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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
プラム編
13/126

過去編 妖狐駆逐作戦

予告通り今回は幕間です

 一人の絵描きと一匹の妖狐が出会った日から遡ることおよそ四年。

 これから語られるのは、一生癒えることのない不快で深い爪痕が一匹の少女の心に刻み込まれた日の話。

 人間の愚かさと傲慢さが招いた悲劇の物語である。



 *****



 プラムの街の北門の外。

 そこに存在する貧民街(スラム)には当時も荒れ果てた廃墟が立ち並んでいた。

 そこに住む者たちは穴だらけの古着一枚で寒さを堪え、雨水や街から捨てられる生ゴミを口にして命を繋いでいた。


 そんな貧民街(スラム)の中央には毎日のように十人弱の人だかりができていた。

 その大部分は幼い子どもたちで、彼らの目的はたった一つ──貧民街(スラム)で最年長の老婆が語るお伽話を聞くことだった。

 たった一口の腐りかけの残飯を取り合うほど困窮した生活の中で、老婆の語る物語は貧民街(スラム)で唯一の娯楽として子どもたちに親しまれていた。


 老婆の周りに腰を下ろす子どもたちの中には一匹の妖狐──後にアンバーと名付けられる子狐も混じっていた。

 耳や尻尾を器用に隠して人間に擬態できるようになった子狐は、毎日のようにこの老婆の元へ通って人間の言葉を覚えようとしていた。


「さて、今日は何の話をしようかの?」


 老婆は最初に必ずこの言葉を口にする。

 まだ人間の言語を途切れ途切れにしか聞き取ることのできなかった子狐の少女でも、この言葉を皮切りに物語が始まることはもう知っていた。


「はいはい! 僕────の話がいい!」


「その話は────? 今日は──の話──」


「じゃあ、──の話──!」


「うむ、──じゃろう。昔々──」


 子どもたちが集まっている中でも飛び抜けて元気な一人の少年が、話して欲しい物語を老婆に提案している。

 細部まではまだ理解できないが、少女の目には子どもたちと老婆のそんなやり取りですら非常に華やかに映った。



 *****



「そして──、男は──女の──手を触れたのじゃ」


 この日聞いたのは初めて耳にする物語であったためやや難解だった。

 一組の男女が登場してきて、男が女に手を伸ばして触れたことくらいしかわからない。

 少女からすれば聞いたことのある物語を何度も繰り返し耳にするほうが言葉を覚えやすくて助かるのだが、そう上手くもいかないものである。


 ふと、少女は貧民街(スラム)の中を並んで歩いて行く人間たちの姿に気づいた。

 遠目から見たところどうやら全員大人の男たちのようで、一人ひとりが肩から鉄製の筒をぶら下げている。


 人間があんなにたくさん……

 どこに行くんだろう?


 好奇心が湧いた少女は老婆の話の途中で腰を上げ、男たちの行列のあとをつけてみることにした。

 少し歩くと男たちは少女の住処でもある北の森へと足を踏み入れていった。

 森の中を進むには人間より妖狐(きつね)の姿のほうが動きやすいため、少女は擬態を解いた子狐の姿であとをつけた。

 群れの仲間たちからは人間に見つかってはいけないと何度も教わっていたため、子狐は木や茂みの陰に隠れながら進んだ。

 見つかってはいけない理由までは誰も教えてくれなかったが、子狐はその忠告だけはきちんと守るようにしていた。


 少し進んだところで人間たちは隊列を崩し、森の中へ散らばっていった。

 茂みの中からその様子を見ていた子狐の胸には、これから何が始まるのかという期待が満ちていた。


 程なくして東側から何かが破裂するような大きな音が聞こえた。

 それを合図に人間たちは音がした方向へと一斉に足を進めた。

 そんな人間たちの死角を器用に渡りながら後をつける間、もう三回ほど同じ爆発音が森にこだました。


 すごい音……

 あんな大きな音、どうやって出してるんだろう?


 そんな疑問に首を傾げているうちに、子狐は数人の男たちが集まって話している場面に遭遇した。


「やった、妖狐(ようこ)を────」


「──、────?」


「いいや、────だけみたいだ」


 今、妖狐(ようこ)という単語が聞こえた気がする。

 妖狐(じぶん)たちのことについて話しているのだろうか。


 大樹の陰からその様子を見ていた子狐は、男たちの手に何か長くて大きなものがぶら下がっているのに気づいた。

 子狐より少し大きめのそれは橙色に輝いているが、その真ん中辺りは真っ赤に染まっている。

 どうやら毛皮に覆われた生き物のようだ。

 毛並みの色といい、四肢のつき方といい、なんとも自分とそっくりな姿をしているが──



 ────!!



 それは子狐の胸に突然風穴が空いたかのような衝撃だった。

 男たちの手に握られていたのは、まだ固まっていない赤黒い血をぼたぼたと垂れ流す妖狐(きつね)の死体だったのだ。


 子狐はこの状況をすぐに飲み込むことができなかった。


 何が起きているの……?

 どうして妖狐(きつね)が死んでいるの……?

 あの人間たちに殺されたの……?


 湧き上がる恐怖心に腰が砕け、それを受け止めた落ち葉が微かに音を立てた。

 すると男たちは一斉に子狐へと視線を向け直し、そのうちの一人と完全に目が合ってしまった。


「おい、────!」


「妖狐だ、早く────!」


 一人の男が慌てて肩から背負っている鉄の筒を握ったかと思うと、先程から聞こえていた爆発音が耳を突き刺した。

 驚いて目を閉じてしまった子狐が恐る恐る瞼を持ち上げると、自分が身を隠していた隣の大樹の幹が大きく抉れていた。


「チッ! ────!」


「──、──殺せ!」


 えっ、今なんて……?

 「殺せ」って言ったの……?

 私も殺される……!?


 全身の毛が逆立ち、野生の本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。

 しかし子狐は恐怖で震える足腰をどうしても持ち上げることができなかった。


 男が鉄の筒を子狐に向けて構え直すと、耳を(つんざ)く爆発音が再び響いた。

 その瞬間子狐の身体はふわりと浮き上がり、風に乗ったように森の奥へと流されていった。


『怪我はありませんでしたか!?』


『ぁぁ……お母様……!』


 ようやく子狐は状況を把握しつつあった。

 人間は妖狐(きつね)を殺しに森にやってきた。

 そして自分は殺される寸前で母親に首根っこを咥えられて間一髪助かったのだと。


 子狐を咥えたまま母狐は森を奥へ奥へと駆ける。

 その動揺は咥えられた子狐にも痛いほど伝わってきた。


『どこに向かってるの、お母様?』


『とにかく森の奥に逃げるのです。群れの雄たちが人間を食い止めている間に少しでも──』


 刹那、母狐の重心が大きく歪んだ。

 少し遅れてまたあの爆発音が鼓膜を突き刺してきた。

 大きく転んだ母狐の口から放り出された子狐は落葉の絨毯の上を滑るように転がった。


『お母様──!!』


 慌てて駆け寄ると母狐の胸のあたりには大きな傷が穿たれていた。

 そこからは心臓の鼓動に合わせて鮮血が噴き出し、子狐は苦しそうに上下する母狐の胸をただあたふたと見つめることしかできなかった。


『……お逃げなさい』


 最後の力を振り絞るように母狐が喉を鳴らした。


『嫌だ……お母様と一緒じゃなきゃ嫌だ……!』


 左側から人間の足音が近づいてくる。

 母狐はそれを聞き取っていたが、取り乱した子狐はまったく気づく気配がない。


『我儘を言うんじゃありません。私はもう走れないのです。貴女だけでも生き延びて……』


『でも──』


『──行きなさい!!』


 母狐は隣で途方に暮れる子狐の前脚に力一杯噛み付いた。

 それに驚いた子狐が一歩たじろぐと、母狐は鼻に皺を寄せて鋭い眼光を子狐に向けていた。


 気がつくと子狐は母狐に背を向けて駆け出していた。



 ──痛かった。



 お転婆だった子狐はしょっちゅう悪戯をしては母狐に噛まれて叱られた。

 しかし今日はいつものそれとは違う。

 今まで数え切れないほど叱られた中でも、母親の牙があんなに痛かったことは一度もなかった。

 噛まれた脚だけではない。

 母親が大変なときに逃げることしかできない自分の無力さに締め付けられる心が、ある意味では脚よりも遥かに痛かった。


 死を覚悟しながら、母狐は遠ざかる子狐の背中をじっと見つめていた。

 朦朧とする意識の中、母狐のすぐ隣で鳴ったはずの爆発音は随分遠くから聞こえた気がした。

 胸に穿たれた二つ目の穴からはほとんど痛みも感じない。

 次第に視界が薄れ、母狐は重く暗い微睡(まどろ)みの中へとその意識を沈めた。



 *****



 子狐は走っていた。

 突然の出来事にまだ頭が混乱しているが、走らなければならないことだけは理解していた。


 とにかく、森の奥へ……!

 人間が来る前に隠れないと……!


 しかし運命とは時に残酷なもので、母狐が命懸けで逃がした子狐の先に再び一人の男が立ち塞がった。


 殺される……!


 こんなときにまたしても足腰は固まって言うことを聞かない。

 男は鉄の筒を子狐に向けて構え、既に聞き慣れた爆発音を子狐の耳に轟かせた。


 しかし子狐には傷一つつかなかった。

 代わりに子狐のいるすぐ隣の地面が抉れて小さな土煙を上げていた。


『何を固まっているんだ! 早く逃げなさい!』


『お……お父様……!』


 父狐は子狐を狙う男の腕に噛み付いて押し倒し、間一髪のところで照準を逸らしていた。

 父狐の身体は返り血で真っ赤に染まっていて、ここに来るまでに何人もの人間を殺してきたのだと想像できた。


『お父様、あっちにお母様が……! 人間に捕まっちゃって──』


『捕まってしまったならもう手遅れだ。母さんのことは諦めて、お前だけでも逃げなさい!』


 それだけ伝えると父狐は、起き上がり始めた男が武器を構えぬよう再び腕に噛み付いた。

 すぐ横で激しい取っ組み合いが繰り広げられる中、子狐はその隙を見て再び駆け出した。


 その直後、子狐の耳は背後から響いた大きな爆発音と甲高い悲鳴を捉えた。

 最悪の光景が子狐の脳裏を過ぎったが、振り返るのが怖くて無我夢中で走ることしかできなかった。



 *****



 それからどのくらい走ったかは覚えていない。

 しかし運命は子狐に対してどこまでも残酷で、彼女が恐怖から逃げ切ることを決して許さなかった。


 子狐が逃げた先に現れたのはまたしても一人の男。

 今までの男たちと同じように鉄の筒を子狐に向けて構えている。



 もう、だめだ……



 これで三度目だというのに、相変わらず足腰に力が入る気配はない。

 周囲に仲間がいる気配もない。

 今度こそ自分一人の力で逃げなければ本当に殺されてしまう。

 頭ではわかっていても身体はまったく動かない。

 死を目前に感じ、その圧倒的な恐怖心で五臓六腑を吐き出してしまいそうだった。


 しかし、目の前の男はいつまで経っても攻撃してこなかった。

 子狐に鉄の筒を向けたままの男は微動だにすることなく立ち尽くしている。


「────、お前は────」


 やがて武器を下ろした男は子狐に向けて何かを語りかけ始めた。

 しかし子狐はまだ完全に人間の言語を聞き取れるようになったわけではない。

 彼が何を言おうとしているのかは皆目見当がつかなかった。


 何か……何か私にわかる言葉を口にしないだろうか。


 命を狙われているという極限の状況下で、子狐はただ男の言葉に耳を傾けることしかできなかった。


「──、────したくない」


 聞こえた……!


 男の口から漏れ出た言葉は、何かの行動を拒否しようとするときに発する言葉だった。


 でも一体何をしたくないと言っているんだろう。

 もしかして私を殺したくないと言っているのだろうか……?


 確かな言葉を何も聞き取れないまま、森の中に鳴り響いた笛のような音を合図に男はその場を立ち去っていった。

 その男だけでなく、あちこちにいた人間たちが全員森の外へと撤退していく。

 子狐は茂みの中に隠れ、その様子を震えながらひっそりと眺めていた。


 森に誰もいなくなると子狐は恐る恐る茂みから抜け出し、父狐と母狐を探し始めた。


 それにしても、あの人間は何を伝えたかったのだろうか。


 その男の青黒い髪と悲しげな表情が子狐の瞼の裏に焼きついて離れなかった。


 いや、そんなことより今はお父様とお母様を探さないと……!


 しかし運命は微塵の慈悲すら持ち合わせておらず、子狐の些細な希望すら叶えることを拒んだ。

 父狐と居合わせた場所には、まだ温かい血痕が残っているものの誰の姿もなかった。

 母狐を置いて逃げてきた場所にも戻ってみたが結果は同じだった。

 きっと人間たちが死体を街に持ち帰ったのだと、それ以外の考えは浮かばなかった。

 命懸けで自分を守ってくれた両親の亡骸にすら、ついに子狐は会うことができなかったのだった。

 僅かに生き残った妖狐たちは新たに群れを作り直し、子狐もその中に加わる形で落ち着いた。



 *****



「さて、今日は何の話をしようかの?」


 作戦から数日、貧民街(スラム)の老婆の前には相変わらず子どもたちが群がっていた。

 そしてその中にはあの子狐の少女の姿も見られた。

 あれだけの恐ろしい目に遭ったにも関わらず、子狐が人間の元へと通い続ける理由はたった一つだ。


 自分を見逃してくれた、あの人間の真意が知りたかった。


 同じ人間でも、あの男だけは何かが違っていた。

 きっと他の人間たちとは感じていることが異なっているのだ。

 子狐はその違いが何なのか知りたかった──というより、知らなければならない気がした。


 駆逐作戦以降、新しい群れの仲間たちは人間を酷く嫌悪し、森の奥で引き篭もるように暮らしていた。

 そんな仲間たちの反対を押し切って子狐は貧民街(スラム)へと通い続けた。


 子狐とて人間が怖くないわけではない。

 それでも人間の言葉に触れ、文化に触れ、人間という生き物をもっと理解できれば、あの男の真意に近づける気がした。


 それから四年、語り部の老婆が姿を消すまでに子狐は美しく成長し、人間の言葉も粗方理解できるようになった。

 それからの彼女は町娘に扮してプラムの街を出入りするようになった。

 すぐ近くで人間の言葉や文化に触れるうちに、自分もこんなふうに生きてみたいと焦がれるようになった。


 人間は森で多くの仲間を殺した恐ろしい生き物だ。

 そう思う反面で、彼女は人間がただ恐ろしいだけの生き物であるとは思えなくなっていった。


 人間の心の華やかさに焦がれるうちに、彼女はいつか人間と関わりを持ってみたいとも思うようになった。

 しかし妖狐であることに気づかれてしまえば命を狙われる。

 これほど人間の多い街ではすぐに囲まれて逃げることすらできないだろう。

 それほどの危険を冒してまで人間と会話をしようという勇気はさすがに湧いてこなかった。

 商人の街として栄えるプラムには、決して囲まれることなく誰かと関わりを持てる場所など存在しなかったのだ。



 ──ただ一人、ある青年の前を除いて。



 森で少女を見逃してくれた男と似たような髪の色をしたその青年はずっと一人で絵を描いていた。

 誰にも声をかけず、誰にも見向きもされず、まるで一人だけ別の世界に隔離されているような雰囲気すら感じられた。


 あの者となら話せるかもしれない。

 万が一正体に気づかれても、相手が一人なら逃げ切ることも可能だろう。


 少女はなけなしの勇気を振り絞り、産まれて初めて人間と直接の接触を試みた。


 そして少女に対してどこまでも残酷であったはずの運命は、この出会いをきっかけに大きく塗り替えられていくことになるのだった。

ご愛読ありがとうございました!


とても甘かった前回のお話から一変、悲しいお話になってしまいましたがいかがだったでしょうか


次回は本編に戻ります

街から立ち昇る黒煙の正体は一体……?


以上、わさび仙人でした!

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