ファーストコンタクト
飛行機事故等の描写が少しあります。気になる方はご注意ください
# ファーストコンタクト
## 第1章 第一発見者
その夏、世界で最初にそれを捉えたのは、世界に名だたる巨大天文台でも、国家予算で運営される観測施設でもなく、長野県の片田舎、山の中腹に建つ小さな天文台だった。
そこで夜更かしをしていたのは、佐伯宏樹と高梨理沙。大学時代からの天文仲間で、交際を始めて数年になる二人だった。二人とも職業研究者ではなく、時々この天文台の観測を手伝っている天文好きだ。
その夜、観測室に残っていたのは二人だけだった。
「なあ、これ……見ろよ」
冷え切ったコーヒーの紙コップを片手に、宏樹は隣に座る理沙の肩を小突いた。
「なに?」
「これ」
理沙は食べ終わったカップ麺の蓋を閉じると、椅子を蹴って宏樹の隣まで滑ってきた。
薄暗い観測室を照らしているのは、パソコンのディスプレイが放つ青白い光だけだった。宏樹が指し示したモニターの端、ありふれた星々の群れに紛れて、見慣れない一つの光点が瞬いている。
「人工衛星のデブリとか?」
「いや、軌道が違う。それに……これ」
宏樹がマウスを操作し、観測データを軌道計算にかけると、使い込まれたパソコンのファンが、ぶおお、と景気よく唸り始めた。
「頑張れ。お前ならできる」
宏樹がパソコンの天板を撫でると、理沙にぴしゃりと手を払われた。
「触らないで」
「触ったくらいで壊れねえよ」
「先月もそう言ってた」
「先月のは俺のせいじゃない」
「修理代、いくらしたと思ってんの」
「……」
「しかも、あの部品もう手に入らないんだからね」
宏樹は黙って手を引っ込めた。
やがて演算が終わり、画面に一本の曲線が描かれた瞬間、二人の動きが止まった。太陽を回る楕円ではない。このまま自然天体として飛び続けるなら、太陽系を横切って二度と戻ってこない双曲線軌道だった。
「……双曲線軌道?」
「ああ」
宏樹は椅子を引き寄せ、計算条件を一つずつ確認してから、もう一度同じ計算を走らせた。
結果は変わらない。
「外から来てる」
「外って?」
「太陽系の外だ。文字通りの、な」
理沙が画面へ顔を寄せた。
恒星間天体。それ自体は、もはやSFの産物ではない。人類はすでに、太陽系外から飛来した天体を観測したことがある。
だから、この時点ではまだ「とんでもなく珍しい天体を見つけた」という話で済んでいた。
最初に我に返ったのは宏樹だった。
「……報告」
「え?」
「先に報告するぞ」
宏樹がキーボードへ飛びつく。
「ちょっと待って。まだ確認取れてないよ。機械の誤作動かもしれな――」
「だからだよ! こういうのはな、見つけた順じゃなくて『報告した順』なんだよ、天文学の世界じゃ!」
「そこ!?」
「そこだよ!」
本当に未知の天体なら、自分たちが慎重に確認している間に、地球の裏側で誰かが同じものを見つけるかもしれない。先に報告されたら、第一発見者として歴史に残るのはそちらだ。人類史に残るかもしれない大発見を前にしても、人間というものは案外そういうことを気にする。
「座標確認!」
「してる!」
「時刻!」
「入ってる!」
「画像!」
「添付してるっての!」
宏樹が入力し、理沙が横から確認する。数分後、長野の小さな天文台から、新天体候補の観測データが世界中の研究者ネットワークへ放り込まれた。
送信を終え、宏樹は椅子の背へ身体を預けた。
「……やった」
「まだ何も決まってないからね」
「分かってるって」
そう言いながらも、宏樹は何度も受信箱を更新していた。
「更新したって早くならないよ」
「分かってる」
「じゃあやめなよ」
「それとこれとは別だ」
1時間もしないうちに返事が来た。
『こちらでも確認。既知天体との一致なし。追観測に入る』
宏樹は椅子から勢いよく立ち上がった。
「来たっ!」
理沙も画面を覗き込み、二度読み返してから宏樹と顔を見合わせた。
「……これ、マジのやつじゃない?」
「たぶんね」
宏樹は再び椅子へ崩れ落ち、天井を仰いだ。
「名前、何にしようかな」
「ヒロキーヤラカシ2235」
宏樹が勢いよく顔を戻した。
「何だよそれ! あと2235って何!?」
「知らない。なんかそれっぽい数字」
「命名者に対する敬意は!?」
「発見者ね」
「そう、それ!」
理沙は笑いながら再びモニターへ向き直ったが、そんな軽口を叩けたのもそこまでだった。
地球が自転し、夜が世界を移動していくにつれて、各地の望遠鏡が同じ一点へ向けられていった。世界中からデータが集まって観測精度が上がり、宏樹と理沙もその間ずっと観測室に残って、届いたデータを開いて照合し、自分たちの観測結果を送り返し続けた。
やがて画面に、推定値が表示された。
直径、およそ4キロメートル。
「でか……」
理沙が思わず呟いた。
十分すぎるほど巨大だったが、本当に研究者たちを驚かせたのは大きさではなかった。理沙が新しく届いた観測値をグラフへ追加し、数秒後、眉をひそめる。
「……宏樹。これ、減速してない?」
「は?」
宏樹が画面に飛びつき、数値を確認して計算条件を洗い直した。
「……してるな」
「太陽に近づいてる途中なのに?」
その一言で、宏樹の手が止まった。
太陽系外から飛び込んできたこと自体なら、まだ説明はつく。恒星間天体なら、そういう軌道を取る。問題は、そこから先だった。
変化はごくわずかだが、確かに速度が変わっている。太陽や惑星の重力だけでは説明できない挙動で、世界各地から集まった観測結果でも同じ答えが出た。
宏樹が黙ったまま研究者たちの集う掲示板を更新すると、新しい書き込みが現れた。
『おい……これ、人工物じゃないのか』
宏樹の指がマウスの上で止まった。理沙も何も言わない。
誰もすぐには答えなかったが、その可能性を笑い飛ばす者もいなかった。
太陽系外から飛来した、直径4キロメートルほどの物体。それが、自然天体では説明できない速度変化を起こしている。
その夜のうちに観測データは各国の宇宙機関へ送られ、さらに政府へ上げられた。まだ人工物と決まったわけではない。そう断定するには、もっとデータと確証が必要だった。
二人は明け方近くまで観測室に残った。
そして翌日、追加観測どころの騒ぎではなくなった。
世界中で、電波を利用する機器がまともに使えなくなった。
## 第2章 圏外
最初に異変に気づいたのは、スマートフォンを使っていた人々だった。
東京、昼前。
「もしもし? だからその件は――もしもし?」
雑踏の中を歩いていた会社員が怪訝な顔でスマートフォンを耳から離すと、通話は途切れ、画面には『圏外』の文字が出ていた。周囲でも同じように人々がスマートフォンを覗き込んでいる。
「なんか繋がらなくない?」
「こっちも圏外なんだけど」
「通信障害か?」
その時点では、誰も大したことだとは思っていなかった。どこかの大手キャリアで大規模な障害でも起きたのだろう。せいぜい、その程度だった。
長野の天文台でも、宏樹は同じことを考えていた。
「なんだよ、圏外じゃん」
スマートフォンを窓際まで持っていき、少し高く掲げる宏樹を、理沙が横目で見た。
「それで入ったら苦労しないでしょ」
「気持ちの問題だ」
「電波に気持ちは通じない」
「夢がないなあ」
宏樹はスマートフォンを机へ戻した。理沙も自分の端末を確認する。
「私も駄目」
そのとき、観測室の隅に置かれていたラジオから音楽が消え、ざあああああ、と激しい雑音が流れ始めた。
二人の視線が同時にそちらへ向かい、宏樹が立ち上がってラジオへ歩み寄る。
「……こっちも?」
周波数を変えても雑音しか聞こえない。
「AMは?」
「駄目」
「FM」
「駄目」
理沙が立ち上がった。
「テレビ」
二人がテレビをつけると、映像は大きく崩れていた。
「……何これ」
宏樹の顔から、さっきまでの軽さが消えた。
そのころ、世界中で同じことが起き始めていた。家庭ではテレビの映像が激しいノイズに埋め尽くされ、車のカーナビはGPS信号を拾えず現在地を見失い、駅員も警察官も業務用無線へ何度呼びかけても、返ってくるのは雑音だけだった。
携帯電話だけではない。Wi-Fiも衛星通信も、テレビもラジオも、船舶無線も軍用通信も同じだった。
機械が壊れたわけではない。受信機も送信機も正常だった。ただ、空中を満たす正体不明の電波があまりにも強く、人類が使っている信号は、その中へことごとく埋もれていた。
通信会社は周波数を切り替え、技術者たちは強力なフィルターを試し、軍は妨害に強い通信設備を投入して変調方式そのものまで変えたが、それでも駄目だった。
どの周波数帯を探しても、正体不明の電波が隙間なく埋め尽くしている。人類の通信が入り込める場所など、どこにもなかった。
そして事態の深刻さを理解するより早く、空の上で最初の悪夢が始まった。
羽田空港。
「ジャパンエア1846、こちら東京アプローチ。応答してください」
管制官のヘッドセットから返ってくるのは、乾いた雑音だけだった。
「ジャパンエア1846、応答してください」
返事はない。隣の管制官も声を上げる。
「オールニッポン673、こちら東京アプローチ。聞こえますか」
やはり雑音しか返ってこない。
「レーダーは!?」
「ノイズがひどい! まともに拾えません!」
レーダー装置そのものは動いている。だが、返ってくる微弱な反射波が、空を埋め尽くす強烈な電波の中へ沈んでいた。
「ライトガンを用意しろ!」
管制塔から強い光を使ってパイロットへ指示を送る準備が始まったが、それで伝えられる情報は限られている。
空の上でも同じ混乱が起きていた。
「東京コントロール、こちらジャパンエア1846――」
返ってくるのはノイズだけ。機長は周波数を切り替え、緊急用周波数も衛星通信も試した。
「GPS、受信できません」
「慣性航法は?」
「正常です」
「なら飛べる。空港へ戻る」
飛行機そのものは壊れていない。エンジンも操縦系統も正常で、慣性航法装置も生きている。
問題は、世界中の航空機から同じ瞬間に地上と話す能力が奪われ、地上から空全体を把握する能力まで大きく損なわれたことだった。大半の機体は、残された航法装置とパイロットの訓練を頼りに最寄りの空港を目指した。
羽田では、ジャパンエア1846便が滑走路へ降りた直後、その後方からオールニッポン673便が接近した。先行機はまだ滑走路を離脱していない。
後続機の副操縦士が前方を凝視する。
「滑走路、機体!」
機長が即座にスラストレバーを押し込んだ。
「ゴーアラウンド!」
ジェットエンジンが唸りを上げ、巨体が滑走路すれすれで再び空へ舞い上がった。
そこでは衝突を免れた。だが、別の場所ではそうはいかなかった。
東南アジア。
激しいスコールの中、一機の旅客機が管制との通信も衛星測位も失い、着陸進入を断念して安全のため上昇を選んだ。ほぼ同じころ、雲の向こうにいた別の旅客機も通信を失って進路を変更していた。
二機とも正常だった。どちらのパイロットも、正しい判断をしようとしていた。ただ、互いがそこにいることを知らなかった。
二つの機体が雲の中で急接近し、互いの姿を認めたときには、もう遅かった。
鉛色の雲の中が一瞬だけ赤く染まり、遅れて爆音が響いた。燃えながら砕けた機体が地上へ降り注いでいく。
さらに、別の大陸。
一機の旅客機が悪天候の中、大都市近郊の空港へ向かっていた。管制との通信はなく、GPSも使えず、地上からのレーダー誘導も受けられない。残された航法装置とパイロットの判断だけを頼りに、機体は厚い雲を抜けて高度を下げていく。
「滑走路、見えません」
「もう少しだ」
機長が前方を睨み、やがて雲が切れた。
副操縦士が息を呑む。
「違う!」
操縦席の正面に見えたのは、滑走路ではなく建物だった。
「上げろ!」
エンジンが最大出力まで叩き上げられ、機首が上がる。
だが、間に合わなかった。
主翼が高層建築の一部をかすめ、その衝撃で機体が大きく傾いた。旅客機はそのまま住宅と商店が密集する市街地へ墜落し、満載された燃料が炎となって周囲へ広がって、住宅数棟を一気に飲み込んだ。
乗員乗客だけではない。道路を走っていた車、建物の中にいた住民、買い物をしていた人々。地上でも多数の死傷者が出た。
同じ規模の惨事が世界中で起きたわけではない。だが、同じ原因による事故は、世界のいたるところで起きていた。別の国では小型旅客機が空港手前へ墜落し、山岳地帯では定期便が消息を絶ち、滑走路を逸脱した機体や予定外の空港へ緊急着陸する機体も相次いだ。
もちろん、世界中の飛行機が次々と墜落したわけではない。大半はどうにか地上へ戻った。それでも航空交通から、ほんの数時間前まで当たり前に存在していた「互いの位置を知り、互いに話す」という能力が消えた代償は大きかった。
海の上でも混乱が始まった。
大洋の真ん中を単独で航行する大型船なら、無線や衛星測位が使えなくても、すぐに航行不能になるわけではない。だが、東京湾やマラッカ海峡、英仏海峡のような過密海域では違う。船同士の位置や進路を交換する信号も、港湾管制との通信も成立しない。
濃霧の中で貨物船同士が衝突し、別の海域ではタンカーが浅瀬に乗り上げ、世界中の主要港が次々と入港作業を停止していった。
陸上でも、社会は急速に人力へ引き戻されていた。固定電話は生きていたが、すでに置いていない家庭も多い。携帯電話から110番や119番へ通報できず、出動した消防車やパトカーとも無線で連絡が取れない。救急隊も搬送先との連絡が取れず、患者を乗せたまま受け入れ先を探すことになった。
飛行機も、船も、車も、工場の設備も、壊れたわけではない。ただ、通信ができない。それだけで、現代文明は驚くほど簡単に立ち往生した。
長野の天文台では、宏樹と理沙が有線ネットワークへ流れ込んでくる情報を追い続けていた。天文台には職員たちも出勤しており、観測室の外では電話や足音が絶えず行き交っている。
「……飛行機、落ちてる」
理沙の声が低くなり、宏樹が椅子を寄せた。
画面には各国の観測施設や研究機関から転送されてきた情報が並んでいた。空港閉鎖、航空事故、港湾機能停止、大規模交通障害。
「なんだよ、これ……」
宏樹は自分のスマートフォンを手に取った。圏外で、電話一本できない。一方、目の前のパソコンでは地球の裏側から送られてきた観測データを読むことができる。
無線は使えないが、有線は生きていた。海底を走る光ファイバーも陸上の光回線も、固定電話も有線LANも使える。
「母ちゃんに電話くらいしたいんだけどな……」
「固定電話借りれば?」
「さっきから職員さんが使ってる」
「そりゃそうか」
世界中の研究者とデータをやり取りできるのに、数キロ離れた実家へ電話一本かけるのにも苦労する。妙な話だった。
理沙は観測データの更新を続けていたが、ふと手を止めた。
「……宏樹」
「今度は何?」
「信号源、出た」
宏樹が理沙のモニターを覗き込む。
正体不明の信号は地球上から発せられておらず、宇宙から来ていた。そして、その到来方向は――。
宏樹が画面を見たまま、ゆっくり椅子へ座る。
「……昨日のあれじゃねえか」
「うん」
昨日、自分たちが発見した謎の天体。その位置と、信号の到来方向が一致していた。
世界中の科学者が最初に疑った太陽フレアは観測データから否定され、大国による電子戦という可能性も、その大国自身が同じ被害を受けている以上考えにくい。
昨日、太陽系外から飛来した人工物らしきものが発見された。そして今日、その方向から、地球上の電波利用をまともに成立させないほど強力な信号が届き始めた。無関係と考えるほうが難しかった。
「俺たち、とんでもないもん見つけたんじゃないか?」
宏樹が呟いた。
「……たぶんね」
今度の「たぶんね」には、いつもの軽さがなかった。
2日目。
朝になっても空港には旅客機が並んだまま動かず、港湾も機能を大きく落とし、物流は目に見えて滞り始めていた。だが、前日とは一つだけ違うことがあった。
ほとんど眠らないまま観測室へ戻っていた宏樹の机で、スマートフォンが一瞬だけ音を鳴らした。
「……ん?」
画面を見ると、アンテナが一本立っている。
「理沙」
「なに?」
「入ってる」
理沙が振り向いた瞬間、表示は消えて再び圏外になった。
「今、入ったよな?」
「うん」
世界各地でも同じ現象が起き始めていた。数秒だけ携帯電話が基地局を掴み、ラジオからノイズに混じって人の声が聞こえる。使えなくなっていた無線通信が、少しずつ戻り始めていた。
理沙はすぐに昨日からの観測データを呼び出した。
「……弱くなってる」
「何が?」
「あの電波。昨日より出力が落ちてる」
宏樹が椅子を寄せる。
確かに、宇宙から降り注いでいる正体不明の信号は弱くなっていた。消えたわけではないが、地球側のあらゆる無線通信を力任せに押し潰していた前日とは明らかに違う。
「向こうで調整してる?」
「なんで?」
「知らない。でも、昨日からずっと出し方が変わってる」
理沙がグラフを切り替える。電波の強さは時間とともに明らかに変化し、最初は地球上の通信を完全に押し潰すほどだったものが、少しずつ弱くなっていた。
宏樹はしばらく画面を眺めた。
「……こっちの反応、見てる?」
理沙はすぐには答えなかった。
「そう考えると、辻褄は合う」
そして皮肉なことに、通信が回復し始めたことで、前日に世界各地で何が起きていたのかも急速に明らかになっていった。市街地への旅客機墜落や空中衝突、船舶の衝突や座礁、交通事故、通報や救急搬送の遅れ。各国政府から上がってくる数字は、時間が経つほど増えていった。
2日目の夜、有線ネットワークに流れてきた最新の集計を見て、宏樹の手が止まった。
「……4万?」
理沙も同じ数字を見ていた。
世界各国で確認された死者は4万人を超えていた。行方不明者ではない。確認された死者だけで、その数だった。
宏樹は何か言おうとしてやめた。理沙も黙ったまま、モニターの端を移動し続けるあの光点を見つめていた。
3日目になると無線通信はさらに回復し、携帯電話はまだ不安定な地域もあったが、ラジオ放送や業務無線はかなりの範囲で使用できるようになっていた。宇宙からの信号は、明らかに出力を絞っている。
宏樹は窓際に置いたスマートフォンを見る。アンテナは二本。今度は消えなかった。
「戻ってきたな」
「まだ不安定だけどね」
「昨日よりマシだ」
「うん」
ほんの少しだけ日常が戻り始めたころ、謎の物体にも大きな変化が起きていた。減速を続けていた直径4キロメートルほどの物体が、地球と月のほぼ中間付近で位置を保ち始めたのだ。
「……止まった」
「どこで?」
「地球と月の、だいたい真ん中」
「そこに?」
「いる」
理沙は観測画面に浮かぶ小さな光点を見つめた。
何のために相手がそんな場所まで来たのか。何のために電波の出力を調整しているのか。
その答えは、昼過ぎに突然現れた。
## 第3章 こんにちわ
「……宏樹」
「ん?」
「テレビ」
ここ数日まともな映像を映せずにいたテレビの画面が突然白く瞬き、ノイズの中に一文字だけ白い文字が浮かんだ。
『こ』
「……は?」
宏樹が立ち上がった瞬間、文字は消えた。
数分後、今度は『こん』と表示された。そのころには、通信を取り戻しつつあった世界各地から同じ報告が上がり始め、ロンドンでは『HE』、ニューヨークでは『HEL』と表示されていた。
「まさか……」
理沙が呟いた。
昼過ぎ、テレビ画面が再び激しく乱れ、ノイズの中央に白い文字が浮かぶ。
『こんにちわ』
二人とも黙った。たった五文字だった。数秒後には消えた。
「……話しかけてる、のかよ」
宏樹の乾いた声が、静まり返った観測室に響いた。
ここ数日、地球の無線通信を麻痺させてきた信号と、自分たちが発見した直径4キロメートルほどの謎の物体。その二つが一本に繋がった。
「……もしかしてさ」
宏樹が画面を見たまま言った。
「こいつら、ずっと通信方法を探してたんじゃないか?」
「どういうこと?」
「最初から俺たちの通信規格を知ってたわけじゃない。だから広い範囲に電波を出して、こっちがどう反応するか調べてたんじゃないか?」
理沙は少し考えてから、ここ数日の信号強度を表示した。右肩下がりになったグラフがモニターに並ぶ。
「……それで、こっちの通信を潰してるって気づいて、少しずつ出力を落とした?」
「たぶん」
「実験してたってこと?」
「たぶん」
理沙の表情が険しくなった。
「4万人死んでるんだけど」
宏樹は何も言えなかった。相手に悪意があるかどうかなど、死んだ人間には関係ない。
その夕方には宇宙から降り注ぐ信号はさらに弱くなり、地球側の無線通信は地域差こそあるものの、かなりの範囲で使用できるところまで戻っていた。
そして再びテレビ画面が乱れた。
『こんにちわ』
しばらくして、その下に新しい文字が現れる。
『へんじ ください』
「返事しろって」
「見れば分かる」
当然、二人が返事をするわけではない。そして世界には、「自分たちこそ返事をするべきだ」と考える組織が山ほどあった。
各国政府や軍、宇宙機関、研究施設が宇宙へ信号を送れる大出力設備を一斉に動かし、世界各地から次々と通信が放たれていく。
『こちらは地球です。通信を受信しました』
『あなた方は何者ですか』
『我々は友好的な存在です』
『目的を教えてください』
宏樹は増え続ける送信記録を眺めていた。
「すげえな。何か国送ってんだ、これ」
「数える?」
「やだよ」
返答はなく、その間にも送信記録だけは増え続けた。
やがて、テレビ画面が激しく乱れた。
『うるせえ、黙れ!』
二人とも固まった。
これが、人類と地球外知的生命体との、歴史上初めて成立した意思疎通だった。記念すべきファーストコンタクトで、人類が最初に返された言葉は罵倒だった。
『同時に通信送ってくる馬鹿がいるか!』
『お前ら常識ないのか!』
宏樹は送信記録へ目を戻した。世界中から、ほとんど同時に通信が送られている。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい」
二人は素で謝った。
「……数時間前まで『こんにちわ』だった奴に、常識で説教されてるぞ、俺ら」
「黙って」
『もういい』
『お前ら相手に言葉を選ぶ必要もないな』
宏樹が画面を二度見した。
「……怒ってる間に日本語うまくなってない?」
「英語のほうも同じみたい」
ついさっきまで『こんにちわ』と書いていた何者かが、地球から飛び交う膨大な通信を解析し、相手を罵倒できるところまで言語を習得していた。
そして宇宙へ向けていた各国の送信設備がようやく沈黙したところで、最後の要求が表示された。
『代表者を一人出せ』
宏樹は椅子の背にもたれた。
「……誰がやるんだよ」
「どこかの国のお偉いさんじゃない?」
「どこの国だよ」
「さあ」
## 第4章 地球代表
人類は、宇宙人に出会ったという歴史的事件とは別の難問に直面した。地球の代表者とは、いったい誰なのか。
長野の天文台にも、その混乱は有線ネットワークを通じて伝わってきた。
「アメリカは?」
「反対する国が多いでしょ」
「じゃあ中国」
「もっと揉める」
「ローマ教皇」
「宗教違う人どうすんの」
宏樹が眉を寄せた。
「……なんで全部駄目なんだよ」
「だって、どれ選んでも絶対文句出るじゃん」
「じゃあ誰なら文句出ねえんだよ」
「それが決まらないから揉めてるんでしょ」
平時なら数か月、下手をすれば数年かけてもまとまらない話だった。だが今は宇宙人が待っている。しかも、あまり気が長そうな相手ではない。
各国間の協議が続き、最終的には国際連合が引っ張り出された。もちろん、国連事務総長に地球全体を代表して何かを決定する権限があるわけではない。ただ、相手と話すための通信窓口を一人に絞らなければならず、その役目を任せるなら国連がまだ一番ましだった。
だが、それでも納得しない国々があった。一部の国家は国際的な協議を無視し、自国こそが人類の代表であると主張して、大出力の電波を宇宙へ送り続けていた。
『我々が地球を代表する』
『我が国との直接交渉を要求する』
『こちらの通信に応答せよ』
やがて世界中のテレビに文字が現れた。
『うるさい。同時に送るな』
しかし、送信は止まらなかった。
しばらくして、再び文字が現れる。
『最後の警告だ。やめろ』
それでも止まらない。
宏樹はモニターに表示された送信状況を見つめた。
「……こいつら、やめる気ないぞ」
理沙も何も言わなかった。
直後、それまでとは明らかに性質の違う現象が起きた。通信障害ではなかった。
警告を無視して送信を続けていた施設とその周辺で電子機器が一斉に異常を起こし、巨大な送信設備が火花を散らして沈黙した。近隣のレーダー設備や放送施設も次々と停止し、変電設備が焼損。道路では電子系を損傷した車両が次々と停止して、各地で火災と停電が発生した。
同じ現象は、最後まで電波を出し続けていた複数の送信源でほとんど同時に発生していた。しかも被害範囲に人間の引いた国境は関係なく、国境近くの送信施設では隣国側の設備まで巻き込まれている。
どうやら相手は国家を罰しているわけではない。電波を出し続けている発信源とその周辺だけを狙って黙らせているようだった。
被害状況は生き残った有線回線を通じて世界中へ伝わり、長野の天文台にも次々と報告が入ってくる。
『送信設備、完全停止』
『周辺で電子機器に大規模障害』
『変電施設火災』
『国境を越えて被害確認』
宏樹は無言で画面を見つめていた。
それまでの通信障害とは違う。それまでは地球側の機械は壊れておらず、あまりにも強烈な電波にこちらの信号が埋もれていただけだった。
だが、今度は明確に壊されている。
世界中のテレビに、短い文章が現れた。
『うるさいと言ったぞ』
宏樹がぽつりと言った。
「……これまでのは、攻撃じゃなかったんだな」
理沙は答えなかった。
ここ数日、世界を滅茶苦茶にしたあの電波ですら、相手にとってはただの通信だった。途中からは、こちらの通信を潰さない程度まで出力を落としていた。
そして本気で壊そうと思えば、こうなる。
その事実だけで十分だった。それ以降、少なくとも国家や大規模施設が勝手に大出力通信を行うことはなくなった。
その日の夜、ようやく地球側の窓口が正式に決まった。
国連事務総長。
「やっと決まったか」
「長かったね」
二人は、最初にあの光点を見つけた夜と同じ観測室で、その時を待った。
## 第5章 手遅れ
ニューヨーク、国際連合本部。
国連事務総長が端末の前に座っていた。周囲には各国代表だけでなく、天文学者、物理学者、言語学者たちが集まり、世界各地の研究機関とも有線回線で繋がっていた。
その回線の末端には、長野の小さな天文台もあった。
宏樹と理沙は並んでモニターの前に座っていた。
「見られるの、これ?」
「国連側の中継は研究者向けに共有されてる。こっちから送信はできないけど」
「十分だろ」
ついこの間まで、人類は地球外知的生命体が存在するのかどうかを議論していた。宏樹たちに至っては、4キロメートルの謎の物体にどんな名前をつけようかとふざけていた。
今では、異星人にもう一度怒られないよう、世界中の国々が揉めに揉めて決めた一人の送信係をニューヨークに座らせている。
画面の向こうで事務総長がキーボードへ手を置き、入力した文章が有線回線を通じて大出力送信施設へ送られ、そこから宇宙へ向けて送信された。
『地球側の通信窓口を統一しました』
返事は、ほとんど間を置かずに来た。世界中のテレビに映し出される。
『やっとか』
ニューヨークの会議室の空気がわずかに緩んだ。
ここからようやく、地球外知的生命体とのまともな対話が始まる。聞きたいことなら山ほどあるが、その中からまず一つが選ばれた。
『あなた方は、現在どこにいるのですか』
『そちらから約3光年』
「3光年?」
宏樹が眉をひそめた。
「じゃあ、この返事はいつ送ったんだよ」
ニューヨークでも当然同じ疑問が出た。事務総長の背後で科学者の一人が素早くメモを書き、スタッフへ渡す。
『では、なぜこれほど短時間で通信できるのですか』
『中継ステーションを使っている』
『中継ステーション?』
『お前たちが最初に観測したものだ』
宏樹と理沙が同時に固まった。
「……は?」
宏樹がゆっくりと観測用モニターを見る。
そこには今も、自分たちが発見した物体の観測データが表示されている。直径4キロメートルほどの物体は、地球と月のほぼ中間付近に位置を保ったまま、観測データの中に光点として映っていた。
『あれは、あなた方の宇宙船ではないのですか』
『違う。中継ステーションだ』
宏樹は椅子の背にもたれた。
「4キロあるんだけど」
「中継ステーションらしいよ」
「基地局で4キロ?」
「知らないわよ」
さらに質問が続く。
『しかし、中継したとしても、通信速度そのものは光速を超えません。あなた方が3光年先にいるなら、このような会話はできないはずです』
『ステーション間は超光速通信だ』
宏樹の口が半開きになった。
「……聞いた?」
「聞いた」
「超光速通信だって」
「聞いたってば」
理沙はそう答えながら観測画面へ目を移した。そこには例の光点が変わらず映っている。
人類がまだ実現どころか、その原理すら知らない技術について、相手は当たり前の設備について説明するような調子で答えた。
ニューヨークでは科学者たちから猛烈な勢いでメモが回り始めていた。超光速通信はどういう原理なのか。中継ステーションはいくつあるのか。3光年先とは具体的にどこなのか。そもそも相手はどんな存在なのか。
聞きたいことはいくらでもあるが、それを一斉にぶつけて、また「うるせえ」と言われるわけにもいかない。
事務総長は渡された質問の中から一つを選んだ。
『あなた方は、どのような存在なのですか』
『は?』
ニューヨークの会議室が静まった。
質問をもっと具体的にする。
『あなた方も、私たちのような生物なのですか』
『そうだ』
『あなた方の文明には、他にも知的生命体がいるのですか』
『いる』
宏樹の表情が変わった。
「……いるんだ」
今度は冗談めいた調子ではなかった。
宇宙には自分たち以外の知的生命が存在する。しかも、目の前の相手だけではない。ほんの数日前なら、それだけで世界中の新聞の一面を独占できたはずだったが、今では驚くことが多すぎて感覚のほうが追いつかない。
そして、そもそもの疑問が残っている。なぜ、彼らは地球へ通信してきたのか。
事務総長がその質問を送った。
『あなた方が、今回地球へ通信してきた目的を教えてください』
返答はすぐには来なかった。これまでほとんど間を置かず返ってきていた文字が初めて途切れ、宏樹が椅子から少し身を起こす。
やがて、一文が表示された。
『こちらの自動惑星の航行装置が故障した』
「自動……惑星?」
『現在、制御不能のまま航行している』
理沙の手がマウスの上で止まった。
『その進路上に、知的生命体の存在する惑星を確認したので連絡した』
そこでまた文章が途切れた。
『だが』
嫌な予感がした。
『お前たちが、これほど無礼な連中だとは思わなかった』
「……まだ怒ってる」
「そりゃ怒ってるでしょ」
ニューヨークから慎重に質問が送られる。
『その自動惑星は、現在どこへ向かっているのですか』
『お前らが地球と呼ぶ惑星の軌道と交差する』
宏樹の表情から軽さが消え、観測室が静まり返った。
宏樹の視線がゆっくりと観測用モニターへ移る。そこには今も、自分たちが発見した直径4キロメートルほどの中継ステーションが映っている。
だが、今、相手が話している「自動惑星」はあれではない。
「……別のがあるのかよ」
理沙は答えなかった。
ニューヨークから次の質問が送られる。
『衝突する可能性がある、という意味ですか』
『違う』
宏樹がほんの少しだけ息を吐いた。
次の文字が現れた。
『衝突する』
宏樹の息が止まった。ニューヨークの会議室でも、それまで動き続けていた人々の手が止まっていた。
『衝突まで、どれくらいの時間がありますか』
『4年』
4年。来るかもしれない、ではない。衝突する。
事務総長の横で科学者たちが一斉に資料へ目を落とし、誰かが端末を操作し、誰かが別室へ走る。
だが、次の質問への答えは、それらの動きを一つずつ止めていった。
『航行装置を修理することはできないのですか』
『間に合わない』
『進路を変更することは』
『できない』
短い返答が続き、観測室ではもう宏樹も理沙も何も言わなかった。
数日前、自分たちはたまたま夜更かしをしていた。たまたま望遠鏡を空へ向け、一つの光点を見つけた。そこから全部が始まった。
だが、あの光点そのものは脅威ではなかった。ただの中継ステーションだった。本当にこちらへ向かっているものは、まだ見えてすらいない。
画面の向こうで事務総長の指が止まり、ゆっくりと文章が打ち込まれる。
『私たちにできることはありますか』
宏樹と理沙も、その返事を待った。ニューヨークの会議室も、世界中の政府も、研究施設も、画面の前に集まった人々も、誰も動かなかった。
返答は、すぐに来た。
世界中のテレビに、同じ二文字が映し出された。
『どけ』
世界中の人間が、その短い返答を見たまま、ほとんど同時に同じことを思った。
――どうしろと。




