第7話
冷たい空気が支配する夜の路地。
人気のない裏通りを、朝倉智和は震える指でスマホを確認しながら歩いていた。
「……ここで、合ってるよな」
指定されたのは、表向きは閉業したとされる古びたバー。
その奥の秘密の扉を開ければ、もう後戻りはできない。
本当は今すぐでもこの場から逃げ出したい。
だが奴らは朝倉の素性を知っている。
仮にこの場から姿を消せば、今度は自分の家族に矛先が向く可能性もある。
だから朝倉智和にとって、逃げるという選択肢は初めからなかったのだ。
ゆっくりとドアを押す。
無音で開くその先には、あの五人がいた。
彼らは各自、ソファに腰をかけている。
――影鳳會。
いや、この頃その名はまだ存在しなかった。
表では元Aクラスの天才たち、裏では犯罪を平気で犯すの支配者層として、この先の未来、学園都市に君臨するはずの彼ら。
十年後、綾城理央が殺された現場に足を運んでいた彼らは、高校一年生の現時点でその片鱗をすでに見せていたのだ。
朝倉は自分自身、今日呼び出された意味を、痛いほどわかっていた。
「……お疲れ様です。ご無沙汰してます」
重い沈黙が降りかかる中、朝倉が頭を下げる。
返事はない。
ソファ席の奥に座る青年――柊木が、グラスを回し、氷を転がしているだけだった。
「……よぉ朝倉」
口を開いたのは、筋骨隆々の男・大我。
その顔には、あからさまな苛立ちと、獲物をいたぶる喜びが滲んでいる。
「特別試験、しくじったようだな」
「す、すみません……こんなはずじゃ――」
「はずじゃなかった? へぇ? この試験に失敗する要素なんて、あったっけ?」
陽気に言葉を重ねたのは、長い金髪を手でなびかせる女子生徒。
彼女は一人掛けソファの背に逆さに座り、朝倉を眺めながらクスクスと笑った。
「柊木っちが、わざわざ試験を切り抜ける裏技、教えてくれたってのにさあ。あんな完璧な作戦、失敗するほうがムズいってーの!」
「ま、お前が無能ってことなんだろうな」
大我が鼻で笑い、立ち上がる。
朝倉の首筋が、汗で濡れていた。
「……失敗した奴に、価値はあるのか?」
柊木がついに声を発する。
冷ややかなその声に、朝倉の膝がわずかに震えた。
「こいつ、もう処分していいんじゃないですか?」
大我の拳が鳴る。
朝倉の口が開くより先に、鋭い一撃が頬を打ち抜いた。
「がっ……!」
壁に叩きつけられ、朝倉が呻く。
追撃の蹴りが腹を抉り、数秒で立ち上がる気力は消え失せた。
「柊木さん! オレは、まだ――!」
「何言ってんだ。あんな簡単なこともできねぇで、お前に生きる価値なんざねぇよ!」
再び拳が振り下ろされる……寸前。
「お待ちください」
場の空気が止まる。
声の主は影鳳會の中で最も低身長の彼、士門。
「もしかしたら、彼……まだ使い道があるかもしれません」
甘いフェイスで柊木にそう提案する。
「……使い道?」
柊木が目を細める。
士門は、笑顔のまま続けた。
「来週から僕のクラスに、朝倉くんを退けた昇格組が上がってきます。もしソイツらの誰かが、本物の実力者なら――朝倉くんを使って、揺さぶりをかけられるかもしれません」
「……復讐、ってことか?」
「はい。朝倉くんも、きっと悔しいはずです。ですよね?」
士門が目を向ける。
血だらけの顔で、朝倉は必死にうなずいた。
「……はい。オレは……あいつが……綾城、理央が憎い。ぜってぇ、見返してやる……!」
「ふん」
大我が鼻を鳴らし、座り込む。
「使えねぇクズでも、燃料くらいにはなるか」
「……朝倉の処遇は、士門に任せる」
柊木が淡々と指示を出す。
影鳳會の中で、彼の言葉は絶対だった。
「ありがとうございます、柊木さん」
士門がにこりと笑う。
「だが、士門よぉ」
大我が言う。
「そいつがまた失敗したら、今度こそだ。今度こそ俺に殺させろよ」
「……もちろんですよ、大我くん」
淡く返すその声に、どこか愉悦の色が混じっていた。
こうして、朝倉智和は再び彼らの計画にに組み込まれた。
駒として。
敗者として。
そして、次なる火種として。
そして時は刻一刻と過ぎ――
週が明けた月曜日。
一年生たちが特別試験を終え、初めて登校する。
* * *
午前六時。
目覚ましが鳴るより先に、俺は目を開けた。
見慣れた天井に六畳の部屋。
週が明けた今日、いくらCクラスに昇格したからといって、初めに割り振られた部屋に変わりは無い。
そう、ここは嶺翠高校の学生寮。
基本的にここの学生は、この寮のどこかしらに住むことになっている。
「未だに実感ないな」
タイムリープという現象を経てから、今日で五日が経過した。
俺は布団の中、天井を見上げながら、昨日の試験結果と、そこに至るまでの数々の伏線を思い返す。
朝倉が堕ち、俺が昇格した。
七瀬とともに。
そして俺は依然として過去に留まり続けている。
これがどういった意味を持つのか分からない。
だけど今生きているのは紛れもなく現実。
朝倉を打ち破った時に高鳴った鼓動も、七瀬の笑顔を見た時の高揚感も本物のそれだった。
かといって十年後、あの時朝倉に殺された俺の記憶も、たしかにここに残ってる。
このことを全て鑑みるならば――
「タイムリープは本当に起こった」
とみて、間違いないだろう。
だったらやることは一つ。
俺は今度こそ、この学園都市で勝ち組になる。
Aクラスに上がり、大学へ進学。
その先の将来なんてのはまだ考えられないが、
俺にとってはここで母さんの治療ができて且つ、快適に過ごせれば問題は無い。
そんな暮らしのために、
せっかくのチャンスだ。
もう一度だけ、足掻いてやるか。
改めて心にそう誓った。
俺は布団から抜け出して、洗面台で顔を洗う。
そろそろ支度をしないと。
タオルで顔を拭きながら、机の上に置かれた白い封筒に目をやった。
金曜、寮に届いた母からの手紙だ。
中身はたった一言。
「いつもありがとう。週末も、無理して帰って来なくていいからね」
癖のある筆跡。
小さな文字。
それとわずかな生活費。
これを見るたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられていた。
今の俺も、また同じ。
もちろん、行く。
どんなに忙しくても、行く。
それだけは、俺がこの都市で生きる理由のすべてだ。
学園都市にある大学病院。
母は今も、そこで治療を受けながら一人で暮らしている。
だから俺は、週末だけでも顔を見せに行く。
そうしないと、自分が何のために戦っているのかわからなくなるからだ。
制服に袖を通す。
これまではDクラスの黄色だった胸元のバッジが、今日からはCクラスの青色に変わる。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
けれど――。
「たったこれだけで、人は掌を返すんだよな」
それがこの学園の日常。
軽蔑から、興味へ。
無視から、期待へ。
DクラスからCクラスへ昇格しただけで、こうも簡単に向けられる感情が変化する。
準備が整ったところで、俺は鞄を持った。
ドンドンッ――
その瞬間、ドアが二回叩かれる。
「おーい、綾城ー! まだー?」
明るい声。
矢野翼。
今日から同じCクラスに昇格した、元D組の一人。
「翼くん、そんな急かしちゃ、綾城くんに悪いよ」
続いて聞こえる、もう一つの落ち着いた声。
御影 蓮だ。
Cクラス昇格の初日。
一緒に通学しようと約束していたんだ。
「もう出るから!」
俺は小さく息を吐く。
そうだ、今日からCクラス。
そして次の試験もすぐにやってくる。
もちろん勝つのは、次も俺だ。
そう心に刻み、ドアノブに手をかけた。




