春の饗宴
夜の闇が忍び寄り、心をざわめかせる狼の遠吠えが聞こえてきた。
家の裏手にいたジェイルズは一度顔を上げるものの、また作業に没頭しだす。
雪が降ってきた。早く埋めなくては。
深く掘られた穴の中に入ったまま、ジェイルズは穴の横におかれた布袋に包まれた遺体に目をやりながら黙々と穴を掘る手を動かし続ける。
可愛い妹だった。そして俺は何もしてやれなかった。
凶作の夏が続いた後に当然のごとく襲ってきた飢饉、そして流行り病。
ジェイルズはついに一人になった。
たくましく大柄な身体はやせ細り、端正な顔立ちは、今は無精ひげをそろうともせず、頬は痩せこけ、目の下のクマは深く、目ばかりがぎょろぎょろと見開かれていた。
まるで、いま狼が襲ってこようとするならば、逆に返り打ちにして喰らってやろうかと言っているかのようだった。
狼も飢えていたが、ジェイルズもまた飢えていたのだ。
残った村人たちは家々に閉じこもり、僅かに残った体力を温存した。家中をひっくり返し、麦一つでも残っていないか探し、腐った人参の欠片を表情を失った顔でいつまでも噛み続けた。
最初に馬がいなくなり、次に飼い犬が消えた。野良猫は一切見かけなくなり、鼠はあらかた捕りつくされた。山から狼以外の生き物が消えた。
隣の村では、ある男が自分の子供である赤子をスープにして食べたと泣きながら司祭に懺悔したという。その話を聞いて、みなさものありなんと思ったものだ。口に出さないまでも、みな一度は脳裏をかすめた事だったからだ。
先日、皮と骨ばかりにやせ細ったカモシカを見た。
逃げる体力さえ消え去ったのか、ジェイルズを見ても動こうともせずうずくまったままただ震えていた。あまりのやつれぶりに一度は引きかけた弓を下ろしたほどだった。
それでも、彼には唯一残った妹が家で待っていたから結局は射抜いた。しかし、弓を使わずとも捉えることはできたのではと思えるほどカモシカの体は軽く、まるで重さを感じなかった。
だが全ては遅く、家に帰ると唯一生き残った末の妹は冷たくなっていた。
涙はもう枯れはて、ただただ自分が情けなかった。一日だけ側にいると夜を待って庭に出た。
深く、深く穴を掘る。墓地には埋めず、人けのない庭にした。誰にも掘り返されないように、誰にも見られないように。飢えで正気を失った奴らに奪われないように。
可愛い子だった。可愛い妹だった。今はもう安らかに眠らせたい。
穴の底に遺体を横たわらせ、布地の上から頭を撫で、額に最後の口づけを落とす。
土をかけ、穴を埋め、その上に石を置いた。石を撫でながら、春になったらちゃんと墓地に埋め直してやるからと言う。母さんと父さん、兄さんたちや姉さん、友達もいるぞ、みんな一緒だ。だから辛抱してくれと。そう言って、妹が死んでからはじめて泣いた。
夜も深くなるとすっかり吹雪になった。
幾重にも服を着込んだ彼は暖炉の前に陣取ったまま、カモシカのスープをすする。
この吹雪はいつまで続くのだろうか。このまま何日も続けば何れ自分は死ぬだろう。それならそれでいいと自嘲じみた笑みがジェイルズの顔に浮かぶ。
中央では国が食糧庫を解放し、救済院に行けば食べ物にありつけるという噂だった。
食料の支給は一日一回だけ。それでも長時間並ぶ価値があるはずだ。別にわざわざ中央まで行く必要はない。近くの都市部にもようやく食料が回ってきてるという話しだった。
だが、病身の妹をかかえ、人里離れた村に住むジェイルズにはその選択がなかった。おまけに雪に道を閉ざされ、今また降ってきた。村にはいったいどれだけの人が残っているかさえ分からない。もしかしたら自分一人かもしれなかった。
彼は孤独の中にただ一人いた。
外は相変わらずの吹雪で時折吹く風がドアや窓を揺らす以外、無音の世界だった。狼の遠吠えももう聞こえない。
最後の一口を飲みきると、ジェイルズは寝ることにした。
今までずっと僅かに残った食料も妹に分け与えていたから、久しぶりに満足する食事量と言えたが、まるで嬉しくなかった。虚しさだけが去来し、喪失感で胸がいっぱいだった。
このまま死ぬのもいいかもしれない。
ジェイルズはかつて戦で活躍した兵士だった。平民の出でありながら、騎士としての叙任もという話まで出たが、彼は断った。
剣をふるう生活には、もう飽き飽きしていたからだ。最初は、剣の使い方にたけている、どうやら頭の方もいいらしいと地元で評判になり、領主に目を掛けられ中央に出てきた。
領主への恩と家族への愛に報いるため、がむしゃらに戦ってきたが、いつしか虚しくなってきた。栄光への道にはなんの魅力は感じず、ただひたすらに故郷に帰りたかった。上官からの嫉妬や仲間同士の足の引っ張りあいにも正直辟易した。
帰ってみれば、この飢饉だ。村人のなかには彼を疫病神だと罵る者さえいた。
領主は城に来るよう言ってくれたが、両親は頑なに故郷の村を出る事を拒み、彼もまた家族が心配で家に留まり続けた。結果、誰一人として守ることはできなかった。
領主の城は遠く、道は閉ざされた。それでも無理をしてでも妹を背負い、城に行くべきだったかもしれない。でももうそれも過ぎたこと。
ジェイルズは寝台に横たわり、目を閉じる。
もうこのまま目を閉じなくてもいいとさえ思えるそんな夜だった。
そういえば、今日は祝日ではなかったか?
寒い夜を乗り切るため、冬の女神が家々を回って暖炉に火をおこしてくれるのだとか。その証拠に、冬だというのに女神が歩いた後には鮮やかな赤い花が咲くのだとか。そして、赤い花が咲いた箇所から雪が溶けだし、春がやってくるのだ。
他愛もない言い伝えだった。
本来であれば、女神の訪問を歓迎するため、夜寝る時に机の上にありたっけのごちそうを置いておくのが常だった。翌朝、食べた後があったら、女神が来た証拠。
でも、それは子供を喜ばせるために両親や上の兄弟達が食べた証拠でもあった。それを知らない幼子たちは目を輝かせながら、残ったごちそうを朝から食す、そんな祝日の過ごし方をすることがまたあるのだろうか。
遠い昔のような朝の事を思い、ジェイルズの口から小さなうめき声がもれる。
その時、戸を叩く音がした。
彼は瞠目する。顔を上げたものの、そのまま動けない。
村人の誰かだろうか。しかし、ここ最近訪ねてくる者などいなかった。
もしや、カモシカのスープの匂いを嗅ぎつけたでもいうのだろうか。この吹雪の夜に?
疑心暗鬼になりながら、ジェイルズは常に傍らに置いてあるナイフを手に取ってそろりと身を動かして、扉に近づく。また音がする。さっきよりも強く。この叩き方は風の気まぐれでも動物でもない。人間だ。しかし、誰なんだ?
ジェイルズは一瞬ためらった後、勢いよく扉を開ける。
すると吹雪と共に目が覚めるような赤いものが飛び入ってきた。
獣かと警戒しつつ思わず受け止めるとそれは確かに人間だった。人間の少女だ。彼は混乱しつつも、扉を閉め、腕の中の少女をまじまじと見つめる。
少女は一瞬だけジェイルズの目をとらえると瞼を閉じてしまった。どうやら気絶したようだ。
まだ驚きで興奮が冷めない状態だったが、彼は少女の体を抱えると暖炉の前に寝かせ、改めて観察する。
花の模様が入った鮮やかな赤い服は奇妙な形をしており、胴回りで閉めた幅広の布地でこれまた布を巻きつけているかのようだ。冬だというのに、足首が見える。そもそも靴が変だ。反対に、首周りには真っ白な毛皮を巻いていて暖かそうだった。
まったくもって奇妙な格好だったが、赤い花の髪飾りといい、上等な代物であるものがわかった。
顔立ちは異国の女そのもので、子供のようにあどけない表情で眠っている。卵型をした頬は丸みを帯びていて、この少女が飢えとは無縁の世界にいたことを物語っていた。
そっと手に触れてみると氷のように冷たい。ジェイルズは慌てて自分の上着をかぶせ、暖炉の火を強くした。
この少女はどこから現れのだろう。まずそれが疑問だった。家族や仲間はいないのだろうか。もしや、旅途中に狼の群れに襲われたのか。十分に考えられる事だ。そして、彼女は逃げてきたのだ。
そういったん結論付けたものの、どうにも落ち着かない。
ジェイルズは出てもいない汗を脱ぐように額に手をやって、もう一度まじまじと少女の顔を見つめる。
暖炉の火にあてられ、ほのかに色づく頬は健康そうで、この世の穢れを一切知らないかのようだ。十分に栄養のたりた艶のある黒髪をしていて、瞳も闇のように黒いことは先程一瞬だけ見開かれたので分かっている。
肌は梨の花のように白く、やわらかそうな唇は桃色で、下唇がぽてっとしていて可愛らしい。
そう思ったところで、はっとしたようにジェイルズは少女から身体を離す。
村に帰ってからというもの、いたって健全な生活をおくっていた。
言いよってきた女たちもいたが、狭い世界の中で大事になるのが嫌で距離を置いていた。そして、この飢饉だ。そんな気力も体力もないと思っていたが、いざ健康そうな女を前にしたらこれだ。しかも、いくら女だとはいえ、こんな年端もいかない少女を前に。
ジェイルズは立ち上がると扉を少しだけ開け、少女の仲間がいないか視界の悪い吹雪のなか目を凝らすが、なにも捉えることはできなかった。扉を閉めると、暖炉の前ですやすやと眠る少女に目を戻す。
格好こそ奇妙だが、大切に育てられたきたであろうことがその無垢な顔立ちから分かる。
雪の夜に現れては人をたぶらかすという妖女にも見えない。ただの女の子だろう。それは分かるが、この先どうしたらいいのかと考えると途方に暮れてしまう。彼女の家族を探すべきだろう。だが、この吹雪はいつ止むのか。そもそも言葉が通じるのか。分からないことだらけだ。
しかし、何故だろうか。
最愛の妹を失ってからとういもの、白黒の世界にいたように感じられたのに、今は鮮やかな色彩を感じられる事ができた。
目に眩しいほどの赤い衣服を身にまとう少女を見つめながら、ジェイルズは困惑する。気のせいか、暗く淀んでいた室内までも色鮮やかになったような錯覚がした。少女の頭に飾られた赤い花が彼を困惑させる。
まるで女神の贈り物でないか。
彼女は普通の女の子で、家族を探してやるべきだ。そう思うと同時に、少女を手放したくないという焦燥感にかられる。自分の気持ちが分からなかった。
ただ一つ分かるのは、この少女を妹のように無残に死なせはしないという不思議な使命感を自分が持っている事だった。
できる事ならこの悲惨な飢えだって経験させたくない。幸せに、何の不自由もさせたくなかった。少女は知らずのうちに生きる意味を、ジェイルズに与えていたのだった。
ただ、それを知るのはもう少し先のこと。
翌朝、吹雪はやみ、雪をかき分けるようにして領主率いる救援隊がやってきた。
一回りやせ細っているものの瞳に宿る力強さを見て、ジェイルズは改めてこの清廉潔白で勇気のある領主を尊敬した。
領主もまたジェイルズの生きる活力を失っていない姿に安堵したようだが、彼の後ろに隠れるようにしてこちらを伺っている異国の少女の姿を見て首をかしげた。
その日以降、雪は僅かにしか降らなくなり、ようやく春の兆しが見えてきた。
救援物資も少しずつだが届くようになり、僅かに残った村人たちは分け合うようにして食べ、一つの鍋を囲むようにして村の再建について幾度も話し合った。話し合いはいつのまにかジェイルズが中心になっており、彼の傍らには黒髪の少女がいるのが普通になった。
「ゆき、がとけると……。は、はるがきました」
指先で文字を追う少女の背後に立ち、ジェイルズは満足そうにうなずく。
「そうだ。サキ。よくできたな」
ジェイルズが褒めれば、サキが嬉しそうに笑い、椅子に座ったまま首だけ捻って彼を見上げてくる。
「……次、読みなさい」
手を振って先を促す。
赤くなった耳に気づいていなければいいが。ジェイルズは頬まで赤く染めながら心配する。
「はるがきました。それは、めがみの――」
サキの澄んだ声が心地いい。
言葉は大分できるようになったが、読み書きの方はまだ不十分でこうしてジェイルズが時間を見つけては教えてやっていた。
一緒に冬を越し、春を迎えた。もうすぐ初夏の気配がただよってきた。
もう飢える心配もない。最初こそ手間取ったサキとの意思の疎通も難なくできる。その中で、彼女が異世界からきたこと、ちょうどサキの世界でも祝日だったこと、あの奇妙な衣服はその日のために用意したものであったこと、その祝日とは成人を祝う日だという事を知った。
最後が分かった時のジェイルズの喜びようときたらなかった。
幼さが残る顔立ちのため、あと二、三年は待たねばならないだろうと思っていたのだ。成人であれば問題ない。
夏から城の衛兵隊長をしてほしいと領主から頼まれている。
ジェイルズはサキが一緒ならと条件を出すと、ならば奥方の侍女につけるのはどうだろうと提案された。なるほどとジェイルズは感心した。行儀作法も覚えるだろうし、奥方の後ろ盾がつけば、サキにとっても都合がいい。
「……あの日、急に景色が変わった」
サキは遠い目をして語る。
「私の世界でも雪が降ってたけど、吹雪を抜けると、いきなり辺り一面真っ白になってて」
時折、誰もいない部屋でこの世界に来た時身に着けていた衣服を大事にしまっている衣装箱を開ける寂しそうな後ろ姿を知っている。
後ろからおもいきり抱きしめてやりたいのに、ジェイルズは未だにできないでいた。
「目も開けていられないほどの吹雪の中で明かりが見えて……。それがジェイルズの家だった」
ほんのりと微笑むその顔をはさみこんで語ってやりたい言葉がたくさんあった。
でも、それはもう少しだけ先。
ジェイルズが目を細ませ、サキの頭を撫でれば屈託のない笑顔を見せてくれるもんだから、心臓が破裂しそうになった。
既に領主様からの許可は得ている。後は、サキの許可だけだ。兄のように慕ってくれているのは嬉しいが、この関係性から抜け出さなければ。奥方様はもう少し待てばと言っているらしいが、俺の方がもちそうにない。何しろ一緒に住んでいるのだから。
この夏、ジェイルズは花嫁と共に城に行くつもりだった。
「女神の言い伝えは本当だった」
ジェイルズの口からぽつりともれた言葉に、サキが驚いたように目を見開く。
「そうなの? ジェイルズは女神様を見たの?」
「ああ」
サキの頭をもう一度やわらかく撫で、気付かれないように頭の上に口づけを落とす。
「春が来た。ごちそうをたべるのはもう少し先だけどな」