重なる手
涼しい秋の風が吹き抜ける、雲一つない青空の下。
北の森の川辺にはまたしても一人の絵描きと一匹の少女の姿があった。
この日も街まで迎えに来たアンバーに連れられて川辺にやってきたジェード。
彼はいよいよ絵の仕上げに取り掛かろうとしていた。
描き始めてから九日目。
その間毎日会っているジェードとアンバーは、互いにすっかり一緒にいるのが当たり前の存在になっていた。
二人のすることは昨日と変わらない。
川辺に座って絵に色を塗っていくジェードと、その隣にぴったりと寄り添うアンバー。
ジェードが作業に疲れて筆を止めると、休憩中はアンバーとの談笑の時間だ。
彼女と話していると作業への集中で凝り固まった心身が解れていくようだった。
アンバーはジェードの話を本当に嬉しそうに聞いてくれる。
彼女の顔に浮かぶ笑顔と、ずっと楽しげに揺れている尻尾が何よりの証拠だ。
しっかりと相槌を打ってくれる聞き手がいるというだけで話し手も楽しくなるものである。
きっと幼い頃から貧民街の老婆の話を聞いて育ったアンバーは、"聞く"という行為がどれほど意思疎通において重要かを無意識に理解しているのだろう。
*****
「……よし」
筆を止め、少し仰け反って絵全体の色彩を確かめたジェードは小さく頷いた。
その隣で一緒に仰け反って絵を眺めるアンバーの姿がなんだか滑稽で微笑ましかった。
僕が何をしてるか絶対わかってないだろうに。
まあ、いいんだけどね。
「できたよ、アン」
「お疲れ様じゃ、主様。相変わらず見事な出来栄えじゃな」
「ありがとう。君が手伝ってくれたから絵具もいい色が出せているよ」
「主様の技量あってこそじゃよ」
西日が輝き始めた頃、ついにジェードの絵が完成した。
川底まで見渡せるほど透明で穏やかな流れ。
川岸の石にぶつかって跳ねる飛沫。
対岸には風に揺れて波打つ木々と茂み。
人の手が加えられていない生まれたままの姿の清流は、鮮やかな色彩とともに一枚の紙の上でその時の流れを留めた。
「そして本当にこれが最後の仕上げだ」
ジェードは細い筆に墨汁を染みこませると、絵具が乾いた紙の角の部分に自分の名前を書き込んだ。
今まで作り上げてきた作品にもすべて彼の名前は仕上げとして書き込まれている。
しかし今回はいつものように自分の名前を書いて完成、というわけにはいかなかった。
「アンバー、ここに君の名前も書いてくれるかい?」
「む? なぜわしの名前もなのじゃ?」
「顔料を一緒に探してくれただろう? 君の手伝いがなかったらこの絵は完成しなかったからね。これは君との合作だと僕は思ってるんだ」
ジェードはこの絵に対する強い思い入れがあった。
三年間誰にも相手にされなかった自分の前に現れた妖狐の少女。
その純粋な感性に惹かれ、いつの間にか特別な存在となった少女。
そんな彼女と一緒に作り上げた、産まれて初めての合作。
自分一人では絶対に描けなかったこの絵には、どうしても自分の名前と並べて彼女という名前を書き入れたかった。
「だから、ね?」
「……むぅ、わしは読み書きはできぬのじゃ。じゃから主様が代わりに書いてはくれぬか?」
「あれ、そうだったの? でもダメだよそれじゃあ、君の字じゃないと」
いくら貧民街の老婆から言葉を覚えたと言っても、さすがに手習いは誰かに教わらなければ難しい。
しかしジェードには名前だけはどうしても譲れない理由があった。
彼にとってこの絵は誰が何と言おうと"二人で"描いた絵なのだ。
最後に書き加える彼女の名前くらいは彼女自身の手で刻んでもらいたかった。
「……よしわかった。僕が支えててあげるから、一緒に書こう!」
そう言うとジェードは不意にアンバーの右手を取った。
「ぬっ、主様……っ!?」
「指の力を抜いてごらん。筆はこうやって握るんだ。親指と人差し指で挟んだらそこに中指を添えて──」
アンバーにはジェードの声に耳を傾ける余裕はなかった。
完全に油断していたところで突然手を握られて困惑してしまっていた。
絵具で汚れたジェードの手がとても優しく自分の手を包み込んでくれている。
筆を握ったまま固まってしまった右手をジェードの右手が絵まで運んでくれる。
そしてアンバーの右手に握られた筆は、ジェードの手に支えられながらゆっくりとその軌跡を紙上に刻んでいった。
読み書きができないアンバーにとって、絵の隅に書き込まれた文字はただの墨汚れに見えないこともない。
しかしこれは紛れもなく彼自身を表す符号なのだ。
そう思うと絵の隅で黒く絡まっている細い線に不思議と愛着が湧き出してくるのだった。
「──はい、書けたよ」
いつの間にか絵の隅にある黒い線の塊が二つに増えていた。
一つは流れるように素早く美しい筆跡で書かれているが、もう一つは歪に曲がっていて随分と不格好だ。
どちらがどちらの名前なのか一目瞭然だった。
そんな二つの名前を眺めていると、アンバーはほんのりと胸が温まるような感覚がした。
「これがわしの名前……」
「そうだよ。こう書いて"アンバー"と読むんだ」
後ろからアンバーの右手を支えるジェードの声が耳元で聴こえる。
何度も語らって聞き慣れた落ち着きのある声に反応して耳が熱を持った。
耳だけではなく手も熱い。
本当に男なのか疑ってしまいそうなほど細長くて滑らかな感触のジェードの右手。
しかし右手から感じる温かさと包容力は、やはり彼は男なのだと実感するには十分だった。
「……アン? どうかした?」
「いや別に、何も……」
黙り込んでしまっているアンバーにジェードが声をかけた。
細々と曖昧な返事を漏らすアンバーは握られた右手を見つめたまま頬を真っ赤に染めていた。
それに気づいたジェードは「あっ」と小さく声を上げると慌てて手を離して俯いてしまった。
「……やっと主様から触れてくれたのう」
「ごめん、いきなり手を握ったりして。つい夢中になってて……」
「謝らんでくれ。今わしは嬉しかったのじゃ」
パタパタと揺れ動く尻尾を見る限り、どうやらアンバーの言葉は本当のようだ。
「そ、そうかい? ……あはは」
ジェードは照れ臭さを誤魔化すように画材の片付けを始めた。
絵を描く間はアンバーから近づいていくことはあってもジェードから触れることはなかった。
集中しているから当然だとわかってはいたが、無意識にジェードの温もりを求めていたことは認めざるを得ないアンバーであった。
だからこそ手が触れ合っただけでこんなにも満たされた気分に浸ることができた。
少しばかり気恥ずかしいが、それがとても心地よいからなんとも不思議だ。
「主様よ、絵も完成したことじゃし、今から森の奥まで一緒に来てはくれぬか? どうしても見て欲しいものがあるのじゃ」
「えっ? こんな時間からもっと奥まで行くのかい?」
「よいじゃろう? ほら、早く行くぞ主様!」
「ちょっと、アンバー!?」
ジェードの返事を待つことなく、アンバーは森の奥へと駆け出した。
突然のことに戸惑いを隠せないジェードは急いで鞄を背負うと少女のあとに続くように駆けた。
ご愛読ありがとうございます、わさび仙人です
本当は次話の内容まで含めたかったのですが、長くなりすぎるのでここで切りました
なので今回はちょっぴり短めです笑
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