命懸の初戦
人間、一度腹を括ってしまうと逃げるとか退くとか、そういう選択肢はなくなってしまうようだ。
もちろん、そういった選択が不可能である、という前提条件もあるのだが。
銀手が持っている能力とやらを、夕介はまだ把握できていない。なんとなく意識を寄せてみれば思い通りに空中を動くようだが、それしかわかっていない。その他の能力があるのか、それだけなのか。それすらも判明していないのだ。
それでも、今この場から撤退しようとは思わない。
突如手に入れた特殊能力で強大な敵に立ち向かう。
まったく、主人公にもほどがある。
「よかったな夕介。これが憧れの主人公だろ」
どうやら同じことを考えたらしい陽が、できる限り軽い調子でそう笑った。その様子から察するに、彼は夕介ほどこの環境に適応できていないらしい。
いや、それが当然か。
これは物語の世界でもなんでもない、現実の出来事だ。夕介のようにあっさりと心構えをしてしまうことの方が異常なのだ。
それでも、無理なジョークを絞り出して心を奮わせ、陽も夕介や美咲を守ろうとしている。
「どうせなら、光の剣でもくれればよかったのにな」
だから夕介も努めて気楽な調子で応じ、カーニヴァルに向き直った。
トラのような形をした異形のそれは、相変わらず凶悪な目をすがめ、夕介たちをにらんでいた。今にも飛び掛かってきそうな殺気が全身からあふれている。
さて、どうしよう。
強がってみたものの、この場を切り抜ける策は一切ない。逃走という選択がありえない以上、戦って勝つしかないわけだが……。
さて、この銀手でどれだけのことをやれるだろう。
考えた瞬間、カーニヴァルが跳躍した。
筋肉の塊と言っても過言ではない太い後ろ足で教室の床を蹴り、その巨体で夕介に迫る。
でかい。間近に迫ると余計にそれを実感する。この猛獣に圧し掛かられようものなら、夕介の華奢な体などひとたまりもないだろう。
全身を砕かれ、肉片と化す自分自身の映像が、脳裏をよぎった。
「くそっ!」
咄嗟に念じて、銀手を飛ばす。
しかし、これは気休めだ。夕介の手と同じ程度の大きさの銀手が、カーニヴァルの重量を押し返せるわけがない。
早く次の手を―
だが、現実は夕介の予想を裏切った。
カーニヴァルを受け止めた銀手は、そのまま巨体を掴み、夕介に向かってきていた進路を大きく曲げて真横にぶん投げたのだ。
派手な音を立てて黒板にぶつかるカーニヴァル。トラのような巨躯が落ちた時、黒板は大きくへこみ、砕けていた。
「……夕介、すごいな」
「俺にとっても予想外だ……」
どうやらこの銀手、相当の怪力らしい。
もしかして、銀手の能力というのがそれなのだろうか。
「怪力使いって、かませ犬のイメージなんだけどな……」
もちろん、夕介の偏見によるイメージである。なお、彼の中では、炎使いや風使いもかませ犬だ。
まあ、とにかくこれでカーニヴァルを退けられたのなら―
「夕介、後ろだ!」
突如、陽の声が教室に響く。
その声に反射的に振り返った時、夕介は手遅れを実感した。
カーニヴァルの巨体が、ある。
夕介の眼前、もう一メートルもない距離から、跳びあがり彼を見下す位置から、獣が迫っている。
倒せなかったのだ。ちょっと投げ飛ばした程度でどうこうできるような相手ではなかったのだ。
死。
その一文字が、脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。瞳に焼き付けられたかのように、カーニヴァルの鋭い爪が視界から消えてくれない。
銀手―だめだ、間に合わない。獣はすでに至近距離まで迫っている。銀手が巨体を弾くより、その爪が夕介を切り裂く方が早いのは目に見えている。
ゲームオーバーだ。
直後、彼の視界が激しく揺れた。地震でも起きたのかと錯覚するほどの揺れに耐えきれず、何も理解できないまま尻餅をつく。
無意識のうちに目を閉じてしまっていたようで、果たして自分がどうなったのか知るのも恐ろしいが、恐る恐る開く。
怪我をしているだろうか。怪我で済んでいるだろうか。もしかして痛みを感じないだけで、とんでもない致命傷を負ったのではないだろうか。
しかし、現実は夕介の予想を大きく裏切った。
目を開いた時、夕介はかすり傷ひとつ負っていなかった。ただ、教室に尻餅をついているだけだ。
そして彼の目の前には、親友がいた。
「ぎりぎり、セーフだな」
そう言って、巨大なブーメランを肩に担いだ陽は安堵したように笑って見せたのだ。