2、境内にて
「連日の雨も上がり、本日の午後は行楽日和となるでしょう」
ナツキはテレビの天気予報を流し見しながら、朝食のパンを囓っていた。
昨日は米の日だったが、遊佐家の朝食は2日1回、その様相を変える。パン、パンと続けば、米、米と続き、そしてパンへと戻る……のを繰り返すのだ。
この習慣は遊佐家の食卓を牛耳っている父ハルオが、ナツキに毎日朝食を食べてもらいたいという思いから行われている。
「ナツキ、今日は晴れるようだから境内の掃除を頼むよ」
「はーい」
ナツキがぼんやりと返事を返すと、ハルオは「ちゃんと頼んだからね」と念を押した。
遊佐ナツキは立水市の立水公立高校に通う女子高生だ。
肩まですとんと落ちた黒髪は、雨の日でも変な癖の付かないストレートを維持し、母親譲りの白い肌と、父親譲りの温厚そうな目つきのお陰で美人とまではいかなくても、恵まれた外見ではあった。
しかし、女性として出るべきところが出ていないという悲しい現実と、サバ読みしてぎりぎり150センチに届くであろうという低身長のせいか、今まで、いわゆる恋人の関係になった存在はいない。
せいぜい、近所の年寄りたちに『ナッちゃん』という呼び名で可愛がられるくらいだ。
ナツキは立水神社の一人娘で、趣味は裁縫、好物はごま団子という、少し古風だが、一般的な少女である。
学校での成績はそこそこ。特に国語と家庭科には人並み以上の自信がある、そんな少女だ。
「―――年明けから早々、水立モールは賑わいを見せており、訪れた客達は」
ナツキはニュース番組へと変わった放送に興味を惹かれることなく、手元にあったリモコンの電源ボタンを押すと、小さくため息をついた。
「はぁ~。今年のクリスマスも何も無し。私の春は遠いなぁ。お父さんの名前がハルオなのに、まったく縁がないよ……」
と、ナツキは不満げに呟いた。
それも仕方のないことだろう。
そもそも、ハルオの名は『晴夫』であり、恋の季節を表すであろう春とは全く関係がない。
ナツキの名前が『菜月』と書かれる事も鑑みると、遊佐家にとって季節から名前を取るという考えは最初からないのである。
ナツキは尚もぶつくさと独り言を呟き、暇な時間を持て余している。
もしハルオがナツキの呟きを聞いていたら、「くだらないこと言っていないで、早く境内の掃除を済ませなさい」と捲し立てるだろう。
「寒いの嫌だなぁ。ねー? まめ蔵?」
「んにゃあ」
ナツキが話しかけている相手は遊佐家の愛猫、まめ蔵である。
神社の境内にて雨をしのぐ形で捨てられていたところを、幼い頃のナツキが拾い上げた捨て猫である。当時は鼻たらしの子猫だったが、6年の歳月で大きくなった今では世間一般の飼い猫より少し太っているように感じられる。
体毛は黒一色であり、好物は高級猫缶とマグロという食通である。
ナツキはまめ蔵の顎の下を掻きながら、窓の外を伺った。
長雨によって葉を散らした木々が寒そうに枝葉を揺らしていた。
神社の境内なので、当然一度外に出ないといけない。
ナツキが春の訪れをぶつくさ呟いているのも、寒い外に出るのを嫌った為である。
こうやって飼い猫のまめ蔵に話しかけているのも、暖房の効いた暖かい部屋でぬくぬくと過ごしたいからだ。
ナツキがまめ蔵を膝の上に乗せ、猫の体温を感じながらうつらうつらとしていると、
「ナツキ! 境内の掃除!」
と、ハルオがナツキの耳元で喚いた。
ハルオの大声によって、湯たんぽ状態だったまめ蔵は、ナツキの膝上から逃げ、ナツキはうたた寝の世界から現実に引き戻された。
ノロノロと動き出したナツキに、ハルオは半ば強引にニット帽やマフラーを着けさせ、玄関から押し出すようにして箒を持たせた。
「うぅ~。さ、寒い」
昨日まで降っていた雨はすっかり上がっており、空はカラリと晴れていた。
乾いた風がナツキに体を容赦なく吹きつけ、ナツキは身を震わせて寒さに耐えた。
濡れた地面に太陽光が反射し、ナツキは眩しさから目を細めた。
「さっさと終わらせて炬燵で温まろうっと」
穂先のすり減った箒をきつく握りしめ、ナツキは境内へと向かう。
「え……?」
ナツキがそんな呆けた声を上げた理由は、視線の先に、境内で寝転がる人物がいたからだ。
「なに? ホームレス?」
ナツキは寝転がる人物に恐る恐る近づき、持っていた箒をさらにきつく握りしめる。
何かあった時は、この箒で殴るつもりなのだ。
10年選手になる遊佐家の箒は、ホームセンターで買ったにしては頑丈で、暑い日も寒い日も神社の掃除で使われてきた相棒だ。
当然、ナツキからの信頼も厚い。
「あの……。すいませーん」
勇気を持って話しかけたにも関わらず、寝転がる人物が起きる気配はない。
この寒空の下だ。「もしや死んでいるのでは?」と不安になったナツキは、今度は箒の柄の部分で突くことにした。
「大丈夫ですか? 生きてますかー?」
「うーん……」
寝転がる人物は寝苦しそうに呻き、ナツキに背を向けた状態から、顔が見える状態へと寝返りを打った。
し、死んでる、とならずに済んだことにホッと白い息を放ち、安心すると、今度は勝手に私有地で眠るこの人物に腹が立ち始めた。
「ちょっと! 酔っ払いか何か知らないですけど、ここで寝ないでください! 迷惑です!」
箒の柄をつんつんではなく、ずんずんと眠りこける人物に刺し込み、安眠を妨害する。
「起ーきーてーくーだーさーいー! ……起きろ! 迷惑だって言ってるのが聞こえ―――」
「ううん、なんだい?」
うわぁ、すっごくかっこいい。
目を開いた眠りの主に、ナツキが寄せた感情は、そんな間の抜けたものだった。
これがナツキと、とある神の邂逅の瞬間である。




