1、売れない傘
「ふぅ……予報では0%だったってのに、どしゃ降りだよ。まったく……」
俺は路地裏の軒先で雨を凌いでいた。
俺の住む街は地方都市ではあるが、そこそこな都会だ。会社を出て三十分。雨に降られ始め、どこかに雨を凌げる場所はないかと探していたところ、たまたま目に入ったのが、この路地裏にある軒先だった。
まるで雨宿りするためだけに存在しているかのような場所だが、周囲が滝のような雨に濡れる中、俺だけが濡れずにいることに、何とも言えない充足感が満ちる。
濡れたアスファルトの独特な匂いを深く吸い込み、渇いたアスファルトの上で濡れた頭をガリガリと掻く。渇いたアスファルトに点々と水滴が飛び散り、水玉模様のコントラストを飾る。
「いつ止むのかねえ」
空を見上げながらため息混じりに呟く。空はどんよりと曇り、全てを洗い流すかのように雨を降らし続けている。
今日は定時で会社を出られたというのに、とんだ災難だ。明日からはあの天気予報を宛にしないようにしよう、と考えながら、俺は降り続ける雨をじっと眺めていた。
いつもなら暇つぶしとしてケイタイを取り出すところだが、今回はそんな気も不思議と起こらなかった。俺はただぼうっと降り続ける雨を眺め、隔離された小さな世界に身を置いていた。
ふと気づくと、いつの間にか隣に少女が立っていた。歳は11、12歳くらいだろうか。最近の子どもの歳は判断しにくい。もしかしたらもっと上か、或いはもっと下かもしれない。
「傘、いりませんか?」
俺が気づくと、少女は話しかけてきた。この歳でマッチ売りの少女のような真似事をしているのだろうか。そう思うと、不憫でたまらなくなる。見れば、着ているものも何やら古めかしい物ばかりだ。
「いや、いらない」
「そうですか……」
俺が断ると、少女はしょんぼりと項垂れた。
マッチ売りの少女改め、傘売りの少女は背中に数本の傘を背負っており、その傘達は少女が項垂れると同時にガチャガチャと騒がしく音を立てた。
俺が断ったのは別に意地悪をしたいわけでも、お金がないというわけでもない。ただ単に、少女の背負う傘が“古い”からだ。それも、骨組みが折れていたり、穴が空いていたりというような経年劣化によって起こる古臭さでは無く、どこか時代設定を間違えたかのような古臭さだったからだ。
いわゆる番傘というのだろうか。今では撮影用くらいにしか使われないと思っていたが、意外にも売っている人はいるものだ。頑固な職人の手作りで、少女はそれを売らされる不憫な娘、といったところか。
だが、俺にはこの傘をさして通りを歩ける自信がない。この雨がいつまで続くかわからないが、番傘をさして通りを走り抜けるより、この狭い軒下でぼんやりと雨が上がるのを待つほうがいい。少女には悪いが、他を当たってくれと思わずにはいられなかった。
しかし、少女はこの軒下から動こうとしなかった。
路地裏から通りに目を向ければ、今も急な雨に降られて肩を濡らすOLや、鞄を頭の上で持ち走るサラリーマンを何人も見ることができる。
この少女は何故そっちに売りに行かないのだろうか。こんな人通りも無い、雨宿りするしかないような軒下で傘を売っても、売れないだろうに。
もしかすると、通りで散々断られたあげく、この路地裏で売り始めたのかもしれない。
「笹傘。また傘を売っているのかい?」
「あ、ミナカ様」
俺が少女を一層不憫に思っていると、この軒下に新たな人物が加わった。どうやら少女の知り合いらしい。それにしても、傘作りの職人の娘だからなのか、名前まで傘の字がつくなんて、俺がこの少女の立場だったら人生を嘆いていたかもしれない。
「今日も売れないみたいだね」
「はい……」
ミナカと呼ばれた女のような男……いや、やっぱり女かもしれない。とにかく、その性別不明なミナカは少女……笹傘と仲がいいらしい。面識があるようで、何度か会っているようだ。
それにしても、整った顔だ。純日本人といった顔なのに、不思議と見惚れたくなる顔立ちをしている。口調は男っぽいのに、声音は女っぽく、柔らかで鈴の音のようだ。
しかし、このミナカという人物も古めかしい服を着ている。和装を古いと考えてしまう俺が異常なのかもしれないが、ミナカの服は和装といえど、質素で飾り気がない。まあ、それがこの人物の儚さを引き出しているようにも思えるので、似合っているとも言えるが。
「そこの御人」
「俺?」
「ああ、君の事だよ菅原君。どうかな? 笹傘の傘を買ってやってはくれないか?」
「ど、どうして俺の名を……?」
「僕にはわかるんだ」
ミナカはそう言って微笑んだ。
確かに俺の名は菅原だ。しかし、名札を付けているわけでもないのに、いきなり名前を呼ばれるなんて、怪しいにも程がある。もしかして、新手の押し売りだろうか。何らかの方法で俺の名を知って、あたかも俺の事を全て調べ尽くしたかのように言い回し、住所を晒すぞと脅し、番傘を法外な値段で売りつける。そういった商法なのだろうか。
グレーゾーンなどでは無い、立派な犯罪じゃないか。なるほど、だからこんな路地裏で商売をしているのか。綺麗な顔立ちなのに、おっかない事を考えるものだ。
「怪しむのも仕方ないだろう。だが、安心して欲しい。ただ傘を買ってもらいたいだけだから。勿論、詐欺などではないよ。価格はたったの100円、ワンコインというやつだよ」
ミナカがそう言って寂しそうな表情をするので、俺はなんだか毒気が抜かれてしまった。
悪い方へ悪い方へと考える癖は抜けないものだ。
「いや、そんな事を言われても……」
「難しいか……。すまないね笹傘。手伝えなかったよ」
「いえ! ミナカ様に手伝ってもらうなんて畏れ多いです! ありがとうございます!」
笹傘はふるふると頭を振った。
背負った傘の束が勢い良く揺れ、つられて笹傘が少しバランスを崩す。
今の世の中は、声をかけられたらまず怪しめというのが常識となってきている。
登下校中の児童に挨拶すれば不審者扱いされ、通りを歩けば怪しげなセールスに引っかかる。結果、そんな社会が生み出したのは出来るだけ人に関心を持たないという意識だ。
見知らぬ人から声をかけられたら騙されるのではないか、嵌められるのではないか、面倒事に巻き込まれるのではないか、と考えてしまうのが、現代の人間なのだ。
俺もいつの間にかそんな人間になっていたらしい。
「あー、やっぱり買います」
「え? あ、ありがとうございます!」
そんな寂しい人間になりたくない。そんな思いから、俺は自然と声に出してしまった。
声に出してしまったのでは引っ込ませることは出来ない。俺は大人しく100円を支払い、番傘を受け取った。ずしりと重い木の感触に、職人の気持ちが入っているのだと錯覚する。俺は100円という対価に対して、傘以外にも何か大切なものをもらった気がした。
「君なら買ってくれると思っていたよ」
「おじさん、ありがとう」
そう言う笹傘とミナカに一礼し、雨の中を傘をさして歩く。何とも言えない不思議な出会いだった。短い時間だったが、気持ちのいい雨宿りができたような気がする。
通りを出ると、一瞬注目を集めるが、すぐに周囲の視線は外された。
「なんだ。恥ずかしいことなんて無いじゃないか」
俺は傘を肩に掛け、軽い足取りで帰路についた。俺は雨が上がっても傘をさし続けた。
―――・―――・―――・―――・―――・―――
「良かったね。傘が売れて」
「……はい!」
「そろそろ行くかい? もう神力もぎりぎりだろう?」
「はい。正直、明日はないと思っていました。ミナカ様、雨を降らせて頂き、ありがとうございました」
「いいんだよ。君達を帰してあげる事が僕の役目だからね。今日まで数百年か……よく頑張ったね。お疲れ様」
ミナカは光に包まれていく笹傘の頭を撫でた。笹傘は頭を撫でられると、目に涙を浮かべ、鼻をすすった。
「うっ……ありがどうございばず……」
「最後に優しい人に買ってもらえたんだ。その100円は高天ヶ原への土産にするといい」
「はい………」
「じゃあね。傘の神、“笹傘”。天地神明の一柱となりて天の都で安寧に暮らしなさい」
ミナカがそう言うと、笹傘は泣きながら一つ頷いて光になって消えた。一筋の光が、天に登っていくようだとも思えた。
「これでまた一人の神が現世から姿を消したか……。仕方ないとは言え、いつまで経ってもこの寂しい気持ちは慣れないね」
ミナカは空を見上げ、雲の切れ目から射す日光に目を細め、憂いた表情をかき消すかのように頬を二度叩いた。
「少し神力を使いすぎたかな? 早く住まいを探さないと……」
そう言って、ミナカは路地裏の奥へと流れるような足さばきで歩いていった。




