9
鳥居が店に着いた時、男は刺身をつまみに酒を飲んでいた。部屋一帯を竹が囲い、生花が真ん中に配置されている。耳をすませば添水が聞こえてくるような洗練された一室だった。室内は、ここへ来るまでの雑踏とどこか隔離されたように静かである。
「遅くなりました」
鳥居は頭を下げながら手前の椅子を引いた。男は顔を上げるなり微笑を向けたが、目だけは神妙な光を湛えていた。
「急に呼び出して悪かったね」
「いえ、それで、積もる話というのはなんでしょうか?」
「ああ、君にね、どうしても聞きたいことがあるんだが」
「なんですか?」
「この記事だよ」
男は、テーブルにあった新聞を鳥居の前に置いた。丸まった新聞にところどころに皺がよっている。
「はあ……ああ、これですか」
既に入室してから、新聞に目をつけていた鳥居は、恰も今、思い出したように答えた。
「この南条というのが知り合いの連れでね。なんでも君が彼に頼まれて色々調べていたそうじゃないか」
「はあ、そうです。内密にするよう先方に言われていましたから」
鳥居は淡々と返した。
「内密に、か。君のことだから、徹底的にやったんだろう?」
「はい。最初は、スクープになるような情報かと食いつきましたが、蓋を開けてみたらなんでもありませんでした。それを彼に告げたんですが、彼もなかなか諦めが悪くて、試しに金を要求してみたら、用意すると言ったんです。それから押される形で、何度か福井にも飛びました。……それがどうかしたんですか?」
「僕はね、警察にバラしたのは、君ではないかと思っているよ」
「とんでもありません。僕は彼の要求に忠実でしたよ」
「それじゃあ、どうしてこうなったんだい?君が手落ちするわけがないだろう?」
「それは……予感はありました。ただこうなるとは少々驚きましたが」
「もう話せない口約もないんだろう?鳥居くん」
「そうですね。先生にはお話し致しましょう」
鳥居は膝に手を置いたまま頷いた。
「で、通報したのは誰なんだ?」
「本山和子の母親です」
「母親?」
「ええ。記事にある通り、和子の母親は、娘が残した封筒を頼りに南条を訪ねて東京へ訪れています。その時、なんとか娘の死の手がかりを探そうとしたみたいですが、たいした証言は得られなかったみたいで」
「それから南条が福井に飛んで、入念に現場を見に行っている。でもこれは母親は知らなかったんだろう?」
「いや、知っていたんです。後日、地元の警察が母親に連絡を入れていますから。彼の行動が警察としても少し引っかかったんでしょうね」
「南条は細かいことまで聞き出していたらしいね」
「そうなんですが、母親が不審に思ったのは、なにも警察から電話を受けてからじゃありません。実は、初対面から疑っていたんです」
「ほう」
「母親が、娘が自殺したと南条に告げた際、南条は顔色一つ変えなかったそうです。それもどうやら放心状態に陥ったようではなく、丸っ切り他人事みたいに平然としていたので、母親としても気になっていたらしいのです」
「なるほどね。だから南条がわざわざ東京から福井に来ていたことを聞いてますます不信感が募ったのか」
「その通りで、母親は警察に度々相談していました。それがこういう形に表れたんです」
「よく鳥居くんは回避できたね」
「それに関しては伝がありますからね」
「ああ、そうだった」
暁は、一人合点しながら頬杖をついた。天井から吊るされた暖色の照明によって、暁の顔に影が生れる。
「捕まったのは組織の人間だってね」
「はい。それも下っ端の下っ端です。こういう事では、指示した本人はかすり傷すら負いません」
「ということは女はあっさり切り捨てられたのか」
「そういうことでしょうね」
鳥居の返事は、ひどく冷淡で、事務的だった。もうこの一件に関して、興味を失い、感情がないようだった。
「こういうのは断片だけ聞いても仕様がないな。全部話してくれるかい?」
「構いません。先生が気になっていることはこの事件のトリックではありませんか?どこの記事でも、細工をした、としか載ってませんからね」
「さすが鳥居くんだ。本山和子の同僚が誘拐されてから、福井の海岸で発見されるまでどうやって海に沈めていた?犯人としては容姿の判別がつかなくなるまで腐敗させたかったに違いないだろう」
「そうです。普通水死体は、体内でガスが発生し、二週間ほどで浮上していきます。それではすぐに発見されてしまいますから、犯人は腐敗の進行を早めるためにも遺体に重りをつけなくてはいけません」
「それも、体に傷跡が残らない方法だ」
「ええ。僕はこの事件を調べている時、最初はどうしてもわかりませんでした。ですが、一度自分を犯人と置き換えて考えてみたら簡単に解けました。要は、証拠が消えて無くなる魔法のような方法はないか探したんです」
「証拠が消える、ね」
「そうなんです。証拠が海に溶けたら好都合だと思いませんか?」
「溶ける?」
「先生は、水溶性プラスチックをご存知ですか?僕はてっきり一般にはまだ普及していないと思っていましたが、裁縫や農業に幅広く使われたりと簡単に手に入ります。しかし、大規模なものになると個人ではなかなか入手できません。それに、水溶性製品は薄く、数時間で溶けて無くなってしまうのが殆どです。とても二ヶ月以上持たせるのは、どれだけの厚さを誇っても無理です。では、どのような細工をしたのか」
鳥居は一旦舌先を舐めた。自分でも早口なっていくのがわかった。
「答えは、逆転の発想にありました。水溶性製品には、冷水で溶けるものと温水で溶けるものの二種類あります。今回犯人が事前に取引した『淡海化学』という会社を調べたところ、ある製品には冷水に強く、強度は様々ですが、一定の時間経過を要することができることがわかっています」
「鳥居くんのことだから、それは確実なんだろうね」
「ええ。態々実験を依頼しましたから。なんでも海水というのは、あらゆる断定は不可能で、単なる劣化が原因の可能性もあるそうです」
鳥居の姿勢は、いつものようにピンと背中を張って微動だにしない。
「犯人も一か八かだったと思いますよ。なにせ、はっきりした用途は言えないので、どのような結果になるかはわからなかったはずです」
「危険な賭けだね」
「ええ。それから肝心な『重り』です。遺体は不自然に厚着をしていました。発見された当初は十一月の下旬でしたが、遺体の腐敗からしても夏場、および残暑の時期に投げ込まれた可能性が高いのです」
「ほう」
「崖からの飛び降りというのは、多少の外傷はあってもおかしくありせん。特に福井のような陖崖をみれば突き出た岩場がごろごろありますからね。僕の推測では、幅の広いブロックが使われたと思っています。土木会社ならそれぐらい用意するのは容易いでしょう。それを括り付けるのではなく、遺体にプラスチックフイルムで巻きつけ、接着剤で固定する。遺体の厚着はその時の圧迫を和らげる作用もあったのです」
「なら、福井の海には今もその重りが沈んでいるんだね」
「だと思います。もし、製品が完全に溶けずに遺体についていたら、他殺として警察が動いていたでしょう」
「それは、自殺した、という固定観念が関係していそうだね」
「そうかもしれません。不運は、一か八かがいい方へ流れて行ってしまったことです」
「しかし、鳥居くん」
暁は漆器の盞に指を伸ばした。
「世間は、とことん不条理だな」
そう呟き、手首を傾けた暁の目は、鳥居ではなく別のところへ向けられていた。静かだった個室に弾けるような哄笑が通り過ぎて行った。




