8
事は容易に運ばなかった。店に電話してもママは不在と言われるばかりである。支配人だという中年の男は、俺とママの関係をママから『友人』だと聞かされている。
「今日はいるだろ?」
苛立ちながら問いかける。あれから十日は連絡が取れない。今頃、国内どころか日本を飛び出しているかもしれない。しかし、支配人は快活そうだった。
「はあ、申し訳ありませんね。なんでも、ママは休暇中でして」
その休暇中にどこかへ失踪しては困るのだ。
「いつ店に出る?」
「来週にはお見えになります」
「来週?どこか海外でも行っているのか?」
「それは、私共も存知ませんが……」
「何曜日になるかくらい連絡はくるだろう?」
「ええ」
「じゃあ、君が番号を控えておいてくれないか?」
「はあ」
「あ、呉々もこの事は、ママには内緒にしてくれよ」
「え?」
「ママを驚かせてやりたいんでね」
俺は電話を切って、ベッドに仰向けになる。テーブルに堆積した雑誌や紙切れが音を立てて崩れ落ちていく音がした。
旅行か。案外パトロンの機嫌取りかもしれない。
そう思って瞼を下ろしたが、安堵には直結しなかった。
とりあえず、五千万だ。ここで失速してはこれまでの労力が報われない。
発作的に呼吸が速くなった。周りが宇宙空間になったみたいに息苦しくなった。眠れな日々が何日も続いた。市販の睡眠薬も全く効かなかった。この病の処方はサクラに会うこと、それだけだった。
サクラの住むマンションは、新宿駅の目の前だった。四十階以上あるタワーマンションで、ホテルのような外観をしている。俺は腕時計を眺め、タクシーの運転手にヘッドライトを消してもらうよう頼んだ。闇に紛れて停まっているタクシーと暖色に照らされたマンションのロビーが目と鼻の先にあった。ロビーはゆったりとしていて、床は黒く光沢がある。住人の出入りは今のところ一人もなかった。
サクラは歩いてやってくるだろうか。それともタクシーかなんなら連れも一緒かもしれない。一体、どこへ行っていたのだろうか。これは支配人にもわからないようだった。ならば、直接聞くしかあるまい。
流れていく人々に目を凝らしていると、一際色の白い女が歩いてきた。つばの広い帽子をかぶり、夜なのに目を覆うようなサングラスをしていた。俺は、金を払ってタクシーを降りた。ほとんど無意識に近かった。タクシーは何事もなかったように走り去っていく。前から歩いてくる女は、人の目を避けるように俯きがちだった。こちらには気づいていない。そして、女の手には、高そうなバッグがあり、帰国を象徴するものは何一つ身につけていない。
「ママ」
俺はそう声をかけた。俺の記憶に悉くこの女が合致しないからのようだった。やはり、一見すると別人なのである。
「どこに行っていたんだ?」
マンションの手前で声をかけられ、サクラは
俺を仰ぎ見た。目の判断がつかないが、膨れた唇が少し開いている。尖ったヒールの靴ががくりとよろけたのがわかった。
「どうして……」
サクラの口が声のないその四文字を表示した。
「困るね。そう何週間も消息を断たれたんじゃ」
「……」
「さんざん言っただろう?俺は長い時間はまたないって。それとも逃げるつもりだったのか?」
「……」
まただんまりを決め込むかと思いきや、サクラは、唇を固く結んでから、息を整えてこう
言い放った。
「あなたが、あなたが無茶なこというからじゃない」
「ほう、じゃあ、渡す気はないんだな?」
「ないものはないわ」
「のんきに旅行していてよく言えたな。心臓に毛が生えたどころじゃない、たいした度胸だ」
サクラを蔑視し、呆れたように笑った。二人の間にピリピリとした暗雲が垂れてきた。通行人は、まだ二人が立ち話をしていると思って別段気にかけもしない。
「私のことがどれだけ憎いか知らないけど、あなたの方がずっと陰湿で卑怯者よ」
サクラは肩で息をしていた。溜まった鬱憤を爆発させるような狂った勢いだった。これまでの済ました態度も我慢の限界を迎えたようだ。
「俺はお前みたい浅薄な女を知らないね。金や地位に踊らされている哀れな人形のくせに」
「私を脅迫している男に何も言われる筋合いはない!」
「脅迫?冗談言うなよ。まさかお前と俺が同等とでも言いたいのか?」
「あなたは金に狂った哀れな男よ。復讐を金
に変えて……それが正当な男のすることかしら」
「屁理屈を言うな!この虚言女!自分は何しても許されるとでも思っているのか。俺が脅迫ならお前は窃盗だろう。警察に突き出さなかっただけでもありがたいと思え!」
二人を通り過ぎたカップルが、こちらを振り向いた。男女に痴話喧嘩にしては、二人とも形振り構わず息を乱していた。俺が油断した隙に、サクラは押しのけるようにして歩き出す。俺はその腕を取った。
「待てよ。あのことが公になっていいのか?」
このまま逃げられてたまるか。もしかしたら、この何日間でサクラの肝が据わっているのは、なにか状況が変わったおそれがあるのだ。彼女が既になにもかもを放擲していたら、俺も共倒れになる。そう考えると腕を掴む指に力が入った。
「痛い!離してよ!通報されるわよ!」
サクラが手を振り解こうと暴れる。俺は、どちらかというと冷静になるよう努めたが、目は見開き、心臓は痛いほど激しく動いていた。
「通報して困るのはお前だろ。答えろ。俺から逃げるのか、逃げないのか」
「……」
「あの男を見捨てるのか?」
そう尋ねるとサクラは反射的に
「明後日」
と言葉を発した。早すぎて聞き取れないぐらいだった。
「なんだ?」
「明後日には持ってくるわ。だから離して!」
「本当だな?」
「……」
俺が指を解くと、サクラは反動で投げ出されるように体勢を崩した。そのままサクラは、ずれたサングラスとコートの襟を直して、マンションの中へ走って行った。気取ったヒールが粗雑な音を立てて遠くなる様を、俺は他人のように見送った。
時代と共にすっかり肩身の狭くなった喫煙者だが、前にいる男はいつでもどこでも煙草を咥えていた。ひとつのルーティンのように、同じ動作を見せ、彼からは著しく時間の経過を感じない。俺が分厚い銀行の封筒を差し出しても、その表情には喜びも驚きもなかった。
「もういいんですか?」
「ええ。鳥居さんには本当にお世話になりました」
俺は鳥居に最後まで慇懃に対応するつもりでいた。金額の不満あれこりよりも、鳥居との関係を早く終わらせておきたかった。
「うまくいったようですね」
「はあ、なんとかなりそうです」
鳥居はさりげなく封筒を鞄に入れた。俺の予感通りだった。金は突き返されることはなく、鳥居の懐に収まった。鳥居は早々に席を立つかと思っていたが、時間があるのか容易に腰を浮かせようとしない。
「せっかく淡海化学での実験結果をお伝えしたかったのに。とんだ徒労でしたか」
鳥居はこのことを気にしているようだった。この男が今も方々を飛び回っているとは意外だった。そんな関心を露にも見せなかったのにどうしたのだろう。今日の態度は、どこか名残惜しさを俺に訴えかけているようであった。記者として事件が有耶無耶に消化されていくことを歯痒く思ったのだろうか。
「どんな結果だったのですか?」
俺がそう訊くと待っていたとばかりに、銀行員が持つような鞄から端の折れた紙を引っ張り出した。グラフと数値が書かれている。
「お望み通りの結果ですよ」
こうなると鳥居から電話があったときに、大凡見当済みだった。
「淡海化学の開発者が言うには、ほぼRP型に間違いないそうでね、大量受注した土木事務所とは今も連絡は取れないとのことです」
鳥居の話を半分上の空で聞いていた。鳥居が誰よりも刑事の役目を果たしていた。おそらくこの事件を調べていく中で興味が出てきたのだろう。
「そうですか……それは、」
「つまり、この製品はどのように使われたのかは依然わからないということです。僕は南条さんと同じで海に消えたと思っていますがね」
そうだ、あの二ヶ月の謎だった。あれが事件の壁となっていた。遺体はどうして二ヶ月以上も発見されずに放置されたのか。いや、あれはユリの失踪から考えると二ヶ月以上は経っていたかもしれないのだ。
「僕の推察を述べましょうか?それとも、もう必要がないですか?」
鳥居は片頬を引き上げて、煙草の灰を灰皿に叩き落とした。その質問には二通りの意味がふくまれているように感じた。俺は、鳥居にひどく見下されているような気がして不快だった。この男はどうも腕は立つのだろうが、気に食わない。腹の内の黒さをあえて隠さないでいるようなサクラとは違う度胸を持った男だ。
「結構です。鳥居さんの明快な推理は、だいぶ前にお聞きしましたから。今も二言はありません」
お愛想のようで、真実だった。何度も言うようだが、この生意気な男は、頭の回転が早く、予知する能力に長けている。一記者としては、有り余るほどの頭脳の持ち主である。これも俺が鳥居を避けたいひとつの要因かもしれない。絶対かなわない相手であり、絶対に味方にならない相手。それが鳥居だった。
「あれは偶々ですよ。僕は日頃、ミステリー小説が好きで読んでいるのが功を奏したのかもしれません」
と言い、俺の社交辞令を取るとも取らないともいえない風だった。鳥居はどう見ても読書家という感じはしない。じっと座って本を読んでいる姿が想像がつかなかった。それに鳥居が自分の話を語るのは意外だった。
「お見事でしたよ。私一人ではどうすることもできませんでしたから。助かりました」
再度お礼を言った。鳥居は、ゆったりとコーヒーを啜って、
「これから猪原さんのところですか?」
と上目がちに訊いた。
「いえ、別の場所です」
「ほう、そうですか」
「いつまでも人に頼りっきりというのもいけませんからね」
「なるほど」
鳥居はやけに素直に頷いた。
「約束があるようなので、僕はこれで」
鳥居はコーヒーカップを空にしてから立ち上がった。俺は思わずため息が漏れそうなほどホッとした。
「また、面白いことがあれば聞かせてください」
鳥居は去り際にそう言った。澱んだ不穏な空気が喫茶店の鐘とともに辺りへ散っていく。俺は、腰を落ち着け、やっと一口も呑んでいないコーヒーに口をつけた。すっかり冷えたコーヒーは泥水のようにまずくなっていた。
喫茶店を出た後、一旦自宅へ引き返した。玄関には、小さく折りたたまれたボストンバックが廊下の半分を占拠している。それを通り過ぎて、用意した上等のスーツに着替えた。仕立てたばかりのスーツは、スリットが綺麗に入っていて、シルクのようになめらかな手触りだった。なぜこのような正装をするかというと、それくらい格式の高いホテルに行くからであった。猪原が出入りしているあの国際ホテルよりも、一段と値段が張る場所だった。あえてそうしたのである。これは、見栄であり、相手に対する挑発でもある。
俺は、これが最後だとは思っていない。誰かにバレない形でもっと圧力をかけるつもりでいた。引き下がることなど考えてはいない。もうお互いにそれだけの傷を負ってしまっているに違いなかった。敵であり、同志なのだ。しかし、ただの同志じゃない。はっきりとした上下関係が生まれていていて、その差はどのようにしても埋められないものである。
ボストンバックを出張用キャリーバッグに忍ばせ、タクシーで港区へ向かう。細身のスーツはなんだか自分にはちぐはぐな気がしてきて、居心地が悪い。剽軽なタクシーの運転手が何度か話しかけてきたが、寡黙に後部座席に座っていた。眩しい陽が俺の左半身を覆っている。寒そうに通り過ぎていく人々や車はどこか忙しかった。自分が孤立しているようなそんな気持ちがしてきた。流れていく雑踏と自分にはなにか見えない線があった。それはなにかを犠牲にしたことへの代償に思えてならないのである。
これから、俺はどうなっていくのか。
茫洋とした不安だった。常に俺を苦しめる不安。そこから逃げ出そうともがいても気づけば背後に存在している。
そろそろ本当に身の振り方を考えなくてはいけない。抽象的な野望をいつまでも並べていられなくなった。実現していかなくては。千載一遇のチャンスが腐ってしまう前に行動しなくては意味がないのだ。
「もしもし、斎藤か?」
階下には芝の緑が敷かれていた。苔色の池にハスの花が浮かんでいる。そのそばを小鳥が数羽じゃれあって通過した。
「いや、そうでもない。そうだな、また会えないか?近いうちがいいんだが」
俺が話しているうちに焦ったのは、部屋の電話が鳴り始めたからだった。斎藤には、その音が聞こえないらしく、会話が尽きない。
「うん、相談がある。それは、その時に言うよ。ああ、じゃあまたな」
そう言いながら、電話の前まで歩いて、そこで携帯電話を切った。
「お連れ様がお見えです」
はきはきとした男の声だった。
「部屋まで通してくれ」
「かしこまりました」
俺は受話器を切って、ソファーに座った。綽然とサクラを待ち構えるつもりだったが、内心はじれったくて仕方がなかった。サクラに待たされたのも癪だったし、この間の喧嘩のこともある。サクラの顔を見たらまた怒りが湧き上がりそうだった。うっかり手を出さないようにしなくてはいけないが、今日はいつものような鷹揚さはない。正真正銘の一対一という状況が不思議と俺を素に戻していた。
物音もなくノックが鳴った。
「どうぞ」
精一杯余裕を見せた。前と同じようにホテルマンはキャリーバッグを手に持っている。その背後のサクラは、つばの広い帽子に白いコートを着ていた。
「どうもありがとう」
と、扉を大きく引くと、影からもう一人のホテルマンが立っていた。手に重そうなボストンバックを持っている。これには少々驚いた。
「適当においてくれ」
そう指示して、二人のホテルマンは大きな荷物を入り口のテーブルの横に揃えて、深々とお辞儀をしてから帰っていく。
扉が完全に閉まってから、その二つの荷物へ向かった。相変わらず高価な格好をしたサクラを一瞥もしなかった。ボストンバッグは両手で掴んでもよろけるくらいに重かった。チャックを下ろすと、バラけないように布で丁寧に巻かれた札束が出てきた。
「私、帰ってもいい?」
後ろからサクラの低い声がした。呆れたような軽蔑するような言い方だった。
「だめだ。まだ数えていない」
俺は束になった万札を掬い上げて、テーブルに山積みにした。サクラはずっとそこに立ったまま動こうとしない。
キャリーバッグには、諭吉が整列していた。ざっと見て三千万以上ある。サクラは予め俺の魂胆を見据えていたらしく、現金はきっちり五千万用意されていた。
「金輪際私に関わらないで」
サクラを見なくてもこちらを睨んでいるのがわかった。この女はやはり、抜かりない女だ。彼女がくるりと背を向けた瞬間に、俺はもう立ち上がっていた。最初の一歩は、駈け出すように早かった。俺の目が先の尖った透明なヒールと拳ほどのふくらはぎの筋肉が捉えた。
「待てよ」
俺は引き下がらなかった。ここで引き下がる気はなかったのだ。
彼女は前のように暴れるかと思ったので、腕を軽く握った。
「なによ」
「まだ、余裕がありそうだな?」
「はあ?ないわよ!」
「切羽詰まったみたいな顔をしてるが、これ見よがしに身につけてるものは高価じゃないか」
彼女の腕を上げ、ダイヤが散りばめられた腕時計を嫌らしく眺めた。指には飴玉のようなエメラルドグリーンの指輪が光っている。それには、彼女も抵抗した。
「いい加減にしてよ!これは商売道具なのよ!」
「それは言い換えれば、見栄を張れるほどの金は余っているってことだろう?」
「まだ掠めとるつもり?離して!この人でなし!」
「否定しないってことは、嘘だったんだな?」
「屁理屈言わないで!あなたとの交渉は終わったはずよ」
「勝手なことを言うなよ。お前に散々騙された俺が同情するとでも思うか?例え、お前が身ぐるみ剥いで路頭に迷おうが俺の知ったことじゃないんだよ」
そうだ。こいつは、俺を欺いて金を奪った。俺を非難できる立場にない。今まで謝罪も詫びる様子すらなかった。卑劣な行為がなんでもない、ただの通過点にされていた。ふざけるな。こんな女がのうのうと生きていいわけがない。
サクラを押さえつけていると気分が激昂してきた。彼女が着飾っているすべてのものを排除したくなった。そしてみすぼらしい格好にしてこの言葉を上から浴びせたい。
『お前は、ミナでもサクラでもない、本山和代だ。どんなに外見を取り繕っても自分の過去は変わらない』と。
「いや!なにするの!」
二人はスイートルームでもめあった。いや、場所は関係なかった。二人の関係も立場も取り巻く環境も様変わりしていたのに、路上でもホテルでも結局、三年前に戻っていた。
俺が抵抗するサクラの指から指輪を抜き取った時、乱暴なノックが鳴った。絶対にホテルマンではない荒々しさがあった。俺はドアに目を向けた後、彼女を見下した。背の低い彼女も、突然の訪問者に目を丸くしていた。そして、全く知らないという風に首を横に振った。
心臓を掴まれたように苦しくなった。
いや、まさか……
俺は半信半疑ながらも、彼女の腕を離して、ゆっくりと扉に向かう。その時間がスローモーションに映り、心臓の鼓動に共鳴するように視界がゆらゆら揺れた。
「南条さん。いらっしゃるんでしょう?」
俺は、その場に固まった。扉まで後数センチだった。闘犬が威嚇するような太い声だった。
なにが起きたのかわからなかった。わかりたくもない。
息を乱しながら、右手を突いて丸いレンズを覗いた。俺は卒倒しそうになった。頭が真っ白になっていく。足のつま先から凍っていくように血の気が引いた。その小さなレンズに険しい表情の二人の男が並んで立っている。その手には、白い紙が広げられていた。




