3
ミナ、本名、本山和代と出会ったのは、四年前の五月だった。知人に連れられ、池袋のガールズバーを訪れた。その時は、何件か居酒屋をハシゴしていて、記憶が曖昧だったが、ミナという二十代くらいの従業員がしきりと俺を褒めた。
「本当に彼女はいないんですか?なんか信じられないなあ」
「いやいや、お二人ともモテそうですよー」
最初は、お世辞と聞き流していたが、その日は気分が良かった。なんというか上質な酒が飲めた気がした。プライベートでもこのような感覚は久しぶりだった。それがなぜかは自分にも不明瞭だった。
「こいつ、女には奥手なんですよ。こう見えて、昔はモテまくりで、ファンクラブなんかあってね……」
「へぇ、すごい!」
「やめろよ」
と言いながら、口角は上がっている。
「そういう人ってほんとにいるんですね!」
「そうなんだよ。それが今じゃこの廃れっぷり。泣けてくるわ」
「いい加減にしろよ」
ミナは楽しそうに笑っていた。俺に流れてくる瞳にはどこか熱っぽさがあった。自分の勘違いかもしれないが。
その日は知人とともに帰宅したが、バーの雰囲気が妙に気に入ったので、一週間後には、再び顔を見せた。ここで言い訳をするわけじゃないが、決して下心はなかった。それからマスターともミナ以外の従業員とも顔見知りになり、その過程で、ミナがこっそり手紙を渡してきた。通い始めて一ヶ月は経っていた。
「いらなかったら捨ててください」
彼女は謙虚にそう添えた。俺は断る理由もなく承諾した。自覚はなかったが、心のどこかでこういう展開を予期していたらしかった。彼女は、背も小さく外見もやや幼いが、可愛げがある。なにより人恋しかった。この軽い選択がのちの仇となるとは思いもよらない。
彼女の希望で付き合ってすぐに同棲が始まった。彼女が俺の部屋に転がり込んできたのだ。理由は、元彼と同棲を解消されて住むところがないためだ。なんだかいいように使われた気にならないでもなかったが、同棲というのはなかなかいい響きだった。仕事から帰れば誰かがいる。そんな安心感を望む年齢だった。今思えば彼女は自分の家を持たず、男の家を転々としていたのだろう。面皮が剥がれるのが早い女のことだ。元彼に追い出されたのだって今では自業自得だと思える。おそらく、彼女は上京した時から男の世話になり、それからの流れであちこち住居を変えていたのだろう。そうすれば、タダで飯が食え、寝床はあり、風呂も使える。そうすると稼ぎは全額貯金できるのだ。吝嗇な彼女のことだから、この生活を安易にやめられなかったらしい。
もちろん、付き合いたての頃はそんな彼女の思惑など知りえない。彼女も働いているのだから、同棲も一時的だと考えていたのだ。なにせワンルームに二人は狭い。そういうカップルはいることはいるが、それを何年も続ける気はなかった。
彼女は家事全般をよく熟した。特に掃除は念入りにしていたし、料理は肉よりも魚や野菜メインだったが、まあまあ美味しかった。しかし、三ヶ月後、彼女の帰宅時間がまばらになった。バーの仕事は日が暮れた頃に出かけ、深夜に帰宅し、休日は不定期だ。それでもだいたいの勤務周期は把握できる。それがずれ始めていた。というより、殆ど入れ違いだった彼女が部屋にいることが多くなった。そこで、俺はある日、テレビに向かいながら尋ねてみた。
「仕事辞めたの?」
彼女と付き合い出してから、バーには行きにくくなったので行っていなかった。
「うん」
彼女はこれしか言わなかった。それから彼女は、遠回しに金をせがんでくるようになる。プレゼントを強請り、金を貸して欲しいとせがんだ。始めは冗談かとやんわり断っていたが、あまりにしつこくてうんざりした。一ヶ月も過ぎると別れを考えるようになり、離婚間際の夫婦のように何ヶ月か冷たい空気を引きずってやっと交際半年で別れることができた。というか、相手が姿を消しただけなのだが。これまで何回も別れを匂わせてきたが、彼女はその度に情緒不安定になり、時に泣き喚く。物にあたり、金切り声で叫んだこともあった。別れるまでには紆余曲折あり、苦労したのだ。
そして、やっと出て行ったと思ったら、部屋から現金がなくなっていた。普段は、部屋に現金を置かないが、その時はたまたま部屋に置いて仕事に出かけていた。しまった場所は、クローゼットのタンスの下である。ちゃんと前夜、彼女が風呂に入っていた時に隠したから、見つからないと思っていた。どうやってカネの匂いを嗅ぎつけたのか。これが彼女の才能なのか、それとも運が良かっただけなのか。どちらにしろ、これは窃盗である。警察に通報してもいいが、事情が事情だし、金額も大金ではないためやめておいた。五万円は示談金だ。いや、それでも納得はいかない。散々人の世話になっておいて、示談金など渡す必要がないのだ。五万円以上のものを彼女にむしり取られ上に泥棒などどんな薄汚い根性をした女なのか。これが小狡い男だったら彼女はとっくにムショに入ってたかもしれない。
というわけで、半年で彼女と別れてから、彼女を記憶から消した。俺にとって汚点にしか過ぎない。人生の教訓にするにも値しない、忌々しい女だ。もし、再び彼女が目の前に現れても、金の請求なんかするものか。一生、俺の前に現れるな!と暴言でも吐いてやろう。そう思っていた。
そう思っていたのだが、どうしたことか誰よりも憎い彼女を追っている。謎めいた迷路に吸い寄せられ、俺の意識は徐々に変化していった。
会社をそう何度も休むわけにもいかない。そんなに融通の利く会社ではなかった。有給はあってないようなもの。酷使されるだけのサラリーマンは、真冬の最中、営業の仕事に精を出した。
午後七時。今日は接待も社員との飲み会もない。まっすぐ帰る気もしないため、ふらりと駅構内にある本屋に立ち寄った。一瞬、頭の片隅に斎藤の顔を掠めたが、小説コーナーには見向きもしなかった。
本屋の入り口には、ファッション誌が並んでいる。派手なヘアアクセサリーをつけ、スカートを最大限捲し上げた女子高生達が立ち読みしていた。何気なくその背後を通った時、ある雑誌が目にとまった。分厚いメイクをして、髪の毛をぐりんぐりんに巻いた女が三人肩を寄せ合っている。
そういや、キャバ雑誌というものがあったな。
しかも、二十代後半向けのキャバ雑誌がある。最近の雑誌は多種多様でどこに需要があるかわからない。あやうく女子高生に割って入り、立ち読みしそうになったが、当然三十の男が読む雑誌ではない。気にかけないふりをして、興味のない競馬や釣り、バイクの雑誌コーナーに立った。頭からキンキラキンの表紙が離れない。繁盛していない本屋やコンピニなら人目を気にせず読むことができる。無論、あんな恥ずかしい雑誌を買うわけにはいかない。一度にエロ本を大量に買うよりハードルが高いのである。
仕方ない。深夜に近所のコンビニでも行くか。
漫画コーナーを数分覗いてから、マンションへと帰った。
ああいう雑誌では高級クラブのホステスは登場しないだろう。それに現役嬢も少ないんじゃないか。
車も疎らな夜道を歩きながら徒労の懸念が起こった。それにしても頬を針で突かれたような寒さだった。風が吹くたびに、顔を背けたくなる。徒歩五分が果てしなく遠かった。コンビニの明かりがガラ空きの駐車場を照らしている。店内には客一人見えなかった。
自動ドアをくぐると生き返ったようになった。レジには年配の男性
店員しかいない。他の商品棚には目もくれず、手前で左折した。目当ての雑誌はすぐに見つかった。
キャバ雑誌……あった。
迷わず手にとって、パラパラめくった。一枚一枚がやたら分厚いし、色彩がしっちゃかめっちゃかで目がチカチカしてきた。
雑誌は中盤を過ぎ、終盤へ。こう素早くページを捲っていると見事に全員同じ顔に見えてくる。メイクも髪の毛も盛りすぎて個性そのものがない。
彼女は普段から化粧が薄かった。童顔だから化粧を濃くすると浮いてしまうのだと言っていた記憶があるようなないような。どんな女でもメザイクにカラコンに極太アイラインじゃ見分けがつかないだろう。仕上がりが整形したと同じなのだから。
ふと手が止まった。スナップ写真だった。新宿かどこかの路上で、女がモデル風にポーズを決めている。白のコートに赤いピンヒール
。それでも身長は低い。顔や体つきというより立ち姿に見覚えがあった。これは虚しい思い込みだろうか。俺の知っているミナはもっと脂肪がのっていて、低く小さな鼻をしていた。
もしかすると……
「整形か?」
過去と決別するために。
(サクラ・東京都・25歳)
雑誌の女はサクラ、という。ご丁寧に店の住所も載っている。一度会ってみてもいいような気がした。いくら整形したとはいえ、会えば本人かどうか判断できる。この女の声を聞ければそれだけいいのだ。美容整形では声帯の手術も可能らしいが、瞼切開ほど浸透していないし、歴史も浅い。どれだけ声にコンプレックスがあっても声帯をいじるのには男でも躊躇する。加えて、仕草や話し方など身近で見ていただけに雰囲気で察しがつくだろう。
よし。
キャバ雑誌を閉じて、また寒い中マンションへ引き返した。その日は心臓の鼓動が激しく、一睡もできなかった。
新宿のキャバクラなら仕事の付き合いでたまに入る。値段の相場もだいたい頭にあった。なにもそのキャバクラに通うつもりはない。立ち寄る程度だ。
雑誌の女が和代だったとして、そこからどう突くかはもう決めてある。これからさらに真相に迫ってやる。これは単なる仕返しではない。
『chaconne』
それが店の名前だった。
店内には燕脂色の絨毯に紫っぽい間接照明が置かれ、モダンな造りだった。俺はさっそくボーイに『サクラ』を呼んでくるよう頼んだ。するとボーイは申し訳なさそうに、
「サクラさんはもうここをお辞めになりました」
と言った。
「え、いつ?」
驚きで声が裏返った。雑誌は今月号だから、つい最近までは勤めていたはずだ。
「ほんの一週間前です」
ボーイは困ったように声を弱めた。なんというタイミングなのだろう。まるで俺の追跡を避けるかのようだった。
「なんで辞めたんだ?」
「はあ、新しくお店を出すとかで」
「店?……この店のママはいる?」
「本日は用事があって出かけております」
「じゃあ、適当に女の子を呼んでくれ」
「はい。少々お待ちを」
ボーイはお辞儀をして下がった。せっかく来たのだから、あらゆる情報は得ておいて損はない。ママよりも従業員の方がサクラの素性を訊きやすいだろう。
しばらくして、丈の短いドレスを着た若い女の子が二人やってきた。どちらも髪の色が違うだけで
似たようなメイクをしている。甘い香水が顔の前を漂った。
「初めまして。ミサです」
「エリカって言います」
正直自己紹介などどうでもよかった。ミサといった女に詰め寄った。
「ここにサクラという嬢がいただろう?その娘はどこへいったんだ?」
「やだ、お客さんったら唐突に。雑誌かなんかで見たんですか?サクラなら銀座ですよ銀座」
「銀座?」
「銀座に自分のお店を出したんですよ。例のパトロンから相当な出資があったんでしょうねえ」
エリカは皮肉そうに言った。
「こら、喋りすぎよ」
「だって羨ましいじゃない。私も銀座でママになりたいわ」
「なに、その例のパトロンって?」
口の緩そうなエリカに尋ねた。
「それは言えないわ。でも、お客さんが聞いたらひっくり返るぐらいすごい人よ」
「そんな大物か。ジャンル、も言えないんだね?」
「ええ」
「わかった。じゃあ、彼女について教えてくれ」
「もちろん。その前に、お酒、頼んでもいいですか?」
エリカは微笑んでメニューを渡す。くっきりした二重の線が、ファンデーションの濃さを歴然と表していた。
そうだ。ここはガールズバーじゃない、キャバクラだった。
「ああ、いいよ」
と答えたが、他の焦燥が俺の肩へ
のしかかってきた。
「お客さんは、どうしてサクラに会いたいんですか?」
ミサはゆっくりとした動作で、グラスに氷を落としながら訊いた。
「ああ、知り合いに似ているんだ」
「いつの知り合いですか?」
「結構前かな」
何というべきか迷って言葉を濁した。
「じゃあ、人違いでしょう」
エリカは俺の腕に絡んできた。この女はずっと馴れ馴れしい。その手法はドスケベオヤジ共には通用するだろうが、俺には不快だ。
「どういう意味だ?」
「お客さんはオトコだから鈍いだけ」
「そうか。整形していると言いたいんだな。それも一箇所や二箇所じゃない。そうだろ?」
「あら、鋭い」
「それくらいわかるさ。俺には君の目もそう見えるよ」
一度整形した女は、傷跡を隠すためにメイクが濃くなっていく。美人になるために整形したはずなのに、メイクには一層手が抜けなくなるのだ。整形女には、一生そういう不安要素がまとわりつく。
「えーっ!ひどーい。あたしは天然モノなのに……」
「悪かったよ」
「それじゃあ、サクラに好意があるわけじゃないんですね」
「そう、あくまでも知人だ」
「きっとサクラに何かされた復讐よ」
「なんでそう思う?」
「女の勘よ。違う?」
「ハズレだね」
復讐だなんて考えちゃいない。俺にはもうあの女の姿は見えていないのだ。
「気をつけてくださいね」
ミサの水みたいな声が耳に入ってきた。
「え?」
「ほら、なにがあるかわからないから……」
「……君たちは今でもサクラと連絡をとっているのか?」
「まさか。あの嘘つき女。辞めてせいせいしたわ。手グセも悪いのよ」
「エリカ。お客さんに愚痴ってどうするの?」
「いいんだ。客だと思われない方が居心地がいいときだってある」
「素敵ね。じゃあ、もうひとつサクラことを話すわ。お客さんは知らないとは思うけど……」
「なんだ?」
「サクラの情報なら案外ネットに転がっているわよ。あちこち雑誌に出ているし、あんなこともあったし」
「ほう」
「それ以上は内緒ね」
えらく勿体振る女だ。水商売に長らく浸っていそうなだけはある。
「ふん、まあいいか。そんなに有名人なんだな」
「それも夜の世界だけですよ。ネットでは、狭いコミュニティーが共有されることが多いですからね」
「そのほうがアンチが燃えるのよ。あ、アタシはそんな姑息なマネはしないけどっ」
「確かにね」
この世にはネット上の支持だけで飯を食ってる輩が存在する。そんな法の目を掻い潜って小銭をかき集めているような人間を羨望したりしないが、救いようのない無職やニートには嘸かしスーパースターだろう。憧れであり、憎悪の対象である。俺の見えないところで、いや、見えなくて大いに構わないが、こういう人間が次々に生まれてはネット住民にだけ浸透していっている。
「ぜひ今日を機会に贔屓して欲しいわ」
「そうだな。また来るよ」
この言葉は存外社交辞令じゃないかもしれない。彼女たちと懇意になれば、もっと口を割って話すだろう。他では知りえない情報を隠し持っているかもしれない。しかし、薄給のサラリーマンがそう何度もキャバクラに来るわけにはいかない。その後も出来るだけ粘って、変に問い詰めたりしないように注意しながら、どことなく思いついた探り入れた。
店を出たのは、零時過ぎだった。こつこつ貯めた金が一瞬にして、数字となって消失した。カードの残高を確認しただけで嫌になった。これから近いうちにサクラの経営する店に行かなくてはならない。それも銀座だ。いくら取られるかわからない。今までギャンブルも女遊びもしてこなかったから、腹をくくっていたとはいえ胸に打撃を受けた。
だが、こうなってくると後には引けない。さっき得た情報を頼りにどこまでも調べ尽くしてやる。今のまま、あの店に乗り込んだのでは、少々弱いところがある。入念な準備が必要だ。素人でもできるだけのことはやってやろう。そう決心がつくと鳩尾の辺りから新たな熱が滾ってきた。




