば、小さい頃に本で読んだことがある。

 どこか遠い国だったと思う。

 若い化け狐(きつね)の娘を生け贄に雨乞いの儀式をするという伝説を模したお伽話が──



 ……待てよ、"生け贄"……?



 その瞬間、ジェードの中の安堵が瞬く間に凍りつくような悪寒が走った。


「──やめるんだ!! アンバー!!」


 それは最早"嫌な予感"と呼べるような生易しい代物ではなかった。

 可能性の一つとして脳裏に過ぎった結末を拒絶するように、ジェードは少女の背中に向けて駆け出していた。


 しかし運命はそれを嘲笑う。


 ジェードが手を伸ばす先で背中を向けた少女のか細い体躯は大きく傾き、遅れてそれに気づいた琥珀色の髪が波打った。

ご愛読ありがとうございます!


魔法はないけどちょっぴり不思議なことは起こるファンタジー

そんなテーマで書いていますが、今日はその"不思議なこと"が起こる回でした


森を守るため雨乞いの祈りをするアンバー

それを見たジェードの中に過ぎる不安


この先二人はどうなってしまうのでしょうか!?


以上、わさび仙人でしたー!

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