#01
彼女を押し倒したあの日、初めて彼女の涙を見た。いつも微笑んでいた彼女が、人形のような表情をしてはらはらとこぼす涙を見た。初めて見る痛ましくも美しい姿が魅力的だった。彼女が俺のことで心を動かしてくれたことが嬉しくて、頬に触れようとした。その瞬間、大きな音を立てて扉が開くと、何か強い力に襟元を引っ張られ、彼女から引き離された。
彼女とそっくりな、けれど彼女より少し大人びた雰囲気を持つ女性が、般若のような顔で俺を玄関へと追い立て、そのまま家からたたき出した。最後に覚えているのは、閉まっていく扉と、感情を押し殺したような淡々とした言葉。
「あとで連絡しますから。今日はもうお帰りください。もし騒ぐようなら警察を呼びます。」
無常に閉まった扉にすがることもできず、肩を落として帰るしかなかった。
数日後、とあるカフェへと呼び出された。呼び出された先に待っていたのは、彼女とよく似た清楚な女性。あの夜彼女から俺を引き離し、家からたたき出した人と同一人物とは思えないほどに大人しそうな女性だった。どうぞ、と静かな声促されて席に着くも、ついつい彼女の姿を探してしまう。視線の動きに気付いたのだろうか、女性が小さく笑った。
「あの子のことを、探しているんですか?まぁ、今日は連れてきていませんけど。」
女性は先ほどと同様、静かに笑っていた。妙な圧迫感を感じて居心地悪く身じろぎをする。ようやく女性の目が笑っていないことに気づく。笑っていないどころか、怒っているようにさえ感じる。思わずスッと背筋が伸び、冷や汗が出てくる。女性は静かに微笑んだまま優雅にカップを置くと、しっかりとこちらを見つめて話を切り出した。
「今日来ていただいたのは、
もう二度とあの子に近づかないでください、とお願いしたいと思いまして。」
穏やかに切り出されたその内容に、頭が真っ白になった。彼女に、二度と近づくな?なんでそんなことを、そんな、俺は失うことなんて考えられないくらい、彼女のことが大切なのに。
最初は、ただの興味だった。誰に対してもどんな時でもにこにこと微笑んでいる彼女の違う表情を見てみたいと思った。軽い気持ちで告白すると、ポカンと口を開けてみるみる真っ赤になっていった。その様子がかわいくて、彼女の表情を俺だけが変えられたことに満足した。
ちょっとした行動に見せる照れた顔や、慌てた表情がかわいくて、わざと近い距離で話しかけてみたり、じっと目を合わせてみたりした。しかし1か月も経つと慣れてきたのか、彼女はまた他人に見せるあの笑顔でにこにこと微笑むようになった。もっと違う表情が見てみたくて、嫉妬させることを思いついた。他の女と手をつないだ時、笑顔を取り繕う前のほんの一瞬、彼女が傷ついた顔をした。彼女に愛されていることが実感できたような気がしてぞくぞくした。正直、他の女に興味はなかった。けれど彼女の表情を変えるために、次第に色々な女と付き合うようになった。
行動は段々エスカレートしていった。最初は、手をつなぐだけだった。そのうち抱きしめることすら普通になり、キスをすることにも抵抗がなくなり、大学へ上がる頃にはそれ以上のことをすることさえ当たり前になっていた。
いつからだろう。どんなに他の女の痕跡を残してもいつも通りの微笑みしか見せなくなった彼女に俺の方が焦りだす。そんなとき、高校時代の友人といった居酒屋で彼女と遭遇した。またとない好機に喜んだ。やり方がワンパターンだったんだ、これで新しい表情が見られるはずだって。友人からの質問に彼女が聞き耳を立てていたから、わざと言葉を選んで返答した。店を出る時の、初めて見る空っぽの表情はとても魅力的で、やっぱり彼女の表情を動かせるのは俺だけだと満足した。
やはり俺は彼女に愛されている。決定的な瞬間を見せれば彼女は泣いてすがって俺に愛してると言うはずだ、彼女が素直になるきっかけを与えよう。そう思って5年目の記念日に部屋に他の女を連れて行った。しかし彼女はにっこりと、いつもより綺麗に微笑むと別れの手紙を押し付けて去っていった。あまりに鮮やかな去り際に、追いかけることすらできなかった。
どこで間違えたんだろう。俺はいつだって彼女のことばかり考えていたのに。彼女以外の女には興味もなかったし、本当に彼女のことが好きだった。彼女だって同じはずだ、俺を愛しているはずだ。俺の心が他の女にあるって、誤解しただけなんだ。だから誤解を解けばきちんと戻ってきてくれるはずだ。俺が彼女を愛してるってわかったら、きっと戻ってきてくれるはずだ。
長い、長い沈黙のあと、はっきりと伝えた。
「俺は、彼女のことが好きなんです。 彼女も、俺のことが好きなはずです。 今、彼女は誤解しているんです。俺の気持ちを。俺の、本当の気持ちを理解したら、きっと俺の元に戻ってきてくれるはずです。だから、まずは彼女に会わせてください。」
ふぅ、とため息をつく音がした。ほんのりと上品な微笑みともに、女性はおっとりと残酷な言葉を告げた。
「とりあえず、今は無理です。あの子、他の男性と一緒にいますから。」
三日月型に細められた瞳は、嘲るような色をしていた。俺は皮膚が泡立つような感覚を覚えた。
「あ、男性って言ってもいとこですよ?。幼少期から交流があるお相手で。素敵な方なんですよ、勇敢で優しくて将来性があって。幼い頃から妹に思いを寄せていて、あなたと別れてから、たまに妹を遊びにさそってくださるんです。」
前半の言葉で急浮上した気持ちは、後半の言葉で叩き落される。
惑わすように試すように、こちらを見据えながら女性は言葉を紡いでいく。
「昔はお膝抱っこもしていたんだけど、今はさすがにしないかしら。手をつないで出かけるくらいはしているわね。今日は二人で映画を見に行くそうなの。昨日の夜から楽しみにしていて、珍しくはしゃいでいたわ。」
カッと体中に血が上ったような錯覚に陥る。彼女と手をつないで歩く男の姿を想像して怒りがこみ上げる。目の前にいる女性の姿が彼女にかぶり、思わずがたんっと音をたてて立ち上がった。目の前にいるのが彼女じゃないとわかっているのに感情に歯止めがきかなくて手を振り上げた時、ばしゃり、と思い切り水をかけられた。
びしょ濡れになって我に返る。俺は今、何をしようとしていたのだろう。
微笑みを宿した猫のような瞳と目があった。俺に水をかけた時の体勢のまま静止した女性は、最初と同じ静かな声で着席を促した。
「お座りになったら?まだ話は終わっていませんから」
他のお客さんの注目を浴びていることに気が付いて慌てて座る。居心地の悪さに身じろぎをすると、楽しむような声が届いた。
「どうして怒ったの?」
今の出来事に動じた様子もない女性は、微笑んだまま馬鹿にするような響きで尋ねた。
「あなたに、怒る資格があると思っているの?」
ふわり、と自分が水の中に投げ出されたような心細さを感じる。
しっとりとした声が、段々と俺の心を蝕んでいく。
「あなただって、他の女性と一緒にいたのよ?
あの子の前で、手をつないで、キスをして。
それ以上の痕跡だって、見せつけていたって聞いたわ。
あの子はもうあなたのものじゃないの。
他の男性と出かけることの、何がいけないの?」
彼女とよく似た声が、よく似た顔が、歌うように弄ぶように、だけどしっかりと俺の行いを糾弾していく。
「あの子の気持ちを考えたことがある?傷つく気持ちに一度でも寄り添ったことがある?」
気づくと、女性の顔からは一切の微笑みが消えていた。その表情が居酒屋で見た彼女の空っぽな表情と重なり、一抹の不安を呼び起こす。何か、大切なものを見逃していたような焦りが身体を支配する。今まで見た彼女の傷ついたような表情と、普段浮かべている暖かい笑顔が交互に脳裏によぎる。
「どうして、あの人はわたしのことを見てくれないんだろう。どうして、わたしには指一本触れてくれないのに、他の人には触れるんだろう。次の記念日には、きっと二人で過ごせる。次の記念日からは、きっとわたしのことを大切にしてくれる。あぁ、だめだった。まただめだった。辛い、苦しい、悲しい、痛い。どうしてわたしはあの人が好きなんだろう。あの人を好きでいるのを辞めることができないんだろう。もう期待したくない。もう裏切られたくない。諦めたいのに、諦められない。自分の心が少しずつ削られていくような気がして、少しずつ、少しずつ壊れていくみたいだ。」
女性の声が、完全に彼女の声と重なった。心に雨が降ったみたいに、言葉が身体にしみこんでいく。先ほど感じた怒りを思い出す。あんな激情を、彼女は微笑みの奥に押し込んでいたのだろうか。あんな思いを、いつもさせていたのだろうか。言葉が染み渡ると同時に、少しずつ彼女の気持ちが理解できていく。傷ついた表情、空っぽの表情。彼女の表情、言動、些細な仕草。思い返せばいくらでもヒントはあった。
なぜ今まで考えが及んでいなかったのだろう。自分の身勝手さに身体が震え、視界が真っ暗になったかのような錯覚を覚える。
「全部、あの子が語った言葉。あの子の気持ち。ねぇ、少しでも考えたこと、本当にあった?」
カタカタと身体が震える。なんてことをしてきたのだろう。自分が彼女に抱かせていた気持ちから目を逸らしたくて、少しでも俺と一緒にいて幸せだったのだと思いたくて。すがるように、言葉を発した。
「でも、彼女は、いつも笑って…」
一番嫌っていたはずのあの表情に一縷の望みを託した。そんな俺に、憐れむような瞳が向けられた。
「笑顔なんて、くすぐればでてくるの。少なくともあの子にとって、そのくらいの価値しかないよ。」
見せつけるかのように、女性は鮮やかに笑った。彼女とよく似た、暖かな、柔らかな笑顔だった。
あと1話です。どうぞ最後までお付き合いください。