子供たちはは死体で遊ぶな
少女が横たわっていた。
赤いフェルトが敷かれた玄関に、艶のある黒髪が幾条も広がり線を描く。
半開きになったマンションのドアの隙間から細長く夕日が差し込み、チェックのスカートからブレザーさらに少女の白いうなじまでを照らす。
うっすらと微笑んでいるような表情で閉じかけたまなこには、もう光はなかった。
エレベーターが停まり、一人の若者がおりてきた。彼は通路を二十メートルほど真っ直ぐ歩いて、少女が倒れている部屋の前で止まる。
男の名を川崎純一という。マンションのここ榊原宅で留守番をしていたが、外出してちょうど一階のコンビニでアンパンと牛乳を買って戻ってきたところだ。
川崎は市内の某四流大学生で柔道部に所属している。小柄で階級は六十キロ級、スポーツ刈り頭に着古した上下のスウェット、薄汚れたスニーカーを履いて、見た目からして相当しょぼくさい。
川崎はドアノブに手をかけ、平素のように開ける。
「え?」
まず足もとに横たわる少女の姿が目に飛び込んできて、大声は上げないものの川崎は仰天してその場で固まる。
玄関に入り室内をキョロキョロと見回したあと、川崎は少女の肩を人差し指でちょんちょんとつついてみた。
「あのぅ~そこの人、どうかしたんすか。ちょっと起きてもらえないっすか」
反応はない。
「まさか、死んじゃってるんじゃないっすよね? ちょっとお願いだからなんとか言ってほしいっす」
川崎は焦って少女の両肩をつかんで揺すってみた。
「うっ」
その時川崎は指先にちくりとした痛みを感じて、少女から手を離す。
引きつった顔で右手を見ると、川崎の人差し指に緑色の蛇がかみつきブラ~ンと垂れ下がっている。
「うああぁ!」
川崎が手をプルプルと振り回していると、いつの間にか蛇はどこかにすっ飛んで行ってしまった。
この状況から川崎が想像できた事はただ一つ。少女は毒蛇にやられたのだ。
「どっ、どっ、毒が~」
川崎は必死の形相で、右手の人差し指を左手できつく握りしめる。もう膝はがくがく額からは冷や汗がどっと滝のよう流れ落ち、がちがちと歯の根も合わない。
「電話、きゅ、救急車よばないと」
川崎は榊原宅に土足であがり、電話機の前に直行すると指をおさえたまま受話器をとる。そんな不便な状態で何度か119とプッシュフォンのボタンを押すが、一向に電話が通じない。
この電話機は外線ボタンを押してからでないと、外線が通じない。そのことは川崎も重々承知のはずだが、取り乱しているためにこんな馬鹿なことをやっている。
「なんでだめなんすかぁ」
川崎はあきらめて自分の携帯電話を使う事にした。
「よっ、よいっしょ、あれ」
川崎は体が硬い。スウェットの尻のポケットに入れた携帯を取り出そうとするが、左手で右手の指を握りしめたままなので腕が後ろに回らない。しかし、指を離すわけには行かない。毒がまわってしまう。
川崎はスウェットのパンツを脱いで携帯を手に取る事を思いついた。彼は右手の親指をパンツのゴムに引っかけて下ろし始める。
「いよっと」
川崎は片足を上げパンツから足を抜こうとするが、ぐらっとバランスを崩してそのままどーんと床に尻餅をついた。
パキッと音がして、川崎の携帯は見事に使用不能となってしまった。
「ああ、そんなあ……」
電話はあきらめて、外に助けを呼びに行くために川崎は玄関から飛び出した。
「あ!」
ちょうどドアを開け通路に出ると正面に榊原が立っていた。
榊原裕也は川崎と同じ大学の四年生、ただし、すでに三年も留年している。榊原は川崎とは同郷のよしみで、体良く色々と彼の面倒を見ているつもりだが実際は、ぱしりのように使っている悪い先輩の見本のような男だ。
彼の実家は十代続いた造り酒屋で、田舎に行けばそれなりの名士ということだ。そのおかげで親からの仕送りだけでまあまあ良い暮らしをしている。
彼はボビー・ブラウンをこよなく愛するためか、そのなりは短く刈ったパーマに、わざとだらしないダボダボの服を着て、じゃらじゃらと金のアクセサリーをぶら下げ、何か八十年代後半のファッションを勘違いしたような雰囲気で、かなり違和感がする。
「川崎、なにやってんだよ、その格好は」
榊原は川崎の様子に面食らった。川崎の顔面は汗と涙と鼻汁でぐちゃぐちゃに濡れている。さらにみっともなく引き下ろされたスウェットのパンツに脚を絡めて、トランクスから半ケツがはみ出している状態だ。
「せんぱ~い助けて、ドクヘビにかまれたっす。自分はもうなんだかだんだん意識が……」
川崎は弱々しくそう言うと、ヘナヘナとドアの前に座り込む。
「蛇って、緑色のやつかよ」
「そうっす。緑色の親指くらいの太さの」
「ああ、それは俺のペット蛇でホソツラナメラのボビ男だよ。毒なんかないから安心しろ」
「ええ、本当すか。あ~よかった助かったっす」
川崎は座ったまま安心してがっくり肩の力を抜く。
「しょうがねえな、また水槽から逃げ出したんだなアイツ。ボビ男はちょっと噛み癖があってさ、俺も何度か噛まれてるけど全然平気だってぇの」
「あれ? じゃああの人は何で……」
「あの人? あの人ってだれだよ」
川崎は黙ってドアの隙間から中を指さした。
「なんだよ? これぇ!」
榊原がドアを開けると、そこにはいきなり少女が倒れている。
「どうしたらいいんすか先輩」
川崎は半べそで榊原を見上げた。
「馬鹿野郎いいから早く中に入れ!」
榊原は川崎の胸ぐらをひっつかんで立たせると、急いで玄関の中に彼を引っ張り込みドアを閉めた。
――春日宅にて、時間は少し遡る。
「薫子ちゃん、独りで留守番ほんとうに大丈夫なの」
「うん、大丈夫ママ。このマンションはセキュリティーしっかりしているし、こっちに来てからお友達も何人かできたんだよ」
薫子はリビングルームのソファーに腰掛け、読みかけの雑誌をテーブルに置きながら答える。
春日薫子は、東京近郊N市のこのマンションに最近転居してきた女子高校生だ。セミロングの黒髪にどこか弱々しい笑みをいつも絶やさない。
「あなたは普通の体じゃないんだから、本当にママは心配で心配で」
「お薬もきちんと飲んでいるし、このところ体調もいいから。心配しないでパパを看病に行ってね」
薫子は体は弱いが元来のおっとりした性格で、何も不安げな様子はない。
彼女の母はサクラメントに単身赴任している夫が交通事故に遭い、脚の骨を折ったため、これから急遽日本を発たなければならなかった。
「じゃあね、ママはいってくるわね。向こうに着いたら必ず定時には連絡をするから、ちゃんと家にいるのよ」
薫子の母は後ろ髪を引かれる思いのまま家を出た。親としてあと一つ気がかりなのは、薫子が少しばかり天然であるということなのだが。
母親が出てから一時間ほどして、薫子はちょっとした買い物を思い出して外出することにした。
このマンションはよくある造りで、一階に二十四時間営業のコンビニエンスストアが
入っている。
玄関から出て扉の前で薫子は、卵形キーホルダーがついた鍵をブレザーの内ポケットに入れた。そして彼女が通路側に目をやると、隣家の扉がドアストッパーで止められて半開きになっている。その十センチメートルほどの隙間から三毛猫が一匹顔を出して、ニャアと鳴いた。
「やだ~、かわいい猫ちゃん」
ピンポーン
薫子は三毛猫をそっと抱き上げると、隣家のドアフォンを鳴らした。しかし返事はない。さらに四回ほど鳴らしてみたが何の音沙汰もない。
「ドアを開けたままなんてよくないですよう。いないんですかあ」
薫子はやむなくドアを開けて中に入った。
「榊原さ~ん、いないんですかあ。お宅の猫ちゃんが出ていっちゃいますよう」
中にはいると榊原宅は玄関灯はついていたが妙に薄暗い。薫子は片手で三毛猫を抱えたまま、何気なく左手を下駄箱の上に置いた。
しゅるしゅると衣擦れのような音がして、薫子の左腕に冷たい何かが巻き付く。
「あれえ、何かしら?」
薫子が右腕を持ち上げ、顔の正面に持ってくると、太さ十五ミリほど、艶々した緑色の蛇がちょろちょろと舌を出し、彼女の鼻先をなめる。
ほんの三秒ほど沈黙した後。
「ヒック」
棒立ちのまま、かなり大きなしゃっくりを一回だけして、薫子の膝はがくんと折れた。それからゆっくり崩れるように、玄関マットの上に横向きで倒れる。
榊原宅から出てきた猫はたまたま入ってきた迷い猫で、驚いてドアから飛び出していってしまった。
そして半分ほど開かれたままの薫子の眼からは、急速にその光が失せていった。
榊原と川崎は上がりかまちに立ったまま薫子を見下ろしている。荒い息が収まり、何とかお互いが落ち着いたところで榊原から口を開いた。
「この娘なら知ってるよ。確か先週うちの隣に越してきた春日って家の娘だ。薫子とかいったな。それで、なんでこんなところにこの娘がいるんだよ」
「扉にドアストッパーかまして、下のコンビニに行って帰って来たら、ここに倒れてたっすよ」
「お前が引っ張り込んでいたずらしたって誰が見ても思うぞ、お前のその格好じゃ」
「先輩、自分がそんなことを出来るような人間じゃないって、信じてくれるっすよね」
川崎はすがるような目つきで榊原を視線を送る。
「ああ、信じてやるよ。でもさあ、ドアを閉めないで玄関からでていくなんて、どうかしてるよお前。留守番なんか頼むんじゃなかっよ、たくぅ」
「すいません、すいません」
川崎はぺこぺこ安っぽく反射的に頭を下げる。彼は普段から何かと謝ることが多い。
このマンションのオートロックは、二つのシステムがある。まずそれぞれの家は、入り口のドアが閉じられると自動的にロックされる。もう一つは一階のエントランスゲートから中に入るには、一階のインターフォンで中の住人を呼びだして、リモートでエントランスゲートの開錠をしてもらうか、ドアにあるボタンで五桁の暗証番号を入力するしかない。
川崎はエントランスの暗証番号は知っていた。しかし榊原から家の鍵を渡されていなかったため、扉にドアストッパーを噛ませてそのまま下のコンビニに行っていたのだった。
「んで、どうなんだよこの娘は、寝てるのか、気絶してるのか、それとも……」
「わからないっす。それが、この人を起こそうとした時に、自分は蛇にかまれてしまったすから」
見たところ外傷も争った跡も無い。榊原はしゃがみこんで薫子の鼻の上に耳を当てる、息をしていない。喉のあたりを指で触ってみる、冷たい、しかも脈もない。
「まじかよ……。完全に死んでるぞ」
「人工呼吸とかやったら助かるかもしれないっす」
「無駄無駄、冷たくなってるしもう助からないだろ」
「救急車を呼んだらどうっすか」
「もう死んでるんだから呼んでもしょうがないだろ」
「じゃあ警察を」と川崎が言いかけると台詞に割って入って榊原は拒否する。
「ぜ~ったい、だめだ、却下!」
「どうしてっすか、先輩」
「まあいいからそこに座れ」
玄関ホールの床に榊原と川崎はどっかりと腰をおろすと、榊原はポケットから直接紙巻きタバコを一本出して、「まあ一服しろや」と川崎に勧める。
そのタバコに火をつけて一口すうと川崎は顔をしかめた。
「うっ、なんすか先輩この変な臭いのタバコは」
「これはな、ここで栽培している物だよ。お前が昨日今日と水をやったりしてくれてた植物」
榊原宅は3LDKでそのうちの一室、六畳洋室は遮光カーテンがびっちり引かれ、天井からは40W蛍光灯が三十本も釣り下がっている。床にはプランターがずらっと並び何かの植物が芽を出し始めている。
「なんだか、新種のハーブで健康増進に効果があって、極秘研究中ってあれっすか」
「つまり、これはマリファナだ」
「マリファナってあの麻薬のマリファナっすか……」
そう言った後、川崎は紙巻きタバコを手に持ったまま思考停止している。
「まあそうとも言うな。健康にもタバコなんかよりよっぽどいい物だ。お前はそれに水をやって栽培の手伝いをやってたわけだ。味も見たしな」
「てっそれ、どういう意味なんすか先輩」
「つまりだ、お前も共犯なんだよ。このことがばれたら俺たちは逮捕される」
「今まで騙してたなんてひどいっすよ先輩」
さすがに川崎は怒って立ち上がろうとしたが、榊原は彼の袖をつかんで引きとめる。
「まあまて、今更お前が警察に自分は関係ございませんと言ったところで、信じちゃもらえないだろう。もし俺が捕まったらお前も共犯で、知りながら協力してたって言い張るつもりだしな。逮捕されればお前も大学は退学だ。もう未成年じゃないんだから経歴に前科がついてまともな就職もできなくなるし。間違いなく田舎の親は泣くだろうな」
「あ~もう自分はどうしたら……」
川崎は座ったまま頭を抱え込んだ。
「そこでだ。俺に良い考えがあるからよく聴け」
「今更どうするって言うんすか先輩。もうおしまいっす。自首した方が……」
「だから良く聴けっていってんだろが。この娘は体が弱いって親から聞いてるんだよ。それに状況から見て、どう考えても病死だな。ボビ男に驚いて心臓がいっちまったかなんかだろう。ということは、この死体がここになければ不審死じゃないから、俺たちも警察に疑われなくて済む。そこでどうすればいいか? それはだな、この娘を隣の自宅まで運んで、そこで勝手に死んでいたってことにすればいいだけだろ」
「あ、そうっすね」
川崎はパンと手をたたいた。
「それと都合がいいことにしばらくこの娘の家族は家に帰って来やしない。この娘の母親は旦那がアメリカで交通事故だとかで、今日成田を発ったはずだ。今朝この娘の母親からその事情と、しばらく家を空けるけどよろしくお願いします。ってわざわざうちまで来て言ってったんで間違いない」
「完璧じゃないっすか! 先輩」
「んじゃまあ善は急げだ、手伝え。お前はこの娘を担げ。俺は外で人が来ないか見張るからな」
榊原と川崎は立ち上がった。
川崎は軽々と薫子を右肩の上に担ぎ上げ、玄関で待機する。榊原は先に外にでると、ドアの前で周囲の様子をうかがった。
エレベーターは動いていない。通路にも人気はなく、よそのドアが開きそうな気配もない。
「よし、いまなら大丈夫だ。急げ川崎」
ドアの隙間から榊原の指示を聞き、川崎は素早く玄関からでて隣家のドアの前に立つ。
「先輩、ドアを開けてください」
「よし、今開ける……。って鍵はどうした?」
「ここの鍵なんて最初から自分は持ってないっす」
「俺は、てっきりお前が持ってるとばかり思ってたんだが」
「自分も先輩が持ってると思ってたっす」
「くっそう、何やってんだ俺」
消沈して榊原は自分の額に手をあてるが、すぐに気を取り直す。
「きっとこの娘が持ってるだろうから、探してみる。ちょっとそいつを下ろして、立たせて支えていろ」
川崎は薫子を体を肩から降ろし彼女を向かい合うように立たせて、その両腋の下に手を差し込み支える。
「よし、そのままにしてろ」
榊原は薫子の着衣を上から順に、警察官が行う身体検査のような手つきで探していくが、鍵は見あたらない。
「どうなってるんだ、どこにもないぞ。ポケットにも服の間にも」
「先輩、早くしてほしいっす。人が来たら大変す」
「その語尾に“す”付けるのいい加減やめてほしいいんだが。耳障りなんだよ」
「これは癖なんでどうにもならないっす」
「あ~もういいよ、勝手にしろ!」
探し続けるが一向に鍵が見つからないため、榊原はかなり苛立ってきた。もうこうなったら自分の家に戻って、全部脱がして探すしかない。そう思ったところで、ガチャっとドアノブを捻る音が通路に響く。
「やばい、見つかる」
危機的状況だ、自分の部屋に戻るほんの数秒ほどの時間的余裕が有るかどうかも怪しい。しかし、榊原はとっさにごまかす方法を思いついた。
「川崎、黙ってろよ」
榊原は二人を川崎が壁側になるように、抱き合うような形で壁に押しつけた。そして薫子の両手を川崎の背中側に回し、壁と川崎の背中の間に挟み込む。
この間約三秒、これで何とか若い男女が抱き合っているように見えるだろう。
ガタンとドアが閉まり、一番奥の部屋から男が出てきてこちらに向いた。
「いやあ、榊原くん久しぶりぃ」
「ああ、岡田さん。珍しいですねこんな時間に」
ぎこちない表情で榊原は愛想笑いする。
彼、岡田俊郎もこのマンションの住人だ。独身で出版関係の仕事をしているらしく、深夜の帰宅が多い。榊原は朝夕に岡田の姿を見かけることは滅多になかった。
歳は三十代後半、身長が一八〇センチ程の大柄な上にかなりの肥満体。汗かきで真冬でもいつもハンケチを手放さない。チェックのカジュアルシャツにジーパン姿で、美少女アニメ絵の紙袋を手からぶら下げている。
「ん~、ところでその二人は」
興味ありありというような顔をしながら、岡田はこちらに歩いて来た。
「ああ、俺の後輩で川崎っていいます」
「いいねえ若い人は、うらやましいよボクはあ」
川崎と薫子にどんどん近づいていく岡田の間に、榊原は割ってはいる。
「いや、岡田さんせっかく二人が仲良くやってるんだから、そっとして置いてあげましょうよ」
「でもさあ、普通なら人に見られたら恥ずかしくてやめるでしょ。それをさあ、やめないってのは、どうぞ見てくださいって事じゃないのかなあ」
岡田はその体格でじわじわと榊原を圧迫し始める。
「だから岡田さん、迷惑だって」
「けちだな。ちょっとくらいいいじゃない」
ちょっとどころではない。にじり寄る岡田の気色悪い迫力に、榊原は押されっぱなしで徐々に後退していく。
榊原の後ろで川崎は上気して顔が真っ赤になっている。女性に対して全く免疫がない彼にとってこの状況はあらぬ事を妄想させた。
石けんの香りがするさらさらの黒髪、川崎に押しつけられた柔らかい胸、絹のようにきめ細かい肌の白いうなじ。川崎はごく自然に自分の股間を押さえる。
そのせいで、抱きかかえられていた薫子の体は、クタクタっと崩れる。咄嗟に川崎が彼女の右腕をつかむが、完全に脱力した体は膝を曲げて腕一本でぶら下がっている状態だ。
「あれえ、どうしたんだい。具合でも悪いのかなあ」
「あ、ちょっと岡」ドシッ!
立ち塞がる榊原を岡田は肩ではじき飛ばし、薫子を引き起こそうと彼女の左腕をつかんで持ち上げた。それからその顔をまじまじと眺める。薫子の首は力無く斜め前方にうなだれ、目は半眼のまま表情に何も変化がないのが見て取れる。
「ん~可愛い娘だねえ。でも脈がない。死んじゃってるねえこの娘」
動揺するでもなく岡田はいとも簡単に言ってのけた。
「それでえ、この娘は君らが殺しちゃったってことなのかなあ」
へらへらと薄笑いを浮かべて岡田は榊原に詰め寄る。
「いやとんでもない、この娘がうちで勝手に死んでたんですよ」
「へぇ、じゃあなんで、救急車とか呼ばないでこんなことしてるわけ」
「それにはちょっと、色々訳が……」
「榊原くん、なんならこのボクが相談にのってあげてもいいよう。その娘のこととか色々訊きたいし。それとも、このまま警察に電話しちゃおうかなあ」
「いや岡田さんが相談にのってくれるなら助かります。ここじゃ色々とまずいんで中に入りませんか」
「ボクも実は今、この娘を見てからさ、君に相談したいことを思いついたんだ。あと言っておくけど、ボクは格闘技もそれなりにやっているんで、何か変なことをやろうとしても無駄だからねえ」
岡田はそう言うとポケットから、暴徒鎮圧用の強化繊維製特殊グローブをだして右手にはめる。
運良くと言って良いかどうか、榊原は岡田がどうやら薫子の死体に興味があることに気がついた。こうなってしまったら、嫌なやつだがこの岡田を仲間に引き入れなければ、進退窮まってしまうだろう。榊原は覚悟を決めた。
「ふーん、なーるほどねえ」
事のあらましを聞いて岡田は深くうなずいた。
岡田、川崎、榊原の三名は榊原宅のリビングのソファーに腰掛け、コーヒーなどを飲みながら話をしている。薫子の死体もうなだれた姿勢で、ソファーの隅にちょこんと腰掛けてさせてある。
「それで困っている訳なんですよ。これからこの死体をどうしようかと」
そう言って榊原は腕を組んで下を向いたまま、考え込んでしまった。
「君ぃ~、簡単なことじゃないか。ボクらが周りに気付かれないように注意して、この娘をどこか翌朝までに見つかるような場所に置いてくればいいだけでしょ」
「岡田さん、それがそんなに簡単に出来たら苦労しないですよ。大体このマンションのエレベーターには監視カメラがあるんですよ。非常階段は管理人に言わなきゃ使わせてもらえないそこにまでカメラもある。ここは五階で窓から降ろすのだって無理でしょ」
「いや、榊原くん。エレベーターを使えばなんとかなるんじゃないかな」
「何か大きな箱とかに入れて下に運ぶんですか? だけど、それだと彼女がエレベーターの監視カメラに全然写らないまま、その後死体が外で見つかるなんてどう考えてもおかしいじゃないですか」
「はっはっは、いや~榊原君ボクにものすごく良いアイデアがあるんだよ。今夜から君はうちの方角に足を向けて寝られないなあ。聞きたいかなあ?」
「岡田さん、もったいぶらないで早く教えてくださいよ」
「くっく、それじゃねえ、ちょっとこれから説明するかなあ」
岡田は笑いをこらえながら、メモ帳と鉛筆を取り出して図を書いて説明を始める。
岡田は説明が終わると鉛筆をぱちんとテーブルの上に置いた。
「信じられない。どうしてこんな事が思いつくんですか岡田さん」
「それは君たちと違って人生経験の差と、発想の違いかなあ」
「と言うより、こんなんで本当にうまくいくのかどうか信じられないっす」
このとき初めて川崎がぼそっと意見を言った。
「案ずるより生むが易しだよ川崎君。ボクらが努力さえすれば、絶対成功間違いなしだよう!」
岡田はやる気満々、テーブルを両手でぱしっとたたきながら力をこめて言い放つ。
「ふぅ~。さてと」
岡田は大きく深呼吸をした。
「これから最も重要な案件にはいるとしようかなあ、みんな」
「重要な案件ってまだ他にあったんですか、岡田さん」
「つまりだあ。このボクの作戦の立案と協力に対する報酬ってやつだよ」
「報酬って、幾らくらいお望みなんですか。まあ払うことができる限度ってものがありますよ、俺でも」
「いやだなぁ榊原君。ボクがお金のためにこんな事に協力するような下衆な男だとでも思っていたのかな。がっかりしてしまうよ」
「じゃあいったい何を……」
何となく岡田の性癖が想像できる。榊原は不快な予感に語尾を濁す。
「いや、あれだ。ボクは変態でもネクロフェリアでもないごく一般の善良な市民なんだけどね、芸術的な探求心を常日頃から満足させたいっていう欲求が強いんだよ。ちなみにボクは出版の仕事をしているけど、こういう雑誌の監修もしているんだ」
岡田はテーブルの上に紙袋から一冊の雑誌をぽんとだす。
“月刊 私はおにいちゃん”なにやら怪しげな雑誌だ。とはいっても美少女フィギュアと呼ばれているジャンルの物らしい。
「で、あんたの趣味はわかったんですけど。何がやりたいっていうんですか」
「この人に、いたずらするって事っすか」
榊原の質問の後に、川崎がぼそっと呟く。
「何を言うんだね川崎くぅん。そんな事はひとっことも言ってないよ。ボクはね美しい物は眺めて悦に浸るべきだと思うんだよ。つまりだ、薫子ちゃんにこれを直接身につけてもらって眺めたい。それだけで十分なんだよ」
岡田は紙袋から女性用のパンティーを取り出し丁寧に広げる、これもまたテーブルの上に置いた。シルクで光沢がある可愛らしい苺模様の物だ。
榊原と川崎はあきれてテーブル上のパンティーを眺めた。
岡田に対する報酬について榊原は快く、ではないが承諾した。それから、岡田がその報酬を受け取るタイミングは、作戦の最終段階ということでお互い合意に至った。とりあえず作戦を遂行するに当たり、榊原達の準備が始まる。
榊原宅のリビングルームの家具が壁際に寄せられ、中央に3畳ほどのスペースが開けられた。そこには土足で汚れないようにビニールシートが敷かれる。
薫子の顔は、榊原の別れた彼女がたまたま置いていったファンデーションと口紅でお色直しされて、良い血色に誤魔化すことができている。
薫子の左右の靴の外側に強力両面テープが貼られ、そこに榊原の左靴と岡田の右靴が接着された。榊原と岡田が薫子の両サイドに立ち、それぞれ薫子の脇に腕を回して支える。
つまりこれは、三人四脚だ。
「さあこれで、ボクらはどう見たって仲良し三人組だ。練習いってみようか。それ、いっちに、いっちに」
岡田のかけ声に榊原も歩調をそろえて足踏みしてみるが、なかなかうまくいかない。薫子の右足と左足が同時に前に出てしまう。さらに困った問題として、薫子の首が座っていないために、一歩出るごとにその頭が力無くカクンカクンと揺れ動く。
「どうもうまくいかないようですね、岡田さん」
「う~ん、首をどうにかしないといけないねえ。ちょっとボクがやるように君もやってみて」
岡田は自分の頸を曲げて薫子の頭に寄せる、しかし身長差がかなりあるために、薫子の頭のてっぺんに頬を乗せるような格好になる。榊原も薫子の頭に自分の顔の側面をくっつけて、何とか薫子の頭部は固定されるも、三人が頭をくっつけてかなり不自然な格好だ。榊原と岡田にとっては厳しい体勢といえる。
「さあこれで、もう一度いくよ。それ、いっちに、いっちに」
「岡田さん、これってかなり無理がありますよ」
「う~ん、ボクも頸が痛くなってきた、ちょっとやり方を変更しよう」
岡田は薫子に榊原のダッフルコートを肩から羽織らせ、襟を立たせる。さらに頭にはニットキャップを被らせてた。そして薫子の背中と服の間に長さ一メートルの物差しが差し込まれ、ニットキャップの後ろと頭の間に挟む。これを背骨にしようという魂胆だ。薫子の後には川崎がぴったり寄り添って物差しを服の上から支える。
「じゃあ練習を続けようかな、みんな」
この方法は、まあまあうまくいった。練習を続けていると、徐々に歩き方もスムーズになってくる。
作戦決行は夜三時過ぎ、マンションの周囲や住宅街に人気が無くなってから行わなければならない。それまでに練習時間は十分あった。
途中休憩もとりながら練習を続をけて、時刻は午後十時をまわった。
死体を挟んだ三人四脚もそれなりの時間を練習して、なかなか堂に入って来た所。
「これならなんとかなりそうですね、岡田さん」
榊原は安堵の表情を浮かべるが、岡田は何か腑に落ちないことでもあるのか、下を向いぶつぶつ呟いている。
「うん、まあなんとかなりそうだけど、ちょっと気になる事があってね。薫子ちゃんが倒れていたのは何時くらいだっけ?」
「俺が帰ってきた時すでに倒れていて、五時過ぎくらいだったと思いますけど。そうだろ、川崎」
「自分はここを出て帰って来るまでの間は十分ほどだったっすから、それくらいだと」
「なるほど、じゃあ五時間くらいか、今日は涼しいし、こんなところかな」
岡田の脳裏には死後硬直の四文字が一瞬浮かんだが、すぐにかき消されてしまった。
「岡田さん、なにか気になるんですか」
「いや、ボクの単なる思い過ごしだから、気にしないでいいよ。さあもう少しがんばったら、また一休みしよう」
と、その時ピンポーンとドアフォンが鳴った。
「まずいな。おい、川崎お前が出ろ」
こくりと頷いて、川崎はドアフォンのハンズフリーマイクのボタンをおす。
「どちら様っすか。すいませんけど、今ちょっと取り込み中なんで帰ってもらえないっすか」
「何言ってるのよ~アンタ。アタシだっていってんでしょうがこのくそぼけがぁ~」
声は若い女性のだ。どうも泥酔して悪態をついている。
「あちゃあ。朱美かよ」
榊原は動揺を隠せない。
山本朱美は榊原が先週別れたばかりの女で、朱美のほうはまだ未練たらたらで。ここに何時押し掛けて来てもおかしくない様相だった。彼女は二十代後半で榊原より年上、濃い化粧に赤い派手なハイヒールを履いたOLだ。
実は川崎に留守番をさせて鍵を渡していなかったのは、彼女のせいでもあった。
朱美は榊原宅の鍵を持っていた。つまり、家に誰かがいて内側からチェーンロックをかけていなければ、中に入られてしまうことは確実なのだ。
ガチャンとドアが開くが、チェーンロックに阻まれて朱美は侵入がかなわない。
「ちょっと~、早く開けなさいってば、裕也! いるんでしょ、わかってるんだからね」
朱美はドアを外からがちゃがちゃと引っ張る。
「川崎いいから、あの女をとっとと追い返せ」
「先輩そんなこといわれても自分は……」
「ばか、ここであの女に居座られたら、俺たちの計画はおじゃんだろ!」
川崎は渋々玄関に行った。彼がドアの隙間から覗くと、朱美はそこからいきなり指を突き出す。
「これでも食らえっていうのよ。アハハ」
「いた! あたた」
川崎は顔面を指で突かれてうずくまる。尖った爪の先で危うく目をやられるところだ。
「どうしてもアタシを入れないつもりなんでしょう。今日はね、あなたがなんてったって入ってやる。そのためにこれを持って来たんだから」
朱美は持ってきたスポーツバッグから、大きな道具を取り出した。それは、重さ五キロ以上はあるペンチの親玉のようなチェーンカッターだ。
朱美はチェーンカッターを重そうに持ち上げ、ドアの隙間から差し込んで、ドアチェーンをパチンといとも簡単に切断した。
うずくまる川崎に気にもせず、朱美はどかどかと土足で侵入し、真っ直ぐリビングに向かう。
リビングには岡田と薫子と榊原が三人仲良くひっついて立っている。
「あ、朱美! どうやって入ったんだよ」
「ちょっと、その女は誰なのよ!」
と言い終わるが早いか、朱美は顔が真っ青になり口を押さえた。彼女はそのまま方向を反転して玄関脇の洗面所に飛び込む。ほどなくして、「うぇ~」と吐き戻す声が聞こえてきた。
「どうするんだよ榊原君。このままじゃ計画はおしまいじゃないか」
「いや、岡田さん、まだなんとかなります。朱美は悪酔いすると、いつも前の晩のことはケロッと忘れてるんですよ。だからこの場は何とか誤魔かせば」
そこに川崎が顔を押さえながら戻ってきた。
「おい、ちょっと川崎早く来い」
「すいません、先輩。中に入られてしまったっす」
「もういいから、お前はそこのリモコンで部屋の灯りを暗くしてダッフルコートの後ろに入れ」
何をするのかわからないまま、川崎は後ろから薫子が羽織っているダッフルコートの中に入る。
「よし、じゃあぴったりくっついて、コートの袖からお前の腕を出せ」
「こうっすか? 先輩」
正面から見ると、それなりにコートから薫子の腕が出ているように見えなくもない。いわゆる二人羽織の状態。
「いいか川崎、お前は黙っていればいいから、会話に合わせて適当に腕を動かせ」
「そんな器用なこと自分には無理っす、先輩」
「大丈夫だ、朱美の奴はかなり酔っぱらっているから、ばれやしない」
「ということは、ボクが薫子ちゃんの声の役かな」
頼まれもしないが、喜々として岡田はその役を買って出た。
しばらくして、朱美がリビングに戻ってきた。苦しそうに肩で息をしている。
「も~暗いわねえ、最悪だわコンタクトレンズ洗面所から流しちゃったし」
榊原はしたり顔でほくそ笑む。朱美は強度の近視で、コンタクトが無ければ、視力はひどい物だ。
「それで、今更なんの用だよ、朱美」
「今更はないでしょ、アタシのことを散々愛してるだの言っておいて。ところで、その女は誰なのよ」
「ああ、この娘は、この岡田さんの妹で薫子ちゃんっていってな、岡田さんとうちに遊びに来ているだけだよ」
「どうも岡田です、朱美さん。榊原君の言うとおり薫子はボクの妹で、目に入れても痛くない位かわいがってあげているんですよ。だから榊原君が薫子と、男女関係がどうだのこうだのってことは、絶対ありえないから、心配しないでください」
そう言い終わって岡田は、あさっての方向を向く。
『朱美さん、わたし薫子で~す。お兄ちゃんとは、もうとっても仲良しで、榊原さんなんかが入り込む余地が、もう全然ないほどなんですよお』
裏声で口を閉じ岡田は腹話術を操る。川崎も薫子の腕になったつもりで、ひょこひょこと手振りをしてみせる。初めてなのだが人間やればできる物だ。しかし芝居がかってあまりにもわざとらしい。
「なんかあんた、ちょっと声がおかしいわね」
『そーなの朱美さん、わたしちょっと風邪気味なの。お医者さんからあまり話したらいけないっていわれてるんで、黙るわね』
やはり無理があったか、岡田は腹話術のまねごとはやめることにした。
「今日はまだこれから色々と忙しいんだ。そういう訳で、帰ってくれたらお前とよりを戻すことを考えてもいいぞ」
「それより、さっきからあなた、その娘とずっとひっついたままでしょ、なんで離れないのよ」
「これか、これはな……。そう、ダンスの練習だ」
「そうそう、ボクらはボランティアを始めて、老人施設なんかを慰問しようと面白いダンスを練習してたところなんだよ、朱美さん」
「へ~、それじゃここでちょっと踊って見せてくれない」
「ああ良いとも。それじゃ俺が歌いますから、岡田さんよろしく」
榊原が咄嗟に思いついたダンスとは、誰でもすぐわかる踊りで、その上この状態で踊ることができる物。言わずもがな、あれしか無かろう。
「じゃあ~はい、カステラ一番電話は二番、三時のおやつは文○堂~♪」「そうそう、カステラ一番電話は二番、三時のおやつは○明堂~」
榊原に合わせて岡田も歌い始める。さんざん練習した甲斐あって、二人は調子よくひょこひょこと脚を上げステップを踏み始めた。もちろん薫子の脚もそれに合わせてきれいにそろい上下する。
「あ~カステラ一番電話は二番、三時のおやつは文明○~」
七クールほど踊ったところで、岡田と薫子の靴を接着していた両面テープが、パリッとはがれる。岡田は脚を振り上げた勢いでバランスを崩し、後方に尻から勢いよく転倒した。
床に敷いてあるビニールシートは滑りやすく、連鎖して薫子と榊原、川崎までもひっくり返る。
「あっはっは、何やってるの。ば~かみたい」
ご親切にも、朱美は薫子の腕を引いて起きあがらせようとするが、部屋の暗さに目も慣れて、それは薫子の後ろに倒れている川崎の腕であるということに気がつく。
「誰よあんた? それにこの娘、目を開けたまま動かないじゃないの」
「朱美、ええと、ちょっと訳ありなんだ……」
すっかり朱美のアルコールも醒め、結局薫子が既に死んでいることは、彼女に完全にばれてしまった。朱美は事情を説明された後、榊原とよりを戻すことを条件に、この企てに参加することに同意する。
その後この作戦の準備は朱美も含む四名+死体一で継続された。
監視カメラの位置、移動方法、メンバーのポジションと役割、すべて綿密にうち合わせ、準備も万端整った。そうこうしている間に時刻は午前三時を回る。
背に腹は代えられないと、榊原は苦い選択をする羽目になり、悶々として天井を見る。それに対比して朱美と岡田は喜びを押さえるも、口角が持ち上がっている。
川崎は不安げな面もちで下を向く。
「さあみんな。それじゃ出かけようか」
岡田のかけ声に一同頷いた。玄関を出て死体一+四名は所定のポジションに立つ。
先頭中央に朱美、二列めには右から榊原、薫子、岡田、そして後列中央に川崎がぴたりと寄り添う。
そのまま通路をまっすぐエレベーターに向かう、問題なし。
朱美がエレベーターのボタンを押しドアが開く。全員エレベーターに乗り込み一階に下りる、セーフ。
エレベーターからエントランスホールを通ってマンションの外に出る、オールグリーン。
マンションをでてから歩道を百メートルほど歩き、横断歩道を渡る。そこには道路沿いに細長い大きな公園が一キロメートルほど続いている。目的地はこの公園の中程の休憩所がある東屋だ。
途中他人とは全くすれ違うこともなく、一行は目的地の東屋に到着した。
「あ~あ、こんなに緊張したのは久しぶりだわ」
朱美はずれ下がった予備用のメガネを指で押し上げる。
「よし、それじゃみんな、セッティングするからね」
岡田の指示通り、両面テープを靴からきれいに剥がし、薫子の体を男三人がかりで、東屋のベンチに降ろす。
薫子の体は右腕をベンチの後ろに回し、体は斜めに背もたれに寄りかかったポーズで安置された。
「やれやれ、これで作戦終了。助かりましたよ岡田さん」
「やだなあ、榊原君。ボクのためのまだ大事な作業が残ってるじゃないか。忘れてもらっちゃ困るよ」
「はいはい、わかってますよ。僕らが見張ってますから、あんたは好きにやれば良いでしょ」
榊原は投げやりな調子で返事をする。
「そうこなくちゃねえ、今まで努力が報われないよ。うれしいねえ。見張りしっかり頼むよう」
東屋に通じる通路の五十メートル前方に榊原と朱美、後方には川崎がそれぞれ見張りに立って人がこないか警戒する。
「ねえ、裕也。ちょっとあの娘かわいそうね」
「まあ、俺だってあまり気分は良くないけどしょうがないだろ。どうせもう死んで、何もわからないんだし。パンツを履き替えさせるくらい、神様だって許してくれるさ」
まあどうせ、榊原は神様なんか信じちゃいないが。
その頃、岡田は目をギラつかせ薫子に近づいていた。
「さーてと、イチゴパンティーオッケイ」
岡田は持ってきたイチゴのパンティーを頭からかぶり、両手が自由になるように懐中電灯をあんぐりと口にあけて咥える。
もごもごと、発音ははっきりしないが『ボクの薫子ちゃ~ん、今すぐこっちのパンティーに替えてあげるから、大人しくしているんだよ、ぐふふ』と岡田は薫子に話しかける。
岡田は薫子の前にしゃがみこみ、よいよスカートの両端に手をかけた。
そのとき、シュルシュルっと岡田の襟首に冷たい物が飛び込んだ。
「あ!」
岡田は口に咥えていた懐中電灯を地面に落として、もんどり打って飛び上がり、背中をかきむしる。
「あ~、なんだこれ! もしかして? ヘビですかぁぁ」
蛇は岡田の下着の中まで入り込み、体中をあちこちずるずると這い回る。
「あ、やめて、ちょっと、あれ、うあ、だめだって」
岡田は立ったまま、狂ったように手足をばたつかせ悶える。
岡田の異常に他の三名はすぐさま気がついて、東屋に駆け寄るが、とんと状況が飲み込めない。
「おかしくなったんですか、岡田さん、しっかりしてくださいよ」
「ちが~う!榊原君。ヘビだ、ヘビが入っちゃったんだよ、シャツの中に」
「って、またどうして」
「ああ、もうそんなことはどうでもいいから、なんとかしてえ。お願い」
「服を脱いじゃえば何とかなるんじゃないの」
「あ、そう、そうだね」
朱美に言われて気がついた岡田は、あわてて身につけている物を、トランクス一丁になるまで脱ぎ捨てた。
裸になった岡田の三段腹の肉ひだに、緑色の蛇が噛みついたままぐるっと巻き付いている。
「これは、俺のボビ男じゃないか、いつの間にこんなとこに?」
「あたたた、いいから早く取ってくれよ、榊原君」
榊原はやれやれといった表情をしながら、慣れた手つきで岡田に噛みついているボビ男をはずす。
「岡田さん、この蛇ホソツラナメラって種類で、毒とかないんで、心配しないでいいですよ」
「はぁ。もうどうなることかと思ったよ。こりごりだ」
「それで、どうしますか、これから」
「ボクらはあの娘に呪われているよ、。これでボクは確信した。もうこれ以上関わるのは御免だよ」
岡田はいそいそと地面に散らばった自分の衣類を拾い集め、丸めて胸に抱え裸のままでその場から遁走する。
去り際に、
「君らも早く逃げないと危ないからね、ボクはしらないよ~」と言う声とともに遠ざかってフェードアウトする。
「まったくどうかしてるよ、アイツ」
榊原はそう吐き捨てた。
事態を傍観していた川崎は、榊原に頭を押さえられたままのたくっているボビ男の腹を見て、ちょっとした変化に気がつく。
「そのヘビが自分を噛んだヘビっす。でも先輩、そのヘビ何か飲み込んでいるみたいっす」
「あ、ほんとだな」
榊原が確かめるとボビ男の腹の中程が、ピンポン玉より一回りくらい小さく、丸くふくらんでいる。
「何かの卵かな、これは」
榊原はボビ男の腹を触ってみた、卵形の異物の先方に何か、平らな固い物が入っているようだ。
「卵じゃないなこれ、金属みたいだ、丸い物の先は。これってもしかして……」
榊原はボビ男の腹をしごいて、飲み込まれている異物を吐き出させた。
「まじかよ」
ボビ男が飲み込んでいた物は紛れもなく、あのマンションの鍵だった。キーホルダーが卵形のせいで誤飲されてしまったらしい。卵形のキーホルダーには、春日とマジックで書いてある。
「な~んだ、見つからないって言ってた鍵があったじゃない」
「あのなあ、朱美。今更鍵が見つかったってしょうがないんだよ」
自分の今日の苦労は何だったんだと、榊原は落胆する。がっくりした榊原の腕の力が抜け、つかんでいたボビ男がするすると逃げ出した。
「あ、しょうがないな。すばしっこいやつめ」
「先輩、捕まえなくていいんすか」
「川崎。お前が、捕まえてきてくれるのかよ。今日のことも全部あいつのせいだし、ほっとけ」
「おい、これ水道で洗ってこいよ」
榊原は川崎に鍵を渡した。
公園の水飲み場で、春日宅の鍵を洗い川崎はそれを榊原に返す。そして鍵は薫子のブレザーの内ポケットに納められた。
「これでやっと、終わりだな」
榊原は岡田が投げ捨てていった懐中電灯をひろう。
「良かったねえ、裕也」
朱美はぴったり榊原の横に寄り添う。榊原は朱美に視線も合わさず、仏頂面のまま上を向いた。
「自分は早く帰りたいっす、先輩」
「ああ、それじゃいくか」
「思えばこの娘も気の毒ね、こんなに可愛いのに」
「ああ、でもこれでもう会うこともないだろ」
三名は薫子に背を向ける。
パサッ、その時後で何かが落ちる音が響いた。
「そんな事ないですよ」
あまり間をおかず声がする。
一同は、その場に立ち止まった。
「おい、朱美。お前いま何か言ったか」
「アタシじゃないわよ」
「誰かいるのかよ」
三名は後ろを同時に振り返る。
それまで曇っていた夜空から、満月が顔をだす。月光が東屋内に斜めから差し込み始めた。
一同息を飲んだ。
ベンチに寄りかかった状態で斜めに座っている薫子の頸の周りには、ボビ男がぐるっととぐろを巻いている。
薫子は体は、ぎこちなくゆっくりと起きあがり、真っ直ぐに座り直した。
「私ならここにいますよ、みなさん」
「あぁぁぁ!」「ひぃぃぃ!」「いやぁぁぁ!」
榊原、朱美、川崎は、三名同時に悲鳴を上げ、脱兎のごとく駆けだした。
朱美はそのまま助けを求めて、一番近くの派出所に駆け込む。彼女は恐怖に震えながら事の次第を警官に全て話してしまった。当然、榊原が栽培してる大麻のことも洗いざらいだ。
朱美の供述を聞いた派出所の巡査は、公園の東屋に出向くが、そこには薫子の姿はなかった。しかしマンションを訪ねると、本人は何事もなかったように帰宅していた。
薫子は調書は取られたが、記憶が曖昧で榊原等に不当な扱いを受けたという意識はいっさい無かった。
その晩榊原と川崎はマンションに帰ることもできずに、行きつけの漫画喫茶で夜を明かした。
朝になると、朱美の証言を受け、二人の居場所の見当をつけた県警の刑事が、漫画喫茶で二人を発見し任意同行を求めた。
榊原も川崎も素直に大麻栽培を認めたが、刑事が榊原宅に踏み込んで、プランターを覗くと、その植物は大麻ではないことがプロの目から見てはっきりわかった。
榊原は高い金を払い大麻の種子とだまされて、ケナフという毒にも薬にもならない植物の種を渡されていたのだった。
川崎に渡された紙巻きタバコは、マリファナではなく中南海という銘柄の中国製漢方薬入りタバコでしかなかった。。
川崎はすぐに警察署から帰された。榊原の行いは犯罪としては成立しなかったが、田舎の親を呼び出され、一緒に署内でさんざん人情派刑事の説教を聴き、翌日の晩に放免となった。
エピローグ
そして、時は二月ほど流れた。季節は初夏を迎えようとしている。
「ヘビ君、ちゃんと大人しくしているんだよ」
今では薫子は、ホソツラナメラの元ボビ男をそう呼ぶ。
neurological suspended animation syndrome “神経学的活動停止状態症候群” 珍しい病名だ、薫子は数千万人に一人というこの、珍しい病なのだ。急激な感情の変化によって、生体活動が一時停止し、仮死状態に陥る事もある。
あの事件以来薫子は爬虫類に対する恐怖感がなくなり、かえって愛着すら覚えるようになっている。
優しく頭を薫子に撫でられ、ヘビ君はチロチロと赤い舌を出して応えた。