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8、カガチ様

 蛇田池は雑木林の獣道を進んだ先にぽつんと存在する。ナツキもその存在自体は知っていたが、訪れたのはこれが初めてだ。

 父であるハルオは子供の頃よく蛇田池でバス釣りなどをしていたらしいが、現代の子供が訪れることはまずない。外灯が無く、人目につきにくいことから、学校によっては危険だから入らないようにと忠告しているところもあるくらいだ。ナツキが通っていた小学校では確か禁止だったはずである。



「久しぶりだね。カガチ」


「ああ。だいたい百年ぶりだな」


 ミナカは優しく語りかけると、カガチは頭を垂れると同時に朗らかに返した。

 まるで数年ぶりに会った友人のように会話するので、ナツキは「え、百年?」などとぶつぶつ呟きながら首を傾げていた。


「それで、そこのお嬢ちゃんは何なのかね? 見たところ普通の人間のようだが……」


 カガチは舌をチロチロと出してナツキを見つめた。

 見つめられたナツキはベビに睨まれた蛙のようにピタリと動きを止めた。

 蛇にはヤコブソン器官という匂いを感知する部分があり、舌を出すのも匂いの粒子を取り込むためと聞いたことがあったが、神であるカガチもその辺は変わらないのだろうか。なんでもいいが、獲物を前にして舌なめずりしているように見えるので、できればやめて欲しいと思うナツキであった。


「こちらはナツキさん。今お世話になっている神社の娘さんだよ」


「ゆ、遊佐ナツキです! よろしくお願いします!」


 声が裏返ってしまい、ナツキは顔を熱くしたがカガチは「元気があって良い」と朗らかに応えてくれた。

 先程ナツメを叱っていた時とは違って優しげだ。どことなく近所のお年寄りと被るところがあり、ナツキは緊張を解いた。


「そしてイタチの小僧か。なんとも奇妙な組み合わせだのう」


 今のナツメの姿を見てイタチと判断できるのは、やはり神様だからだろうか。

 


「カガチ……今日訪ねたのは……」


「ああ。みなまで言わんでもわかっとる。【神送り】だろう?」


 カガチはさも当然とばかりに言い当てた。

 蛇の姿なので表情は読めないが、口調は朗らかなままだ。ミナカの話では役目を終えた神様を送る儀式とのことだったが、ナツキはこれを人に当てはめるなら死のようなものではないかと考えていた。

 カガチが【神送り】をどう捉えているかはわからないが、これだけ達観しているのならそれほど悪いものではないのかもしれない。


「そろそろ頃合いだろうとは思っておった。ミナカ様、どうかよろしくお願いします」


 カガチは深くは語らず、ミナカに頭を下げた。

 ミナカは小さく頷くと【神送り】の準備に入った。しかし、それに待ったをかける者がいた。


『カガチ様は……それでいいのかヨ』


 ナツメだ。聞けばナツメはイタチとして生まれたときからカガチの世話になっていたらしい。ナツメにとって、この場所は実家のようなもので、カガチはお祖父さんのようなものらしい。直接顔を合わせたのは一回こっきりだったが、いつも守られている感覚はあったという。

 ナツメにはカガチが【神送り】されることに納得していなかった。【神送り】されれば、もう現世で会うことはほとんどない。ナツメにとっては昔から親しかった身内が亡くなることと同意なのだ。


「これでいいのさ。言ってなかったが、この池は直に埋め立てられる。池でなくなった場所に儂がおる理由もなかろう」


 カガチは池を振り返り、水面で反射する太陽光に目を細めた。


「昔は池の蛙を釣りに童たちが来たり、池の水を農地に使ったりと、必要とされていたが、今はそんなこともない。寧ろ人間たちの邪魔になっておる。時代の移り変わりというものなんじゃろうな。昔はそこかしこで見かけた神や妖たちも皆姿を消した。儂も一人は寂しいでな。これを機に高天原で隠居というわけよ」


『でもヨ、この池に住んでる奴らはどうすんだヨ。魚だけじゃねエ、色んな生き物が住んでるダロ? カガチ様はそいつらを見捨てるってのカ?』


 ナツメがイタチだった頃、池の周りの雑木林に住み着いていたことがあった。その頃もたくさんの動物や昆虫たちがいたという。

 池が埋め立てられ、守り神であるカガチがいなくなれば、その者たちの住処はなくなってしまう。ナツメはそれを危惧しているのだ。


「イタチよ。儂が残っていたところで池が埋め立てられるのは変わらん。池がなくなれば儂は神力を得られなくなる。神力が枯渇した神がどうなるか、お主も知っていよう」


『でもヨ……』


「イタチ、お主は若いな。見過ごすことができないのだろう? 儂は長い時を過ごす中でそういったことには諦めがつくようになったからのう。だが神として生きるのならば、諦めは大切だ。全て者を救い上げるなど、どだい無理な話だからな。お主の隣にいるミナカ様でさえそうなのだ。お主もその事をゆめゆめ忘れるな」


 神であっても、生きとし生けるもの全てを救うことはできない。

 カガチの言葉はとても重かった。この池が無くなることで、一体どれだけの生物に影響があるのか想像すると、ナツキは胃のあたりに重しを入れたように陰鬱とした気分になった。

 そして今日会ったばかりのカガチとも直ぐにお別れなのだ。

 【神送り】がそういう事だと知っていても、ナツキには少し辛い感情が勝った。


「お嬢ちゃん。あんたが気に病むことではないよ。これは仕方ないことなのさ」


 カガチは気落ちしたナツメを励ました。

 そう言われても、全く見て見ぬふりなんてできるはずがない。

 ナツキはちらりとミナカに目をやって助けを求めたが、ミナカは「どうにもできない」と言わんばかりに首を振った。


「依り代として祠を建て、そこを住居とすることはできるでしょうが、カガチは元より池の神。池がそばに無ければ弱っていってしまいます」


「でも、ほら、お供え物を欠かさなかったら大丈夫じゃないんですか?」


「ナツキさん一人のお供えでは足りないのです。私は祭神である立水神社という立地、ナツメは小物の付喪神であるために少ないお供え物でも活動できますが、カガチはそうではありません。象徴であり、力の源であった池がなくてはカガチの衰弱は免れません」


「そんな……」


 造化三神の一柱であるミナカであっても、自身を祀る神社無しでは神力切れは避けられないという。

 名のある神は使える力も膨大だが、神社という人々の思いが集約された地がなければ思いの外虚弱なのだそうだ。


『大したことはありませんよ』


 ナツキは家の蔵でミナカが言っていたことを思い出した。あれは謙遜などではなく、本当にそう思って言った言葉だったのだ。

 非日常的な光景をいくつも見たせいか、ミナカをなんでも出来るすごい神様としか見ていなかった。本人は大したことないと言っていたのに。


「お嬢ちゃんは優しいのう。さっきも言ったがそう気に病むな。儂の残った力を使えばここいらに住む者たちに道標くらいは作ってやれるさ。魚どもは駄目だろうが、他の奴らは新天地で新しい暮らしを始められるだろうよ。それに高天原だって悪いところじゃない。住み慣れた池を離れるのはちと寂しいが、高天原には旧友たちもおるからな。久しぶりに会いたいとも思っておる。まあ、そんなわけで儂はそんなに悲観してないのよ」


 カガチはそう言うと明朗にシシシと笑った。

 ナツメも「なんでエ、ちゃんと残るやつのことも考えてあんなら最初から言えってんダ」とカガチを見送る側に回った。

 ナツキはその様子を見て言葉を失った。カガチの言葉には一辺の心残りが無かった。寧ろミナカに送ってもらえるので安心したとも聞こえるようだった。

 意見を翻したナツメのことも理解できなかった。この蛇田池に来ても二度と会えなくなるのに、どうしてそんなに楽観的でいられるのだろうと。いくら高天原で会えるからと言って、そんなに簡単に別れられるのかと。

 神と人との圧倒的なまでの常識、意識の差がそこにはあった。


 ナツキは近いようで遠いところにいるこの三者を、どこかモヤモヤとした気持ちで見つめた。



 その後、ミナカの【神送り】は恙無く行われた。

 霞へと消えていくカガチは「またの」と一言呟くだけで、ミナカやナツメが返事を言う中、ナツキは「さようなら」としか告げられなかった。

 道標を残したらしいカガチのおかげで、羽を持つ虫や鳥は次々と旅立っていき、地を這う動物や虫たちも列をなして旅立っていく。

 残された魚たちはそんな旅立っていく者たちを弧を描くようにして泳ぎながら見送り、蛇田池には静寂が訪れた。

 その光景は虫嫌いのナツキでさえ幻想的で美しいと思わせるものだった。だがどこか物悲しく、ナツキは隠れるようにして涙を拭った。

 何故悲しかったのか、この日一日中考えてもナツキにはわからなかった。


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