星空の下で
川を越えて森の中を進んでいくうちに辺りはすっかり暗くなっていた。
他の獣の縄張りを避けながら進むアンバーは森の中を真っ直ぐに突っ切ることはしない。
そのため目的地に辿り着くまでにはそれなりの時間を要してしまったのだった。
「着いたぞ、主様」
足元は暗く、太い木の根が張り巡らされていて油断すると転んでしまいそうだ。
そのため足元を見ながら歩いていたジェードだったが、アンバーの声を合図に顔を上げた。
そして目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。
そこは北の森で最も空が近い場所──森の最奥付近に位置する小高い丘の上だった。
今まで視界を阻んでいた太い木々はこの丘にはまったく見られない。
頂上は芝や草花に覆われていて、そこに佇むと一面の星空を見渡すことができた。
「わあ……すごいや……」
「そうじゃろう? わしのお気に入りの場所じゃ」
アンバーが座り込むのを見て、ジェードもその隣に腰を下ろした。
視界を端から端まで横切るような大きな天の川。
その鮮やかさは、それを形作る小さな星々の一つ一つまでしっかりと目視できるような気さえ感じさせる。
街からこんな美しい星が見えたことなど一度もない。
夜空など数え切れないほど見上げてきたはずだ。
しかしこの光景を見ていると、今まで夜空だと思って見上げてきたものが一体何だったのかわからなくなりそうだった。
「こんな場所をいくつも知っているのかい?」
「いくつもというわけではないが、それなりにな」
自分の問いに答える澄んだ声を聞いてアンバーが隣にいることを確かめる。
彼女の存在を目で確かめることはできない。
淡い輝きを放つ満天の星空が、視線を他へと移すことを許さなかったからだ。
しかし彼女はちゃんと隣にいる。
自分の隣に座って同じ空を眺めている。
たったそれだけの事実がジェードの胸を深く、温かく満たしていった。
まるで全身が星空の海に浸かっているような沈黙の中、不意にジェードは右手に温かみのあるものが覆い被さったのを感じた。
それが何なのかは確かめるまでもなくわかる。
隣に座るアンバーの左手が自分の右手と重なったのだ。
「……主様」
「……ん?」
隣で星を見上げる少女は吐息と間違えそうなほどの儚げな声でジェードを呼んだ。
それに気づいたジェードも同じように星を見上げながら彼女の言葉の続きを待った。
「──もう一度、抱き締めてはくれぬか?」
「えっ……と……」
突然の要望にジェードは言葉を詰まらせた。
この幻想的な雰囲気の中でなら、そうすることで確かに心が満たされそうな気はする。
しかしジェードはまだ背徳感や羞恥心といった枷をどうしても外しきれずにいた。
「わしはずっとそうして欲しいと訴えておったのに、主様はまったくその気になってくれなかったからのう」
「訴えてたって……君はそんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「口で言わねばわからぬのか? どこまで主様は鈍感なのじゃ」
言われてみれば絵を描いている時やその休憩の間、アンバーはいつもジェードに肩をぴったりと寄せて座っていた。
それだけではなく、時折ジェードの肩に頭を乗せてきたり服の袖を摘んだりと、やたらと距離感が近かったように思える。
あれは全部無言の訴えだったのか……
「あはは、参ったね……」
自分の鈍さが情けなかった。
とはいえ、気づけていたとしてもその場で抱き締める勇気などもちろんなかったとは思うのだが。
「わしは主様のことをこんなに好いておるのに、どうしてまったく気づいてくれぬ?」
アンバーはジェードの手を握ったままにじり寄ってきた。
突然顔の目の前まで迫ってきたアンバーの双眸にたまらず仰け反るジェード。
月と星々以外に灯りなどない真っ暗な丘の上でも、ここまで接近すると彼女の水色の瞳や赤く染まった頬を確かめることができた。
「そ、そんなに堂々と言われると……照れ臭いよ……」
「また主様はそうやって有耶無耶にしようとする! すぐ照れ臭い照れ臭いと!」
少しだけ声を荒げたアンバーは頬を膨らましてそっぽを向いてしまった。
「それとも主様はわしのことを好いてはおらぬのか? そう思っておるのはわしだけか?」
「まさか、そんなわけないだろう? 僕だって君といると楽しいし、嬉しいし……あぁもう、なんて言えばいいんだろうなぁ……」
「まぁ、口で言うだけなら簡単じゃからの」
アンバーはジェードに背を向けて座り直し、また夜空を見上げ始めた。
いつも楽しげに揺らめいている尻尾が完全に地面にべったりと寝ている。
彼女が拗ねてしまったのがなんとなく伝わってきて決まりが悪かった。
ホントに僕って情けないな。
彼女はこんなに素直で純粋なのに、僕は一体何をうだうだ考えているんだか。
そんな自己嫌悪を抱きながらもジェードはゆっくりとアンバーの背中へと距離を縮めていく。
彼女は真っ直ぐに自分への気持ちを示してくれた。
なら僕もそれに真っ直ぐに応えないと釣り合わないじゃないか。
「──!? ……主様!?」
突然アンバーが上擦った声を上げた。
少女は華奢な背中に温かい重みを感じ、首元に優しく腕が回り込んできたのを感じたのだ。
「……あんまり慣れてないんだよ、こういうの」
ジェードは目の前の少女を背中から抱き締めていた。
高鳴っている心臓の鼓動がアンバーの背中まで届いている気がして気恥ずかしい。
しかしジェードの足元でパタパタと忙しなく跳ねる尻尾からアンバーの動揺も伝わってきた。
「う、後ろからとは卑怯じゃのう主様。……悪くはないが」
アンバーは右手を持ち上げると首元にあるジェードの腕を握った。
……やはり心地よい。
ジェードと通った川辺とも、お気に入りの丘の上とも比べる必要がないほど明らか。
アンバーは背中から感じるこの温もりのある場所こそが、自分にとって最も居心地のよい場所であると改めて強く認識した。
「じゃが、これではわしの腕の中が寂しい」
そう言ってアンバーはジェードの腕を解くと正面に向き直った。
そして彼女はジェードの胴から背中へと腕を回す。
ジェードはそれに応えるようにアンバーを再び抱き寄せた。
「……ああ、これじゃ」
随分久々なようにも感じる、大好きな相手の腕の中の温もり。
ジェードの気持ちを疑うようなことを言ってしまったが、彼の思いは十分に伝わってきた。
ジェードがアンバーのことを善く思っていないのであれば、抱き締める腕がこんなにも優しいはずはない。
彼は不器用なだけで、感じているものは自分と同じなのだ。
それなのに少し意地悪なことを言ってしまったとアンバーは自分を省みた。
ジェードは右手をアンバーの背中から後頭部へと移す。
すると今までゆっくりと揺らめいていた尻尾の振れる周期が少し早まった気がした。
密着した胸がアンバーの心臓の鼓動を聞き取っている。
きっと彼女もジェードの心音を感じているのだろうと確信できるほどに胸が高鳴っている。
どうして彼女はこれほどまでに愛おしいのだろうか。
抱き合う前はあんなに気恥ずかしかったというのに、いざこうしてみると彼女を尊ぶ気持ちが溢れて止まらなかった。
「主様……」
ぽつりと呟いたアンバーは、抱き締め合った姿勢のままジェードの首に頬をすり寄せる。
そして彼女はそのままゆっくりとジェードの首に牙を立てた。
ジェードは少し驚かされたが痛みがあるわけではなかった。
言うなれば甘噛みというやつだ。
川辺で最初に噛み付かれた時とはまったく違う。
これはきっと愛情表現か甘えか、そういった類のものだろうとジェードは察した。
これほどまでに自分を求めてくれるアンバーを抱いていると、この少女に対する愛おしさがますます募っていく。
不器用なジェードはアンバーのように素直に彼女の温もりを求めることができない。
しかしそれでも自分が彼女に求められた時には、それに精一杯応えられる人間でありたいと彼は思い始めていた。
ところがその瞬間、ジェードは自分の重心が大きく後ろに傾いたことに気づいた。
姿勢を立て直すには既に手遅れで、アンバーを抱えたまま芝の上に背中から倒れ込んでしまった。
「──!! すまぬ主様! 痛くはなかったか?」
アンバーはすぐさま上体を起こすとジェードの顔色を伺うように尋ねた。
どうやら以前自分がつけてしまった胸の傷の上に倒れ込んだことを心配したようだ。
「平気だよ、アン。あれから何日も経ってるからほとんど治ってるし、もう痛みもないよ」
「そう……じゃったか……」
どうやらアンバーは無意識にジェードを押し倒してしまうほど彼の体温を求めてしまっていたようだった。
そしてジェード自身もアンバーへの愛おしさに浸っていて倒れる寸前までそれに気づけなかった。
なんだか、華奢な少女一人支えられない軟弱な自分が少し情けなかった。
痛みはないというジェードの言葉に安堵したアンバーは、彼の胸の上にゆっくりと頭を横たえる。
そして傷があるあたりを指で優しくなぞるようにしながら眺めていた。
仰向けに寝転んだジェードと、その胸の上に横たわるアンバー。
ジェードは赤く染まったアンバーの頬の熱を胸から感じ、アンバーは高鳴っているジェードの心音を耳から感じていた。
*****
寝転んだまま再び夜空を見上げてからどのくらい経っただろうか。
いつの間にやらアンバーがジェードの腕枕で星を見上げる構図が出来上がっていた。
ジェードの右腕に感じられる頭の感触はとても小さくて軽い。
長袖の服を着ているため髪の感触はわからないが、きっととてもしなやかで触り心地がよいのだろうと想像できる。
「わしはの、主様──」
しばらく黙って星空を見上げていたアンバーが口を開いた。
その声を聞いてジェードは彼女の方へと視線を向けた。
「ずっと人間が怖かったのじゃ。あの駆逐作戦を見てからは怖くて怖くて仕方なかった。あんなに憧れておったはずなのに……」
アンバーは腕枕で夜空を見上げたまま語り始めた。
そんな彼女の言葉はいつもよりどこか悲しげであるような気がした。
「人間は妖狐が勝手に襲ってきたと思っておるのじゃろう? じゃが人間はわしらの森を切り拓こうとしておった。わしら妖狐は森を守るために人間を追い払っただけなのじゃ。結果人間を怒らせ、あんな悲劇を産んでしまったがの」
ジェードはアンバーに返す言葉を見つけることができなかった。
街の住民を守るための作戦だと聞いていたが、そもそも先に手を出したのは人間の方だったのだ。
妖狐は自分たちの森を守るため、森を開拓しようと近づいてくる人間を警戒していただけだ。
それを一方的に襲われたのだと解釈する人間の性質はまさに利己的としか言いようがない。
「妖狐は本当は人間と争いとうはなかったが、実際そうはならなかった。たくさんの妖狐が人間に殺され、妖狐もたくさんの人間を殺した。本当に恐ろしい光景じゃったのを覚えておる」
あの日のことはジェードも少しばかり覚えている。
傷ついた狩人たちが命からがら森から戻ってくる光景。
帰還する者らは妖狐の反撃にあって命を落とした狩人の遺体を抱えていた。
しかし抱えられていたのは狩人だけではなかった。
もう一つ印象に残っているのは、狩人の肩に担がれた沢山の妖狐の死体の力なき肢体。
どれほど凄まじい攻防が繰り広げられたのかを想像するのは容易だった。
「人間は妖狐のことが嫌いで、いつだって殺してやろうと思っておるのじゃとわしは決めつけておった。じゃから主様が最初に追ってきたとき、どうしようもなく怖くなったのじゃ。きっとわしを殺すために追ってきたのじゃと──」
そう語るアンバーは手のひらを夜空に向けて持ち上げると、指の隙間から星空を眺めた。
「じゃが違った。主様はわしを心配して追ってきてくれた。なのにわしはこの爪と牙で主様を……」
アンバーはやはりジェードを襲ったことを悔やんでいるようだった。
ジェードが自分のことを恨んだり憎んだりしていないことは、アンバーももう十分わかっているはずだ。
それでもどうしても捨てきれない罪悪感に彼女はずっと苛まれているようだった。
「気にしなくていいって何度も言ってるのに。本当に優しいんだね、君は」
「優しいのは主様の方じゃろう? なのに群れの仲間はちっともわかってくれぬ。人間は野蛮だから近づくなと昨日も言われた」
不意にジェードの腕枕から重みが消えた。
空から右腕へと視線を移すと、アンバーは頬を膨らませながら上半身を起こしていた。
それに続くようにジェードも身体を起こし、二人は再び隣合って座る形に収まった。
「仲間も君のことが心配なんだよ。大切にされていて幸せじゃないか」
ジェードの呼びかけに対し、アンバーは無言で俯いていた。
「……アン?」
「……主様のことは信じてもよいのじゃろう?」
名前を呼ばれて初めて少女は言葉を返した。
その声は心なしか震えているようにも感じられる。
「主様は妖狐の敵ではないと、わしは信じてもよいのじゃろう?」
「それは、うん、もちろん……!」
「嘘をついてはならぬぞ、主様……?」
アンバーの声色はジェードの意思を確かめるというより、そうであって欲しいと懇願するようであった。
少しばかり涙ぐんだ水色の双眸がジェードを真っ直ぐに見据えている。
まるで空を凝縮したようだと感じたこともあったが、潤んで輝くその瞳は空というよりさながら海だ。
この美しい瞳に迫られて虚言を口にすることなど、到底できるはずはなかった。
ジェードは少女に向けて微笑むと、その頭を掴むようにわしわしと撫でた。
「そんなの当然だよ。僕は何があっても君の味方でいる。約束だ」
されるがまま頭を揺さぶられていたアンバーの耳が、ジェードの指の間からピンと立つのがわかった。
彼女の顔へと視線を向けると、半分驚いたような間の抜けた表情をしていて滑稽だった。
「いっ、今のは何じゃ主様……? これもなんだか堪らぬ感じがするのじゃが!」
「えっ、頭を撫でただけだけど……?」
「もう一回! もう一回頼む、主様!!」
このあとアンバーは何度も頭を押し付けてきて、ジェードはしばらく彼女を撫で続ける羽目になってしまったのだった。
*****
気がつくと太陽は真上近くまで昇っていた。
どうやら芝に寝転び直して空を見上げるうちに二人とも眠っていたようだ。
ジェードが目を覚ますと、隣に寝ていたアンバーも大きな欠伸と共に身体を起こした。
「おはよう、アン」
「うむ、おはようじゃ主様」
知らぬ間に少女と添寝したという背徳感がジェードの頬を焼くようだった。
さらにはアンバーも少し顔を赤らめているのが余計に気恥ずかしかった。
「……む?」
唐突にアンバーが空間の臭いを辿るように鼻を鳴らした。
「アン、どうかした?」
「主様、なんだか妙に焦げ臭くはないか?」
アンバーは鼻に手を当てながらジェードに尋ねた。
妖狐である彼女は人間より鼻がよいのだろうか、ジェードにはちっともそんな臭いはしなかった。
しかし臭いを感じなくともその正体はすぐにわかった。
ジェードがふと視線を向けた空に黒煙が立ち昇っていたのだ。
「あの方角は……街!?」
街で何かあったのだろうか。
そう考えを巡らすのが早いか遅いか、ジェードは鞄を引っ掴んで駆け出していた。
「アンバー、急いで街に戻りたい。案内を頼めるかい?」
「う、うむ、こっちが近道じゃ!」
何か嫌な予感がする。
こういうときの直感はよく当たると自分でも思っていたジェードは、先導するアンバーに続いて獣道を走った。
ご愛読ありがとうございました!
ちょっぴりとでもキュンとしてもらえればとても嬉しく思います笑
次回は幕間の予定です
街で一体何が…!?と気になるかもしれませんが、少しの間待ってもらえればと思います
以上、わさび仙人でしたー!