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自殺した女  作者: m
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 その日は頗る体調が悪かった。クソみたいな上司と大事な大事な取引先との接待だったからだ。今日もあまり酒の強くない俺に対し、『訓練』という名のアルコールを人一倍飲まされた。ビールに焼酎、日本酒、そしてウィスキー……思い出すだけで胃液が上がってきた。体に灯った熱と視界が回転するような眩暈の余韻がなかなか消えていかない。上司も先方も無類の酒好きで、怪物並みにアルコールに強い。上司に至っては、いくら飲んでも頬すら赤くならない。たぶん超越者というか、最早人間ではないのかもしれない。それぐらい酒を浴びるようにがぶ飲みする。更に俺よりも二十以上年が離れているとは思えないほどバイタリティ溢れている。俺の同世代よりもよく動くし、よく遊んでいる。その原動力は時代や年齢なんかではなく、個人の器量が関係しているのだろう。仕事に全力を注ぎ、欲のためなら金の糸目もつけない。仕事で着実な業績を上げなければ、このような考えに達してもこうはいくまい。仕事には、何事も適性と実力が求められる。俺にはそのどちらともなかった。社会に放たれてから、歳月をかけて下流を下っていき、流れ着いたのが今の仕事だったに過ぎない。気づけば、三十路。夢も希望もどこかに消えていった。その目指した展望も至極現実的な定位置に置いていただけに虚しさが大きい。男は仕事で人生が決まる。現段階では、転職も起業も考えていない。だいたい俺のような薄給のサラリーマンが夢ばかり見ていると周りから嘲笑されるはめになるだろう。かといって、ここで骨を埋める気はない。いつか……最後の転職をしよう。まだ三十だ。チャンスはある。そう自分を鼓舞することが、仕事への原動力となっていた。


 接待は終電前に終わった。それからは脇目もふらずにマンションへ向かう。途中、何度も胃液が喉の辺りまでこみ上げた。喉の粘膜が溶けて炙ったような痛みがするし、胸がムカムカする。こういう外での緊張感がある場合、多少抑えがきくのを知っているから、大変なのは帰宅してからだろう。安堵とともにフローリングが嘔吐物まみれになる。制御できないのだ。『吐く』という行為は、死を連想させ、同時に得体の知れないものが憑依したように体が勝手に振動してくる。それがなんとも奇妙で、自分を俯瞰から眺めているような感覚に陥るのだ。

 これで明日の朝、クソ上司から電話があったら……

 まるでホラーだ。呻くような寒気が背中を走る。覚束ない足取りで懸命に足を動かし、自室に逃げ込んだ。一目散に皮靴を脱いで入るのは、玄関横のトイレだ。頭が鶏みたいに前後に振れる。胃液が喉を通り、鼻腔や目の粘膜に広がるほど湧き上がってきた。


 そこから、何分たったかはわからないが、便座に突っ伏したまま動かないでいた。というか、全身がだるくて動けなかった。ワンルームだからベッドまでの距離もたかが知れている。まだ鎧みたいな黒のロングコートも脱いでいない。それにしても、このコート、こんなに重たかっただろうか。雨に打たれたわけでもないのに。すっかりコートの中は、ちょうどいい温かさになっていた。

 このまま寝てもいい……か。

 そう感じた時、目がさめるくらい大音量のインタホーンが鳴った。俺はピクリと右肩が浮いただけで、末期患者のように便座にうなだれた。霞んだ視界には、オレンジ色の壁がぼんやりと映っている。

「はあ?こんな時間に……」

 誰だろう。このマンションはオートロックだからおそらく訪問者は一階のロビーにいる。生憎カメラは付いていないので、受話器から

 相手の声を聞いて、誰が来たか判断するかたちだ。もし、今、ドアの前にいるのならノックするだろうし、なにしろドアの向こうに人の気配がないからだ。知り合いだろうか。にしても、この時間に訪ねてくることはない。なら、一体……誰なのか。時刻は、たぶん

 零時を過ぎた辺りだろう。

「そっちのホラーかよ……」

 俺は、ぶつぶつとつぶやいていたが、だんだん訪問者の無礼さに怒り立ってきた。どうせ、駅前のパチンコ屋に入り浸っているチンピラだろう。悪戯ならもう少しマシなことをしろ。怒りをぶちまけてから受話器を叩きつけてもいいかもしれない。ここはオートロックだ。訪問者が逆上しようとも入れないし、その時は、警察に連絡するだけだ……

 そう空想を膨らませていたが、なにせ体は泥のように動かない。どうすることもできないのだ。怒りは諦めを持って沈静化し、俺は、あっという間に睡魔に呑み込まれて行った。


 翌朝、妙な事に玄関から真っ直ぐ伸びた廊下にくの字に横たわっていた。ひどく全身が冷たい。末端の感覚はない。別世界へ投げ込まれた洋画の主人公のように目だけを動かし、瞬時に昨夜のことを思い出した。黒のロングコートに紺のスーツ姿。起き上がろうとして、

「あ」

 と声が出た。頭部がもげそうになった。首から肩にかけて突っ張った痛みがした。なんだか腰も膝も痛い。爺さんとなった俺は、壁伝いによじ登って、よろよろと風呂場のドアノブを捻った。手足を解凍するために熱い湯を浴びた。皮膚が真っ赤になるぐらいだ。胃液を微量吐いた。何度か吐こうとしてもほとんど空気しか出なかった。長めのシャワーを浴びてから、リビングに入りベッドに座る。首はずっと傾いたままだった。一生このまま治らなかったら、という不安を抱えながら、テレビをつけた。ニュースか旅番組か再放送。当然、画面は傾いている。俺は姿勢が辛くなって横になった。その方がいくらか楽になった。頭に鈍痛がする。目だけは冴えていた。ふと、昨日のインターホーンが気になってきた。ただの悪戯と思って眠ったのだが、一体なんだったのか。訪問者が部屋番号を間違えただけなのか。もしかしたら、一階の郵便受けになにか入っているかもしれない。白い天井の凹凸を見つめながら、茫洋な予想は続く。右手で項をもみながら、体勢は変えずに敷布団を手繰り寄せた。

 これじゃあ、湿布も買いにいけないな。家に常備しておくべきだった。

 首は少し動いただけでも痛い。しばらくしても治らないのなら、病院に行くしかあるまい。布団にくるまりながら一時間過ごしたが、電話もインターホンもならなかった。



 午前十一時五十分。ベッドから降りて、洗面台へ歩いた。首はまだ痛かったが、だいぶマシになっていた。鏡にはどこか動作がぎこちない顔面蒼白の男が映っている。学生時代は日に焼け、肌はつるつるしていて全身に筋肉が張っていた。自分で言うのもなんだが、それなりに好男子であり、女に不自由しなかった。周囲の人間が羨むほどだった。それが、今じゃ貧疎なサラリーマンだ。あっという間に筋肉は落ち、肌は白さを超えて青白くなった。当時の自信も面影もどこへ行ったかわからない。俺は、現役の時に一度右膝靭帯の手術を受けている。どこかの青春ドラマや漫画みたいに怪我で夢を断たれた!というほどの悲劇でもない。どちらかというと怪我というより心が折れてしまったらしかった。社会人になっても続けている奴らはごまんといるが、今はその気力がない。不定期の仕事をしているとどうしてもやる気が削がれる。どうやら俺のような人間は、環境が整わないとなにかを始められないタイプらしい。所謂真面目系クズってやつだ。真面目なのか、クズなのか。どっちにしろうんざりするくらいに不器用で、生きにくい性格なのはわかっている。

 学生時代を振り返っている間に、支度が済んだ。携帯電話には友人から連絡が入っている。中学からの付き合いで、名前を斎藤健吾という。たまに休みの日に会って酒を呑んだり、カラオケに行く仲だ。彼も彼で仕事も遊びも忙しい。彼は、SNS上での出会いを面白がって人脈を広げていっている、『意識高い系男』である。俺には到底知りえない世界を彼は探索しているのだ。知らない者同士が集まり、それが新たなビジネスを生んだりしているのは俺でも知っている。しかし、それを現実にやってのけるのは真似できない。あらゆる人間の心を動かすのは、社交性があるとかフットワークが軽いとか簡単な言葉では片付けられない。彼と会うと、いつも面白い話を提供してくれる。それがネット記事やらの情報よりもよっほどためになる。こちらが都合つけて会うのを楽しみにしているくらいだった。

 携帯電話を茶のダッフルコートにしまい、玄関へ向かおうとすると高音のインターホンが鳴った。ハッとして、受話器を振り返った。

 昨日の訪問者だろうか。

 無心に白い受話器を取った。

「はい」

『南条さん宅でしょうか?』

 中年の落ち着いた女の声だった。頭をフル回転させたが、聞き憶えはない。

「そうですけど」

『ちょっとお伺いしたいことがあるんですが』

「はあ……」

 どうやら業者ではないらしい。遠い親戚でもないだろう。だとしたらなぜ知人でもないのに俺の名前を知っているのか。それに、伺いたいこと、ってなんだ。さっぱり見当がつかない。

『あの、少しだけでいいんですけど……』

 相手は終始申し訳なさそうに話す。その語気にはどこか思いつめたような弱々しさがあった。頭が混乱してきたが、その話とやらはここで二、三度問答して終われるものでもないらしい。

「……わかりました。そこで待っていてください」

 誰かもわからない人物にマンション内まで案内するのは男でも気が引けた。二日酔いも相まって、不快な、もやもやした心情で部屋を出る。眩しい光が顔を包み込んだ。数歩先のエレベーターに乗り込む。住人の気配はなく、静まり返っている。案の定、一階に下りるまでに誰も乗ってこなかった。エレベーターが開いてすぐ目の前がロビーだ。その奥の出入口前に、中年の女がそわそわしながら立っていた。瞬時に互いの目線が交差する。普通の、どこにでもいる五十代くらいの女だ。自分の母親と然程変わらないだろう。服装は茶色か深緑かわからないジャンパーに黒のスラックスを履いている。ここら辺ではあまり見かけないくらいに地味だった。それでも似合っているのか、違和感はない。

 やはり、部屋番号の間違いか勘違いだろう。風采がまさに上京した息子なり娘なりの様子を見にきたという感じを受ける。しかし、それでは『伺いたいこと』とはなんなのか。俺がマンションの住人を知り尽くしているとはいくら田舎者でも思わないだろう。

 女は軽く頭を下げた。ロビーは狭いので外に出た。マンションの近くに公園がある。廃れた、子供も寄り付かないような公園だ。フェンスも遊具も錆び付いて、風化したベンチが寂しく並んでいるだけだった。やせ細った枯木から流れる心地の良い風に触れながら、だんだん友人との約束が気にかかってきた。

「話というのはなんですか?」

 マンションからほんの少し歩いたところで、後ろを振り返った。今日は、土曜日である。時間が惜しい。そういう雰囲気をどことなく醸し出した。

「実は、これ……」

 女は直感でそれを察したらしく、手提げ鞄から葉書を取り出した。いや、葉書じゃない、よく見ると

 白の封筒だった。しかも、封が切られいる封筒だ。俺は、女の差し出した封筒を受け取った。その宛名に目を落とすと、瞼が引き上がった。そこには筆書で自分の名前、そして、マンションの住所が書かれている。それも知った筆跡だった。

 これは、……

 どうしてこれをこの人が持っているんだろう。

「この封筒をどうして持っているんですか?」

「娘の部屋から見つけたんです」

「娘?」

「娘の名は、本山もとやま 和代と言います」

 ずいぶん古風な名だ。そう感じたのは、今まで一度たりとも聞いたことも見たこともない名前だったからだ。

「知らない名前ですね……あ、写真とかはありますか?」

「あの子の免許証なら、ここに」

 免許証は、使い古した皮革のがま口から出てきた。それを受け取る前に、俺は、心臓を投げられたようになった。ちらりと顔写真が見えたのだ。

 知っている。忘れるわけがない……あの女だ。

 写真の女は、薄い化粧をしていたが、ニコリともしていなかった。茶髪は伸びきって横に広がり、頭頂部は黒くごわごわしている。全体から覇気がなく、寝起きで撮影したみたいだった。それでも、俺には重なる人物がいた。

「どうですか?」

 そう訊く中年女は、俺の動揺から確信を持っていた。これでは隠していても仕方あるまい。

「ああ、知っています。それで……」

 脳裏でパッと導火線が煌めいた。もしかして、という予感がした。この際の選択肢は二択しかないように思えた。

「娘が……自殺したんです。一昨日、敦賀の海で見つかりました。飛び降りたみたいで、遺書はありませんでした。私としては、なんとか自殺の動機を掴みたくて……娘の部屋を片付けていたところ、押入れの中からその封筒が出てきました。私には、これが唯一の手掛かりになりそうな気がして……それでいてもたってもいられず、昨日、福井からはるばる東京へやって来たんです」

「昨日……ここに来たんですか?」

「はい。本当に夜分遅くにすみませんでした……あの時は、娘の死の真相を焦るあまり気が動転していて……」

 中年女は深々と頭を下げた。確かに心身ともに疲労困憊しているのがわかる。

「いいえ、そんな状況なら取り乱してもおかしくはありません」

 そう鷹揚に答えながら、頭では今後の展開を思案するのに忙しかった。じっとりした汗が項から背中へ滲んでいく。

「あの、娘とはどういう関係だったのでしょうか?」

 中年女の赤い目は、さらに核心を

 迫るような鋭い眼差しだった。取調されている犯人のような気分になった。

 ここで有耶無耶にすべきか、観念して自白するか……いや、何も隠すことはない。もう俺には関係のないことではないか。

「えっと、……付き合っていました。と言っても、もう三年以上前ですけど」

「……娘とはどこで知り合いましたか?」

「ガールズバーです。別れてから

 連絡は一切とってません」

 当然だ。俺が最も忘れたい女なのだ。しかし、母親を前にして、そんな悪態はつけない。

「そうですか……」

「自殺したところというのは、彼女の実家から近い場所ですか?」

 俺は根っからの関東人だから、福井の地理には無知だった。『敦賀』というのも辛うじて地名だとわかったぐらいだ。

「いいえ、実家は勝山ですから、距離があります。私としては、娘が東京へ行ったばかりにそこからは音信不通でしたので、いつ帰ってきたのか、今までどのように暮らしていて、何があって帰ってきたのか、わからないことばかりです」

 それはこちらも同じでわかるわけがない。三年も会っていないのだ。しかし、三年も経っているが、これだけ瞬時に思い出せたのは、彼女という女がそれほど印象的だったのだろう。恋愛において

 記憶というものは、時間が経つと自分の解釈を超えて『修正』されるらしいが、彼女との過去が美化されることはなかった。たぶん、未来永劫これからもないだろう。

 それにしても和代という女は、とんだ虚言者だ。彼女の口から、福井の『ふ』の字も、家出の件も、和代という名前すらも聞いたことがない。彼女は嘘を吐くことのプロらしい。三年前はなんの疑いもなかったからだ。もちろん、俺が鈍感だったというのもあるだろうが。

「申し訳ないですが、私には和代さんに何があったのかはわかりません。私が知っているのは、彼女がいたガールズバーくらいですが、そのお店は半年前に潰れましたし」

 今は経営が変わって、おしゃれなイタリアンレストランになっている。というのも人づてに聞いただけで、和代と別れてからはその店はおろか、その付近にも行っていない。もっとも、その時は和代じゃなく、『ミナ』だったのだが。

「本当に、娘の行方をご存知ないのですか?」

「はい。私は彼女がなぜその封筒を持っていたのかが不思議でなりません」

 この封筒は、当時腎不全で入院していた祖父から自分宛に送られたものだった。俺の実家は、栃木県の方にあり、差出人の住所は、宇都宮になっている。彼女が何らかの理由で個人情報を控えておきたかったのなら、他に公共料金の明細やDM葉書などがあったはずだ。なぜこの封筒にしたのか。それに封筒は空で、中身が消えている。部屋の掃除を彼女に任せていただけに、勝手に便箋を抜いて捨てたのかもしれなかった。祖父の手紙は年に何度か来る。それほど大事に保管していたわけじゃなかった。

「娘はあなたと離れる際、何か言っていませんでしたか?」

 母親からの尋問じみた問いが続く。

「いいえ。急に音信不通になりましたし、私は彼女がどこに住んでいるのかも知らなかったので探しようがありませんでした」

 なんとなくこれ以上詮索されるのは怖くなった。相手は刑事じゃないが、娘を失った親ほど大人しくしていて包丁を突き出すような恐さはある。出来るだけ最善の注意を払って、丁重に受け答えした。

「お役に立てなくてすみませんでした」

「いいえ……」

 和代の母は茫然自失だった。当てが外れて、これからどうしたらいいかわからないという風だ。

「これからすぐ福井へ戻るんですか?」

 最後まで、最大限に気を使う。

「いえ、夜行で……」

 和代の母は、ようやく足を引き摺るようにしてゆっくり踏み出した。

「長々とお時間頂いてありがとうございました」

 和代の母は、お辞儀をして、顔は俯き加減のままその場を去っていった。残された俺も和代の母親と同じく釈然としない気持ちになった。どんよりとした空気を抜けだすよう足早にマンションへと帰る。友人には遅れる趣旨のメールを送り、貴重品を鞄に詰めて出かけた。約束には、充分間に合う時間だった。


 俺の知っているミナは、本山和代という名前で、福井の生まれだった。そして彼女は、家族に移転先を告げずに家出している。家族は、娘が東京に行ったというのはわかっていても住所も職業も知らなかった。そりゃそうだろう。未成年じゃない女だし、ミナがどういう女かは俺が痛いくらいに熟知している。まず、免許証に記された殆どの項目を詐称していた。あっていたのは、誕生日だけである。年齢は、五才もサバを呼んでおり、本当は、二十九歳。俺とほぼ歳が変わらない。それにしても気がつかなかった。昔のアニメや漫画、音楽の話題にしてもきっちりその世代にあてはめていた。背も低く、顔立ちもやや幼かった。まさか同世代とは感じなかったのである。

 それに言葉だ。彼女は京都の生まれと言った。詳しい場所は聞いたが、忘れてしまった。なんでも田舎の方だという。関西弁にあまり馴染みない俺は、言葉の端々にくる関西訛りをすんなり受け入れた。それでも彼女は、ほぼ標準語に近かった。福井の方言については、当然詳しくないが、だいたい連想される北陸の訛りのようなものはなかったと思う。それも彼女が気をつけていたのだろうか。人間嘘を一つでもつくと、その嘘を庇うための嘘が増えていく。彼女のように虚言癖はなおのことボロが出やすいはずだ。しかし、当時を振り返っても、彼女の振る舞いは完璧であった。尤も、バーの女だから俺もズケズケと家の事など聞かなかったし、抑彼女に疑いがない以上聞く必要もなかった。別に結婚を考えていたわけじゃない。所詮、通過点の女に過ぎなかった。

 それにしても、自殺というのは本当だろうか。彼女の母親を目の前にして、それは本当に彼女の遺体でしたか、なんて訊けない。遺体は敦賀の海岸に浮いていたという。入水か飛び降りか。それとも

 自殺に見せかけた他殺か。警察を通して、自殺と判断しているのなら素人が反論する余地はない。

 しかし、……

 ありえないのだ、彼女が自殺をするなど。彼女は、自殺するような人間じゃない。俺は彼女の性格を知っている。多少情緒不安定なところはあるが、人誑しでわがままで、金に目がない。見た目は普通だが、中身はジャングルに置き去りにされても生き延びそうなくらいに強靭な精神力を持っている。誰かが憎いのなら、自分ごと引きずり込んで地獄に落ちるようなタイプだ。女特有の被害妄想を含んでいるから、道連れにされた者はたまったもんじゃない。一度機嫌を損ねると、発作的に憤怒がぶり返すような女だ。厄介極まりない。まあ、それらは付き合ってからわかったことだが。

 はたして、そんな女が、荒波の日本海に自分の身を沈めるだろうか。俺には考えられなかった。だから自殺と聞いて全く実感が湧いてこなかったのだ。他人事だといえば他人事だが、まったく異次元の世界で起こった出来事に思えてならなかった。

 昨夜のインターホンから思わぬ方向へ転がった。そして、もっと謎が増えた。無論、どれだけ考えてもわかりようのないことだったが、頭からそのことが離れることはなかった。

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