1話 その人の名は
吉祥寺駅の栄えていない方の出口を出て10分と歩かない場所は、ぽつぽつと家が立ち並ぶ。
手入れの施されていない庭は草が無造作に生えて、主の性格を表している。
現に主は花や植物を愛でない。
それだけでなく、他人にどう思われているのか知ったこっちゃないので、こういう家の顔である玄関に気を使わないのだ。
主の名前は鷺宮春。鷺宮、が名字で、春が名前。
ぼさぼさの襟足長めのショートボブの先っちょは痛んで赤くなっているが、本人はまったく気にしない。
Tシャツとジャージを膝までまくって、完全に家の中でのくつろぎモード全開だ。
だが、主は仕事をちゃんとする。
こげ茶色の床板をした縁側で寝ていた主は、ふ、と立ち上がり、時計を見た。
さす時間は15時。
だが、主はおやつを食べるために起き上がったのではない。
ふいと視線を鏡台に向けた。
なんとも洗練されない姿がそこに映し出されていたが、それがふわん、と波打ったのだ。
「お客さん。時間ぴったりですね」
春がそういうと、そこから手が伸びてきた。
細い、すらっとした手だ。
次に腕、肩、そして、全身が鏡からにゅるり、と出てきた。
そしてすべてが出終わると、
この純日本風家屋にはふさわしくない、女性がそこにはいた。
白い手袋は肘ほどまであり、ふわりとボリュームを持たせたドレスは純白だ。
ところどころちりばめられたストーンが午後のなにげない光を反射してきらめいている。
女性は艶のあるプラチナブロンドの髪の毛をしており、少々戸惑っているのか、不安そうにあたりをしきりに見渡している。
春は特に見た目に感想を抱かず、女性に向かって言った。
「んえっと、予約してたクリスさん、でいいんですよね?」
「は、はい」
か細い声が春の鼓膜に触れた。
なるほど、悪くない。
「そんじゃあもう一度、名前と年齢を正確に偽りなく、自分に教えてください」
主にそう促され、クリスという女性は、息を浅く吸って、言った。
「く、クリス・オーフェン。23歳です」
「結構。じゃあ早速ですが」
「ま、待ってください」
クリスが春に声をかける。
なんでしょう、と春が振り返ると、クリスは少したじろいだものの、雑音のない透き通った声で問うた。
「私は本当に、この世界で働けるんですよね?」
かりかり、と春は頭を掻いたのち、なんとも歯切れの悪いうなり声を出した。
そして、クリスの方を向き直った。
「うまくいくかどうかなんて、貴女次第ですよ。
自分は紹介するまで。貴女が働きたいと望んだから貴女は自分に会うことができ、ここに来ることができたのです。
勘違いしてもらっては困ります」
「・・・すみません。あの、ここは一体どこなんですか?」
歯に衣着せぬ春の言葉にしゅんとなったクリスは、とりあえず別の質問をした。
春はふぅーん、とうなった後、座布団の上に座って言った。
「ここは吉祥寺徒歩10分の一軒家。
貴女が住んでいたお城とはまったく常識の異なる、別の世界ですよ」
春に促され、クリスは春の目の前にぺたんと腰を下ろした。
ちゃぶ台の上に乗っているものに興味をひかれたらしく、しきりに碧い眼をくるくるさせているが、春はてんで興味がないようだ。
そして、ちゃぶ台の下からファイルを取り出すと、自分にしか見えないように立てて開いた。
時折ちらちらとクリスをみるので、彼女は居心地が悪い。
そして、春は言った。
「んで、貴女がこの世界に来た理由は、
国王の妃をやめたいこと、でいいんですよね?」
うなづいたクリスを見て、春はファイルを閉じた。
吉祥寺駅から徒歩10分。
そこに、働きたい人に職業を紹介するだけ紹介してあとはぽい、という、仕事といえるかどうかわからないことを生業としている、
鷺宮春の住む家がある。