これらは主が描いたものか?
わさび仙人と申します。
短編として公開していた作品の続編が書きたくなり、連載用に編集しました。
設定の矛盾や誤字脱字を直したり、表現を少し変えてみたり、短編では書けなかった幕間の物語を追加したりしています。
今後はメイン連載としてこのお話を書いていきますので、よろしければご愛読をお願い致します!
夏の終わり。
街を照りつけていた陽射しはすっかり鳴りを潜め、真昼であるというのに涼しげな風が大通りを吹き抜けている。
過ごしやすくなった陽気に誘われたかのように、その大通りには多くの人や荷馬車が往来している。
大通りの両側には赤や白のレンガを積み上げて建てられた三角屋根の家屋が立ち並んでいて、まるで家の形をした壁に挟まれているようだ。
プラム──人々はこの街をそう呼んでいる。
商いを行う者が多いこの街には、他の街からも多くの人々が訪れる。
街の真ん中を通る一番大きい通りは商人たちにとって生命線であり、戦場だ。
大通りの脇では黒く汚れたエプロンを着た中年の男が客の靴を磨いていたり、若い夫婦が屋台に色とりどりの野菜や果物を並べて声を張り上げていたり、客である女性が店先にかけられた服を身体に重ねてみたりしている。
どこにでもありそうな平和な光景。
どこか既視感を覚えるような退屈な光景。
毎日同じことを繰り返しているだけであるようにも見える光景。
しかし、そんなありふれた日常に隠れる華やかさや新鮮味というものに人々は気づかない。
日々生きていくうちにそれが当たり前になってしまったから。それに慣れてしまったから。
だからこそありきたりな日常に起きた劇的な出来事というのは人々の心を動かすのだが、慣れてしまった"当たり前"のことに感動を覚える者は少ない。
そんな中、この青年は自分が少し変わっているのだろうということを自覚している。
彼は時々、他の人々が気にも止めない"当たり前"のことに心が突き動かされるような感動を覚えることがあるのだ。
例えば街の中央にある教会。
その姿が夕陽に照らされて真っ赤に染まっているのを見て目が離せなくなったことがある。
例えば果物を盛られた盃。
銀色の台座に彩りよくそびえる果実の山に、どこか荘厳な趣を感じたことがある。
自分の価値観そのものが変わってしまうような劇的な体験というものは、感動を忘れてしまったような、ありきたりな日常に染まってしまったような者にこそ起こるべきである。
しかし運命は平等か不平等か、些細なことで心を動かされるこの青年に対して白羽の矢を立てたのであった。
*****
往来する人々で賑わう大通り。
その隅っこに置いた椅子に座り、手にした板の上に広げた紙に硬い木炭を滑らせる青年が一人。
彼の名はジェード。若い絵描きである。
少し青みがかかった黒髪に緑色の眼が特徴だ。
安っぽい古着を着こなす痩せた身体からは、裕福な商人たちとは対象的な印象を感じさせる。
椅子に座った彼の周りには、風で飛ばないよう石を乗せられた数枚の絵が並んでいる。
ジェードは数年前からここで描いた絵を売っているのだが、買っていく者は一人もいない。
それどころか通行人たちは、彼や彼の絵を視界に入れることすらしようとせずに通り過ぎていく。
まるで道端に無造作に転がされた石ころのように、まるで風に吹かれて乾いた音をたてる木葉のように、ジェードは誰の目にもとまることなくいつもそこで絵を描いていた。
今日もいつもと変わらない。
一人の客も来ることなく家に帰ることになるのだ。
そう思っていた。
そのとき、絵を描く視界の端に見えていた大通りが何の前触れもなく突然遮られた。
ジェードが顔を上げると、そこには腰まで伸びた長い髪を揺らす一人の少女がいた。
歳は十代後半といったところだろうか。着古してほつれた街娘らしい装いから想像するに、裕福な家の育ちではなさそうだ。
後ろで手を組んだまま絵を見下ろしていた少女は何も言わずに屈み、一枚一枚の絵にゆっくりと視線を這わせていく。
久し振りの客人である。何か声をかけたほうがいいだろうかとジェードは考えを巡らせた。
しかし客など数年間一人も来ていない上、元々内気な性格のジェードに気の効いた接客の文言が咄嗟に浮かぶはずもなかった。
「……や、やあ。何か気になるものはあるかい?」
勇気を振り絞った第一声。
しかし少女はそれが聞こえていないのか、あるいは無視しているのか黙って屈んだまま絵を見つめている。
やっぱりやめておけばよかった。
声をかけたことを後悔しながら、ジェードは手にした炭で再び素描の続きに取り掛かろうとした。
「これらは主が描いたものか?」
問いかけからかなり間を空けた時間差で少女の言葉が聞こえた。
声のした方を見やると、屈んだ姿勢のままでジェードの顔を見上げる少女がいた。
「……えっ? あ、ああ。ここにあるものは全部僕が描いたものだよ」
「そうか、見事じゃの。思わず見惚れておった」
てっきり無視されたと思い込んでいたジェードは返答が一呼吸遅れてしまった。
しかし少女はそんなことを露も気にする素振りを見せず、小鳥がさえずるような高い声の老人口調で簡単に感想を述べた。
ジェードは描いていた絵を椅子の上に置き、地面に並ぶ絵を見つめる少女と同じように屈んだ姿勢で向き合った。
「気になる絵があったら安くしておくよ?」
「それは嬉しいのう。じゃが今は金がなくてな、見ておるだけで十分じゃ」
「あらら、そうかい……」
少女の装いから薄々そうだろうとは思っていた。
それでも久々に絵が売れるかもしれないという期待が絶たれる瞬間というのは随分応えるものがある。
「絵はもう長いこと描いておるのか?」
娘は水色の瞳をジェードに向けて持ち上げながら問いを投げかけた。
「そうだね、かれこれ十年くらいになるかな。それしか能がなくてね」
「この絵は街の教会じゃな? よく描けておるではないか」
「ありがとう。毎日同じ時間に教会の前に座って地道に描いていたんだよ」
「この果物が積まれた盃の絵は、どうやって色をつけたのじゃ?」
「最近編み出された"油絵具"だよ。買うと高いから製造法を調べて自分で作ったんだ」
「しかしちょっと暗いのう。林檎はもう少し赤みがある方が美味そうに見えると思うのじゃが」
「あ、やっぱりそう思う? 僕も似たようなことを思ったんだけど、手作り絵具じゃこれが限界でね」
これはまったくの想定外であった。
何年もの間、誰にも相手にされなかったジェードの絵に感想を述べる者が現れるとは。
それどころかこの少女は絵について様々なことを尋ねてくる。
それに答えると次のことを尋ねてきて会話が弾む。
誰かと絵について語らったのなんて、本当に何年ぶりだろう。
ジェードの胸の内には得も言われぬ暖かさが満ち始めていた。
自分の作品を理解しようとしてくれる者がいるというのは、表現者にとってはそれだけで何事にも代え難い幸福だ。
「君はこの街の人かい?」
答えるばかりだったジェードは思い切って尋ねる側にまわってみた。
「いいや、わしは産まれも住みもここではない。最近この街にはよく来るがな」
「そうなんだ。観光か何か?」
「うむ、多分そんなところじゃな」
少女がこの街の者ではないことはなんとなくジェードにもわかっていた。
この街でジェードの絵を見に来る者など一人もいないと彼は既に知っている。
「なかなかよいものを見せてもらった。それじゃあの」
「あっ……待って!」
一通り絵を見て満足し、立ち去ろうとする少女をジェードは咄嗟に呼び止めてしまった。
なぜ呼び止めたのかは自分でもよくわからない。
ただ、この人なら自分のことを、自分の作品のことを理解してくれるかもしれないと思うと、喉が独りでに声を発していた。
一度背を向けた水色の双眸が再び振り返ってジェードを見つめる。
「あ、いやその……君みたいにちゃんと話ができた客は久し振りで……とても楽しかったよ」
少女はジェードの言葉を聞いてうっすらと微笑んだように見えた。
誰にも相手にされなかったジェードにとって、この少女は街で唯一自分の作品に触れてくれた人物だ。
このままあっさり自分の前からいなくなってしまうのかと思うと、ジェードはどこかもの寂しかった。
「だから、僕に何かさせてくれないかな? お礼って言えるほどのものではないけど、君の絵を描かせてくれないかい? もちろんお金はいらない」
──もの寂しかったから、せめてこの瞬間の感動を形に残したかった。
ジェードの提案を聞くと、少女は少し迷うような素振りを見せた。
顎に手を当てて周囲をちらちらと見やりながら考え込んでいた。
しかし急ぎの用事があるというわけでもなさそうで、すぐに「うむ、わかった」とジェードの方へ向き直ってくれた。
ジェードは自分が先程まで座っていた椅子を少女に渡し、その上に腰掛けさせた。
ジェード本人はあぐらをかいて座り、彼女を見上げる形で素描を始めた。
板の上に新しい紙を広げ、その上に炭を走らせる。
ジェードは目線を頻繁に上げたり下げたりしながら少女の姿を描き起こしていく。
ジェードがちらりと目線を持ち上げる度に少女は照れ臭そうにしている。
たまに目が合ってしまったときには、少女は頬を少し赤く染めて目を逸らしていた。
「よし、こんなもんかな。できたよ」
ものの数分でジェードは絵を描き上げた。
人物を一人描き起こすだけならば、かかる時間としてはこんなものだろう。
「見てもよいかの?」
興味津々の少女に頷き、ジェードは描いた絵を手渡した。
しかし──
「これが……わしなのか……?」
少女の顔からはみるみる血の気が引いていく。
すっかり青ざめたその幼顔は、先程までジェードの絵を楽しげに見つめていた者と同じ人物とは思えないほどだ。
彼女が震える手に持つ紙に描かれていたのは、当然ながら一人の若い女の絵。
描かれた女は少女の特徴を非常によく捉えており、まさに瓜二つの美しい出来栄えである。
それにも関わらず、彼女が取り乱している理由はただ一つ。
目の前の少女にはないはずのものが絵の中に描かれていたからだ。
──耳と尾。
ジェードが描いた少女の頭にはピンと立った獣の耳があり、腰掛ける椅子からは毛皮に覆われた太い尾が垂れ下がっていた。
「主にはわしが……こう見えておるのか……?」
少女の手の震えが増していく。
楽しげにジェードを見つめていた水色の瞳は完全に曇り、畏怖の光だけがその中で渦巻いていた。
「ねえ、君……? 大丈夫かい?」
ジェードが声をかけると、少女は手にしていた絵をその場に残して突然駆け出した。
「ちょっと君! 待って!!」
ああ、まただ。また僕の絵のせいで──
ジェードは舞い落ちる絵の隣を走り抜け、一目散に少女を追った。