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自殺した女  作者: m
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 花金。赤坂にある高層ビルの最上階に来ていた。ここは昼間だとビュッフェが中心で、夜になると青っぽい照明と最高の夜景を眺めながら贅沢なディナーが楽しめる。店内には湾曲した水槽が置いてあり、魚たちがゆったりと泳いでいる。客の年齢層は様々だが、やはりカップルが多かった。

「こんなところよく紹介するな」

 定番のセリフで冷やかした。何度か引き返そうと言ったが、斎藤は従わなかった。堂々とメニューを開いて年代物のワインなんぞ注文している。この店には、前に来たことがあるらしく、景色の感想も関心もそれほどないようだった。それが気障であり、どこか羨ましくもある。

「どうだ、探偵ごっこは?」

 斎藤は小さな牛フィレ肉をさらに小さくナイフで切り分けている。そばには赤ワインが波打っていた。俺はというと、白身魚を突いていた。どんな粗を探そうかと思いきや、どの料理も美味しかった。斎藤の紹介する店はこれだから悔しくなる。

「まあね」

「調子が良いようだな」

 斎藤という男はたまに俺の感情を見破ることがある。付き合いが長いからちょっとしたことで伝わってしまうのかもしれない。

「謝礼のことなら心配するな」

「あれは冗談だよ」

「じゃあ、俺のも冗談にしてくれ……なあ」

「なんだよ」

「あの記者いただろう」

「鳥居か?」

「ああ。鳥居……」

 あのハイエナの名前だ。名刺をもらったが、下の名前は忘れた。帝都出版社の記者をしている。

「そいつに金を要求されたよ」

「それはメールでも散々聞いたよ。驚いたな」

「それも三本だ。破格だよ。一体どうなってんだか」

 俺は手前のワイングラスに手を伸ばした。

「意外だが、金よりも価値なんじゃないか?それだけの交渉だと素人のお前に示すためかもな」

「他人事だと思って」

「返す手立てがあるから承諾したんだろ」

「それはそうだが……あんなの博打だ。どう転がるか……」

「お前が多額の負債者になっても、飯ぐらいはおごってやるよ」

 と、斎藤は、相変わらず無邪気に笑う。

「そういう簡単な問題じゃ……」

「じゃあ、どういう問題なんだ?」

「それは……事が終わってから話すよ」

 なんとなく斎藤には全てを打ち明けることはできなかった。何もかも解決してから後日談として話したかったし、その方が気が楽だった。

「絶対だな?」

「ああ、絶対だ。斎藤には感謝しているからな」

「とってつけたような水くさいセリフだな」

「これが俺の不器用さだ」

 互いに笑い合った。バーテンのような格好をした店員がデザートを運んできた。

「案外その交渉金も冗談かもな。度胸試しに釘を打ったのかもしれない」

「俺はそれだけ舐められているのか」

「そうじゃない。そういう男なんだよ。警戒心は人一倍強い」

 再び鳥居の様子を蘇らせた。煤けたコートにヨレヨレのスーツ。それほど肥えてはいないが、頬のあたりに酒飲みのなような浮腫があった。声も肌も若々しさがない。鳥居と会ったのは、まだ二回ほどしかないが、いつもあの浮浪者スタイルを維持しているようだった。しかし、本当はブランド服をごっそり買えるし、もう既に何千着も持っていそうな男なのである。このことを頭の隅に置いていても、俺の結論は一つだった。鳥居が、『冗談ですよ』と笑って俺の金をつき返す姿は到底想像できない。そんな愛想と情けは彼にない。鳥居とは、猪原と違ってこの一件が終わったら、すぐにでも関係を断ち切りたい人間だった。第一、あの男は、何を考えているかわからない。死んだ魚の目に不気味な笑い方。気が抜けているようで何かを狙っているようなあの目つき……何かを企んでる気がして薄ら寒い。

「人を金銭の仲介役にするのだけはやめてくれよ」

 斎藤はしっかりと予防線を張った。矛盾を咎めようとしたが、鳥居がそれだけ予測不可能な人間であることは俺にもだいたいわかっていたので口を噤んだ。

「わかってる」

「で?ことが終わるのはいつになるんだ?」

「もうすぐ、だ。長引きはしない」

「その時、お前はどうなる?」

「……さあ」

 なにも決めていない。見切り発車がここまでの展開になるとは思いもよらなかったからだ。そしてそのような行動力が自分にあるとも思わなかった。

 全ては金だった。

 金の力がそうさせた。

 そう、金が手に入らなければ何もかも水の泡だ。それも何百万じゃ足りない。もっと、もっとあの女からは請求できる。その手立てが俺にはあるじゃないか。これからは、弱腰ではいけない。

「とりあえず、なんちゃらパーティーには行こうかな。猪原さんとも仲良くなったし」

「そうか。流石だな」

「なにがだ?」

「猪原さんはお前みたいな出不精も変えてしまうんだな」

 斎藤の笑い声がひどく乾いて聞こえた。店内には平和なしっとりとしたジャズが流れている。俺は、早く胸の内を斎藤に聞いてもらいたくなった。



 小料理屋の個室に男二人が向かい合って座っていた。座敷は、六人は所用できる広さがあったが、二人の他に連れもないようだ。髪の縮れた若い男が、もう一人の男に酌をとっている。

「先生、いつから日本酒を好まれるようになったんですか?」

「うん、この前、秋田に行った時だよ。東北はいいね。市内は、一面銀世界だったよ」

 先生と呼ばれた男は、三十代くらいだった。全身黒っぽい服装をしているからか、もともと痩躯な体が余計に細く見えた。猫背で黒縁のレンズの大きな眼鏡をかけている。先生というほど老けてはいないし、堅物そうな陰気もなく垢抜けていた。

「はあ、秋田が次の舞台ですか」

「断定はできないよ」

「なんでも、ミステリーを書くそうじゃないですか」

 若い男の表情は、好奇心に満ちていた。ずっと学生のような問いかけをしている彼だが、正座を崩さず、背筋は綺麗に伸びていた。気遣いも所作もなかなかのものがあった。良家に育ったように躾がいいのである。

「ああ、あの記事か」

「これは世間も驚いたでしょう」

「違うよ、鳥居くん。あのインタビューでは、冗談のつもりで言ったんだが、変に大きくなっていてこっちも困っているんだ」

 と言ったが、男はそれほど困惑していなかった。少し照れくさそうに笑っている。

「それで訂正するわけにもいかなくなってね。現代はなんでもかんでも大ニュースになってややこしいね」

「マスコミが、先生ほどの人気作家をほっとくわけにもいきませんよ。今回は、先生のファンも楽しみにしているでしょうが、私も楽しみにしているんです」

「これ以上プレッシャーをかけないで欲しいね」

「僕は、本当に驚いたんです。先生に関することはなんでも把握していると自負してきましたが、昔からミステリーを好んでおられたとは」

「ははは、そりゃどんなジャンルも好きで読むさ。特に推理やミステリーなんて純文学を読むよりも受け入れやすいじゃないか。子供の頃は名だたるミステリー作家の本を読破したよ」

「では、今まで温存していたのですね?」

「いい表現をするね。だけど、そうじゃないんだよ。思入れが強すぎると恐縮してしまうことだってあるだろう?」

「はあ」

「憧れの対象が明白だとそれにどうにか近づきたくなるんだ。しかし、それは不可能。それもそのはずで、憧れは時代を象徴する偉人であり、自分はどんなに頑張っても足元にも及ばない。だから、完璧なものを完成させようと焦ってしまう。これまでもミステリーを書いたことはあったけど何十作ボツにしたかわからないね」

「では、あの発言は、先生にとっての挑戦ということですか?」

「ああ。作家というのは、売れてからが本当の勝負だね。たった一度の身の振り方で、世間の見方が決まる。ここに客商売の怖さがあるよ」

 鳥居には、男に不安や迷いはないように見えた。男からは自信と意欲が滲み出ていた。作家は自信家が多い。自分の作品が一番だと思っている節がある。なぜそう言い切れるかというと、絶賛の評価がこの世界にはないからだろう。自分の作品に誇りがなくては、物語に勢いがなくなる。作品は作家の鏡であり、創作にはナルシズムが深く関係しているということを、数々の作家を見てきた鳥居は心得ていた。

「これが人生の分岐になると思っているよ」

「先生」

 鳥居は膝の位置を正した。男が何度正座を崩すように言っても聞かないのである。

「ん?」

「秋田もいいですが、北陸の冬も綺麗ですよ」

 それは、たった今思い出したかのような口ぶりだった。

「北陸ねぇ、ほとんど行ったことがないな」

「そうですか。この時期が一番雪が降るそうですよ」

「鳥居くん、やけに詳しいな。まさか、もう例の新幹線に乗ったの?」

「はい。帰りだけですが」

「帰りだけ?」

「行きは名古屋を経由したんです」

「名古屋?それじゃあ、遠回りじゃないの?君が行ったのは金沢だろう?」

「福井ですよ。それも田舎のほうです。車窓からは、雪の積もった田畑に鷺が停まっていたり、深い藍色の海も見れました」

「へぇ、君もいろんなところに取材に行くもんだね」

「ええ。福井の日本酒も美味しいそうですよ」

「まあ、水が綺麗だろうから上手いだろうねぇ……」

 男は福井のイメージを掘り起こしているであろう顔つきだったが、ふと鳥居を神妙に眺めた。

「なんです?」

「なにか面白そうなことがあったんだね」

「どうしてですか?」

「顔に書いてあるよ。なんだね?間違っても作品のネタにはしないよ」

「いえ、なにも面白くはないですよ。僕はただ、北陸を一度お勧めしてみただけです。北陸というのは新鮮でしょう?」

「確かにそう言われると行ってみたくなるなぁ。実はまだ構成段階なんだよ。今回は一層気合が入ったものを作りたいから時間は惜しまないつもりなんだ」

「それは、ますますどんな作品になるか楽しみです」

 鳥居は強調して言った。男は満足気であった。


 それから一時間も話して、個室を出た。代金は暁が立て替えている。暁という男は、いつも鳥居に謙遜させる隙を与えなかった。連日、名だたる文化人の会合を重ねているだけある。こちらも鳥居と同じく『取材』のために密かな交流を持っている。鳥居も詳しいことは知らない。

 鳥居が暁の後ろに立ち、細長い廊下を歩いていた。もう玄関先に呼びつけたタクシーが待機しているはずである。ここは古民家を改装していて、いくつかの廊下が先で折れて、迷路みたいに続いている。どこからか酔っ払いの喧騒とお囃子が聞こえてきた。ここだけ時代が違うようだった。こういうところには、それなりの人物が出入りしている。鳥居が故意にキョロキョロしていたからか、中庭の向こうに二人の客を見つけた。一人は着物姿の女で、一人はスーツを着た若い男だった。鳥居の足は完全に止まった。庭の立派な松が邪魔で、顔がよく見えない。身長百七十の鳥居が背伸びしてやっと二人がこそこそ話している様子がわかった。女の顔はやけに白い。髪や着物の感じがどこかで着付けた直後のように映った。そばにいる背の高い男は横顔しか見えないが、男から見てもなかなかの好男子だった。二人は、寄り添って密談している。

「鳥居くん」

 気づけば、暁がこちらを振り向いていた。

「すいません」

「職業病というやつか」

 暁にも鳥居の視線をたどって、二人の姿が見えたらしい。暁は鳥居のそばまで引き返してきた。暁の頬は酒に酔ってほんのり赤く染まっている。

「ある政治家に似ていたもので」

「ほう」

 暁は目を細めて興味を見せた。

「君の知った顔か?」

「いいえ、勘違いでしょう」

「隣の女はクラブのママか」

 暁は観察するようにそう言った。二人は、こちらの視線に気づくことなく別れた。女は、腰を低くして座敷に入ったが、男は廊下を歩いて行った。鳥居が怪しまれないよう向き直っても暁は動こうとしなかった。

「あの座敷に誰がいるんだろうね」

「さあ……」

「さっきの男の名前は?まさか君がその線を見誤ることはないだろう」

「いや、本当に知らないんですよ」

「そう」

 鳥居が申し訳なさそうにすると、暁は仕方なく廊下を歩き始めた。女の入った座敷を横目で一瞥しながら、鳥居は小料理屋を出た。路肩にタクシーが停まっている。退屈そうにしていた運転手が一瞬にして愛想を振りまいた。

「今日はどうもありがとうございました」

「君、乗らないの?」

「僕は歩きますから」

「そう」

 鳥居はタクシーの後部座席を覗きながら、何度か頭を下げた。そして、ホテルマンのように姿勢良くタクシーを見送った。タクシーが闇に溶け込むと鳥居は、踵を巡らして小料理屋へ戻った。これには、たまたま玄関先に出ていた女将が、怪訝そうな顔をしている。

「お忘れ物ですか?」

「いや、ちょっと女将さんに用があって」

 さっきまで阿諛追従していた鳥居の顔からは、柔和な笑顔がなくなっていた。



 最近、泥水を啜り、砂利を噛むような仕事がバカらしくなってきた。昨夜の俺と今日の俺では辻褄が合わないくらい矛盾している。一人で二人分の人生を生きているような、そんな気分になる。この部屋はいつ来ても静かだった。なにもかもが新鮮で新品に見えた。人がいた気配すら感じないのだ。

 今朝から小雨が降った。車がいつも通り渋滞を作っている。ロビーからの連絡は、予定よりも三十分は過ぎていた。俺は、サクラが逃げたのかとゆっくり座っていられなかった。サクラがこの部屋に来るまで広いリビングを何度往復したかわからない。

 ホテルマンがキャリーバッグを持って入ってきた。閊えるように喉がゴクリと鳴った。サクラは旅行にでも行くような身軽な格好だった。トレンチコートにスキニー、ヒールの低い靴を履いていたが、それどれもがブランドものだとわかった。バッグは無論、高級車一台は買える皮革製のものだ。ホテルマンが、キャリーバッグを部屋の奥まで運ぼうとしたので慌てて断った。


「いくら入ってる?」

 ホテルマンを帰して、扉が閉まった後に尋ねた。

「開ければわかるでしょう」

 サクラは俺と目を合わせなかった。その場で佇立している辺り、なんだか疑わしくなった。

「鍵をかけていないのか?」

 キャリーバッグをソファーの前まで引っ張った。思ったほど重くはなかった。

「そうよ」

 ぶっきら棒なサクラをほっといて、留め具を外し、テーブルに横たえて手荒に中を開いた。俺の目に諭吉の束が見切れる。

 いくらだ、いくらある……

 万札の束はバッグにぎっしり詰められていたわけではなかった。それに俺が粗雑に中身を揺らしたので、札束は乱れていた。偽物みたいだった。こんな大金を目にしたことは当然ない。生の札束だ。身震いしながら、万札と繰り、光にかざした。

 思ったよりも……少ない。

 俺は我に返って、ずっと立っているサクラを見た。

「それが限界だわ」

「たりないな」

 ここでも部屋の上品な雰囲気が俺の叫びたい衝動を抑制していた。体温は上がっているが、悠然とタバコでもふかしたい気分にさせた。

「あれだけのパトロンがいて、銀座の店も繁盛していて、千五百万万?馬鹿げているな」

「店はああ見えて火の車で、いくらあっても足りないくらいよ」

「本当に嘘がうまいな。俺を一年も騙していただけはある」

「……」

「金にあれだけの執着があったら、相当貯め込んでいるに決まっている」

「開店の資金で消えたわ。店の運営費や人件費だけじゃない、自分の衣装にだってお金がかかる。嘘じゃない」

 人形みたいな女が声を上げている。外見と声がちぐはぐだった。俺の胸にこの女をもっと揶揄したい感情が起こった。先に断っておくと、少年が好きな女の子を虐めてしまうような生ぬるいものではない。この女が嫌うであろう、高いところから罵り軽蔑な目をたっぷり浴びせてから、厳重な懲罰を下したいのだ。

 泣こうが喚こうが、例え、天地がひっくり返ってもこの女には同情しない。

「五千万だ。いいな?」

「……」

 勿論、五千万では済まないと思っている。あっちが虚言のプロならこっちは堂々と嘘を吐いてやる。結果的に身包み剥がすまで搾取して、用済みになれば捨てるだけだ。

 サクラは返事をしない。よく見ると拳を握りしめていた。昔の男に散々な扱いをされて、悔しいのだろう。泣かないところを見るとプライドの高さは健在らしい。もう二度と逢着しない問題とタカを括っていた女は、すぐそばで弱々しく立っている。なんだか可笑しくなってきた。

「金を渡せば、あのことはバラさないのね?」

「当たり前のことを聞くな。全部チャラにする。どこにも漏らすものか」

 俺の切り札だぞ、という言葉を飲み込んだ。この女が若い男に熱を上げているように、俺もサクラの背後にある金に入れ込んでいるのだ。今の俺には、サクラも本山和代も視野にない。あるのは、復讐よりも金だった。

「今日みたいなことは無しにしろよ」

 金を置いて去っていくサクラに念を押した。サクラは振り向かなかった。次会うときは『ミナ』のように地味な格好でくるだろうか。あの頃に感じていた可愛らしさ、素朴さはもう取り返せないだろう。普通、には帰れない女なのだ。彼女はその道でしか生きられないことを、大きすぎる過失を負ったことをこれから知らさせるのかもしれなかった。考えれば考えるほど、馬鹿に付ける薬はないと気づかされる。これは彼女にとって正当な罰だ。そして、俺への償いでもある。

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