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05

ピーンポーン。

彼と離れてから数日、新しい部屋に移った私に来客が訪れた。


彼だった。


「お願い、二人だけで話をしてくれないか。お願いだ。」


懇願するような声に、ほんの少し心が揺れる。


ガチャリ、と一度切って、しばらく考える。

案外たどり着くのが早かったな、なんて。というか本当にわたしのことを探しているとは思わなかった。『別れよう』と言ったから、『わかった』と言われて終わるものだと思っていた。そんなことを思っている間にも、チャイムが連打される。小さくため息をついて、もう一度インターフォンを手に取った。


「今、開けるので待っててください。」


ことり、と心臓が嫌な音を立てたのを感じる。彼と、向かい合うのが怖いのだ。

一緒に暮らしている姉に『ヤツが来た。部屋に入れる』とメールをすると、『了解。即効で帰る』と返事が来た。持つべきものは素敵な姉だと思う。ドアを開けると、捨てられた子犬のような目をした彼がいた。リビングに招くと、希望の光をみつけたかのような顔をした。


こぽこぽと音を立ててお茶をつぐ。つがれたばかりの煎茶の香りが好きだ、と思った。ことん、と彼の前にお茶を置くと、彼はほんの少し居心地悪そうにしながらも一心にこちらを見つめていた。


「ご用件は、何でしょうか」


そんな風に問いかけると、彼が泣きそうに顔を歪める。


「お願いだから、そんな風に他人行儀にするのはやめてくれ。」

「別れるなんて言わないでくれ。」

「俺には君しかいないんだ。」

「これからは君だけを見る、約束する。」

「だから、戻ってきてくれないか。」


「君が、部屋を引き払ったことを聞いて本当に驚いた。」

「大学へ来る時間も不定期で、もう二度と会えないかと思った。」

「いろんな人にどこに引っ越したか知らないかを訪ねて、ようやくここを知ることができた。」

「お願いだ。」

「やり直してくれないか。俺は君じゃなきゃダメなんだ。」


悲しげに語られる言葉は、でも心に染みることはなくて。ただ、あの日からのことを思いだした。







彼に別れを告げたあの日、3年間一人暮らしをした部屋にも別れを告げると、わたしはまとめておいた荷物をこの部屋に送った。姉の就職先の近くに、二人で引っ越すことにしたのだ。「一人じゃ寂しいの。一緒に暮らそう。」賭けをすることを決める前、彼から離れられないわたしを見かねたのだろうか、姉がそんな提案をしてくれた。大学もあとは卒業論文のみ。引っ越してしまえば、彼に、会うこともないだろうと思ったから。


彼に会いたくないと思ったから、わたしは姉の提案にのることにした。





今までわたしに一切関心を向けなかったのに、なぜこんなにもわたしのことを求めているのかはわからない。ただ、わかるのは、彼はわたしのことを何も見ておらず、わたしの気持ち考えておらず、ただただ自分の気持ちのために、わたしにあの辛い日々に戻ることを要求していることだけ。


ごとり、と心臓が嫌な音を立てた気がした。彼がわたしを探しているのは知っていた。でも、彼の存在を気にすれば気にするほど、あの地獄に引きずり込まれてしまいそうな気がして、興味がないふりをしていた。


彼がわたしを探していることに、彼がわたしを求めてくれることに、喜んでしまう自分がいることを知っていたから。




何も言わないわたしに、焦れたのだろうか。

彼が近づいてきた。手を摑まれた。抱きしめられて、抱きかかえられて、気づくとソファの上に押し倒されていた。掴まれた両手は動かすことはできず、身体は体重をかけて押さえつけられている。別れたはずの相手に、組み敷かれている。危機感を感じるべき出来事だろうに、擦りガラスを一枚隔てているかのように現実味がなかった。反応がないわたしに、彼がさらに苛立った様子を見せる。気に入っていたおもちゃを取り上げられて癇癪を起しているかのような姿に、この人は本当に、「わたし」のことを何も見ていなかったのだと感じた。


同時に、言葉がほろり、とおちた。


「また、わたしのことを傷つけるの?」

「傷つけることが、たのしいの?」


聞こえているものも、触れられている身体も、全部が全部、遠くなっていく。呼吸が浅くなり頭が朦朧として、テレビの向こうを見ているかのようにわたしに関係がないものになっていく。わたしだけ、なんて嘘じゃない。あなたはずっと他の女の人を追いかけていた。わたしは、あなたを信じたくて信じようとして、わたしはあなたを見ているのにあなたはわたしを見てはくれなくて。もう何も聞きたくない期待したくない、わたしはもうぼろぼろであなたにあげられるものなんて何もないのに、あなたはわたしになにも与えてはくれないのに要求ばかりしてわたしのものを奪い取る。あなたの言葉は空っぽで、与えられることになんの意味もないのに、あなたの言葉一つでわたしは期待して、わたしの全てを差し出してしまう。


あなたが好きだ。どうしようもないほど好きだ。

あなたがわたしを見てくれないことがわかっているのに、また期待してしまいたくなるほどに。





でも、わたしが求めたものは、こんなにも傷つかなければ代償が払えないほどに分不相応なものだったのだろうか。


ただ、あなたに愛してほしかっただけなのに。





ぽたり、と涙が頬を伝った。驚いたような、だけどどこか嬉しそうな顔をした彼が私に触れようとしたとき、バーン、と部屋中に大きな音が響いた。扉が開く音だった。普段の温厚な様子からは考えられないほどの怒声が聞こえて来て、身体の上に乗っていた重みがなくなり、なにか暖かい、おひさまの香りがするものに抱きしめられた。何が起きたかはわからなかったけれど、いつもわたしのことを一番に考えてくれる存在がすぐそばにきてくれたことを感じたから。安心して、わたしは意識を手放した。





彼が訪れてから数日。あの日、大急ぎで帰宅し、わたしから彼を引き離してくれた姉は、たった一言、「もう大丈夫だから。」とそういった。姉妹二人だけの暖かい時間、姉がいれてくれたカフェオレを飲みながら今までの出来事をぽつりぽつりと話した。どんな出来事があったか、どんな気持ちだったか。随分と時間がかかったけれど、根気強く話を聞いてくれた。最後には頭を撫でて、ぎゅぅっと抱きしめてくれた。


「苦しんでたの、気づいてたよ。助けになれなくてごめん。でも、あとはおねえちゃんが何とかするからね、もう苦しまなくていいんだよ。」


彼の声を、言葉を、表情を思い出すだけで、自分の足元がおぼつかなくなり、またあの辛い日々に引き戻されるかのような恐怖を覚える。はっきりと自覚する。わたしはまだ彼を愛している。だからこそ、あの日々に戻りたくなければ彼に会ってはいけないのだと。

自分の恋愛のことに姉を巻き込むのは申し訳なかったけれど、優しい言葉に甘えることにした。口に残る甘い味。暖かい部屋と、おひさまの香り。心がほかほかと温まるような瞬間に、きっとこれが幸福というのだと思った。彼の元に戻ればこんな穏やかな時間は二度と味わえない。この時間を、手放してはならない。そう思うのに涙が止まらなかった。洋服に落ちた涙の跡が、雨のようだと思った。姉はつなぎとめるようにわたしを抱きしめてくれていた。








あれから、1年が経った。忙しい日々が続いた。姉に色々なところに連れまわされ、そうこうしている内に就職活動の時期になって。就職したい業界は決まっていたけれど、なかなかうまくいかなくて。粘りに粘って、自分がやりたいことができる会社にやっと決まって。あっという間に卒業論文の締め切りが迫って来て、大慌てで教授に泣きついた。


色々なことがありすぎて、何かを考えている暇もなくて。卒業式が終わった頃、ようやくゆっくりと考える時間ができたような気がした。彼と離れて、心の安定を取り戻していたことに気付いて。忙しくしている間に、少しずつ彼との記憶を思い出に昇華していたことも知った。


そんなある日、あの夜と同じように、姉がカフェオレを入れて部屋で待っていた。そして、今のわたしなら大丈夫だと思う、と前置きしてから、ぽつりぽつりとあの後の彼とあったことを教えてくれた。


彼が家に尋ねて来てから数日後、近くのカフェで彼と会ったこと。彼と話したこと、彼から聞いた彼の気持ち、姉が彼に何を言ったか。彼に何を言われたか、彼とどんな約束をしたか。そしてそれをなぜ今わたしに話すのか。


「あの時は見てられなかったから口出しちゃったけど、やっぱり恋愛のことは自分でけじめつけないと進めないこともあるからね。もし、前に進めないのならきちんと一度、あの人と話しなよ。今ならもう、大丈夫だろうから。」


優しい表情でどうする?と尋ねる姉に、ゆっくりと首を横に振って返事をした。わたしの別れの挨拶は、彼が家に女性を連れてきたあの日に終わっている。彼の記憶が思い出となった今、再び会う意味を見いだせなかった。


もちろん、まだ忘れられないこともあるし、彼と過ごした日々を思い返すとあの時の悲しさや辛さが押し寄せて泣いてしまうこともある。けれど、それはを好きだという気持ちから流す涙ではない。それに、手に入れた今の日々が確かに幸福だと思うから、あの時の選択は間違いではなかったのだと、胸を張ってそう言えるから。


会わなくても大丈夫だと、心から笑った。











愛を囁くくせに、空っぽな瞳をした彼。

彼の瞳にはわたし以外のたくさんの女の子が映っていたけれど、私は、彼のたった一人になりたかった。


誰もが憧れるヒロインの物語は、いつだってハッピーエンド。

平凡なわたしはヒロインにはなれなくて、たくさんの泣いている女の子たちの一人でしかなかった。


けれど、脇役の女の子にだって自分の物語がある。

わたしと彼との物語はバッドエンド。

でもわたしの生活はこれからも続いていくし、いつかは、彼以外の男性と、また物語を紡ぐこともあるだろう。



わたしはわたしの選んだ道を、きっと後悔したりしない。



どんな道だとしても、それが、わたしが選んだ幸福だと思うから。

ブックマーク、ありがとうございます。

本人視点はこれで完結ですが、あと2話ほど続きますので、どうぞ最後までお付き合いくださると嬉しいです。

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