第6話
「よくもオレをハメやがったな……!」
教室の中央で、朝倉は怒声を放った。
そんな彼に、周囲は誰も声をかけない。
むしろ半歩ずつ距離を取り、机の配置さえも変える勢いで朝倉から離れていく。
「朝倉ってやつ、不正しようとしたのか?」
「いや、不正ってより騙そうとしたんじゃない? あの綾城って人を」
「……で、結局自分に返ってきたってわけか」
「そりゃザマァねぇわな」
どれも痛いほどに突き刺さる。
朝倉は教室全体を見渡した。
「……は、はは……」
そしてかすれた笑いを喉から漏らす。
さっきまで勝ち誇った笑みを浮かべていたその顔は、今や色を失い、何を見ているのかも分からない虚ろな目をしている。
「ふざけんなよ……なんで、オレが……」
その呟きはやがて呻き声に変わり、机を両手で叩く音が響く。
「お前ら、オレを見下してんのか……? 笑ってんのか……?」
誰も答えない。
「そりゃおもしれーよな。ハメようとした奴に、逆にハメられてんだからよ……」
それが答えだと言わんばかりに、冷たい空気だけがこの教室を流れる。
「……チッ!」
舌打ちと同時に、俺の机が横倒しにされた。
金属脚が床を削り、耳障りな音が走る。
近くの生徒はビクリと体を震わし、教室の端に身を寄せた。
「クソがァッ!」
朝倉は近くの椅子を蹴り飛ばした。
それでも誰も止めない。
飛んでくるのは、ただ冷たい視線の数々。
学園都市にとって終わった人間に向けられる、軽蔑と嫌悪のこもった眼差しだけ。
以前のそれは俺を差したものだった。
だが今は違う。
立場が逆転したのだ。
今は俺が上で、コイツが下。
これがこの都市のルールだったよな、朝倉?
俺は立ち上がり、朝倉と目を合わす。
「……綾城ぉ!」
俺の名前が、唸り声のように吐き捨てられる。
血走った目がこちらを捕らえ、今にも殴りかかってきそうな足取りで距離を詰めてきた。
心臓の鼓動が一瞬だけ速くなる。
だけど、逃げる気はない。
むしろ、正面から見返した。
殴るなら好きにしろよ。
どうせお前の居場所はもう、
どこにもない。
俺の制服に掴みかかろうとしたその瞬間、
「そこまでだ、朝倉」
低く、しかし教室全体を一瞬で制圧する声。
いつの間にか入り口に立っていた伏見先生は、まるで教室の空気そのものを握り潰すように、一歩足を踏み入れた。
「先生、違うんですよ。こいつが……綾城理央が、このゼロ・トラスト試験で不正を……」
「結果はもう出ている。学園都市において、一度出た、結果は覆らない」
朝倉の言葉は、短く冷たい一言で断ち切られた。
「――あぁああっ! 綾城、テメェッ!」
グッと胸ぐらを掴み、右拳を振り上げる。
あぁ、こりゃ一発殴られるな。
そう思ったところで、
「朝倉っ! 退学になりたいのか?」
容赦ない刃物のような伏見の一言。
朝倉はその場で固まり、足の力が抜けたように膝を折った。
「……っ、ぐ……う……くそっ、なんで……」
顔を伏せ、握りしめた拳を膝に押しつけながら、嗚咽が漏れた。
さっきまでの怒声が嘘のように、ただみじめな泣き声だけがこの教室に響いている。
先生はそれ以上何も言わず、ただ咽び泣く声が落ち着くまで、静かに教卓前で佇んでいた。
そして教室が静まりあった頃、
伏見は短く息を吐き、教室を見渡した。
「今回、上位三位に入ったペアはすぐに集合しろ。渡したい書類があるから、職員室まで行くぞ」
名簿をめくる音が響き、
「綾城理央、七瀬陽菜――」
続けざまに生徒の名前が呼ばれていく。
俺と七瀬は、教室の前へ。
途中、床に沈み込む朝倉の姿があった。
顔は俯き、瞳は虚ろ。
外から見ても分かるほど消沈したその有り様を見ても、不思議と感情が湧いてこない。
本当はざまぁみろとか勝ち誇った気持ちになると思っていたが、意外とそんなことなかった。
今、俺の中にある朝倉への感情は、無。
勝ちを確信した時から、完全に興味が失せてしまったというのが本音だ。
もしかしたら、学園都市で勝ち上がっていくってのはこういうことなのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は教室を後にした。
廊下に出て歩き出すと、教室のざわめきが背後で遠のいていく。
さっきまであの空間に満ちていた緊張と悪意が、背中から全て剥がれていくようだ。
隣を歩く七瀬は、しばらく黙っていた。
階段に差しかかる手前で、ようやく小さく息を吐く。
「……綾城くん」
七瀬は、いつもの明るい調子を少し抑えた声で俺を呼んだ。
「さっきは、ありがとね」
どこか気まずそうに笑みを浮かべながらも、すぐに冗談っぽく付け足す。
「ほんと、私ひとりだったら絶対テンパってたよ。……だから、助かった」
「いや、こっちこそありがとう。俺一人じゃ、きっとこの試験落ちてたよ」
感謝を伝えたのち、俺はふと気になった疑問を口にした。
「七瀬さんは、どうして俺を信じてくれたんだ?」
俺が問いかけると、七瀬は首を傾げ、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「んー……直感かな? 綾城くんはきっと、嘘をつく人じゃないって」
遠慮がちに笑う彼女の横顔は、普段の快活さとは違って、少しだけ大人びて見えた。
「そっか」
俺はそれ以上何も言わずに歩き出し、七瀬も少し遅れてついてくる。
なんにせよ安心した。
七瀬さんを守ることができて。
彼女の笑顔を見て、俺はそう思った。
朝倉がここで敗北したことで、彼女が囚われる未来はなくなった。
そして、俺が追い詰められることも。
未来は変わったんだ。
まぁここが過去で、本当にタイムリープを果たしたのならという前提だが。
……?
だとしたら、俺はいつ帰れるんだ?
それともこのまま、この時間軸で過ごすことになるのか?
いや、そもそも俺はなぜこの時代へやってきた?
分からないことだらけだ。
とりあえず朝倉に復讐することはできた。
当面の目的は無事終えたわけだが、この先はどうする?
いつまで居られるか分からないこの過去世界を楽しむか?
それとも、他の目的を――
そんな思考を巡らせながら、廊下の角を曲がった瞬間。
五つの影が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
男三人、女二人。
真ん中を歩くのは、短髪の黒髪に大きく見開かれた目をした男。
けれど、その目は一切笑っていない。
黒目の奥は静かで、底が見えない冷たさを湛えている。
彼を中心に、低身長で礼儀正しそうな眼鏡の少年、肩で風を切るような乱暴な雰囲気の男。
そして、妙にテンションの高そうな笑みを浮かべる女と、物静かに視線を伏せた女が並んでいた。
廊下の空気が変わる。
「朝倉っち、失敗したみたいだね〜」
「あれだけの策を弄してあげたのに失敗だなんて、相当なバカだったようですね。柊木くん、彼の処遇どうしますか?」
「……興味はないが、アイツにはある程度の内情を話してしまったからな。いつものバーへ呼んでおけ」
「ナハハッ、久しぶりにあそこへ行けんのか! 楽しみだぜ」
今の声──間違いない。
十年後、俺が最後に連れて行かれたあのバーの空気が、一瞬にして脳裏によみがえる。
汗と煙草と血の匂いが混ざり合った、あの息苦しい空間。
そこで、俺を囲んで笑っていた顔ぶれと、今すれ違った顔が重なった。
距離が詰まるにつれ、周囲の空気がさらに重く沈んでいく。
笑い声も、足音も、遠くの教室から漏れる喧噪も――すべてが薄膜を隔てた向こう側の出来事みたいに遠くなる。
柊木と目が合った。
一瞬、こちらを見ただけ。
なのに、その視線は全身を見透かすように鋭く、冷たい。
首筋に氷の爪を立てられたみたいな感覚が走る。
七瀬も小さく息を呑んでいた。
その肩がわずかにすくむ。
何も言葉を交わさないまま、彼らは通り過ぎる。
廊下に残ったのは、妙な温度差だけだった。
十年後、影鳳會のトップとして学園都市で暗躍していた彼らだったが、今この世界
ではただの学生として生きている。
まだなんの地位も権力もない状態でだ。
視界の隅で、彼らの背中がゆっくりと曲がり角へ消えていく。
心臓の鼓動が一拍遅れて響き、俺の中でひとつの確信に変わった。
――今なら、変えられる。
影鳳會が存在しない、もっと安全で、もっと居心地のいい未来に。
あいつらは俺にとって復讐の相手じゃない。
俺と母さんが、この街で平穏に生きるために退けるべき障壁だ。
堕とせるなら堕とす。
利用できるなら骨までしゃぶる。
その過程で俺が這い上がれば、それが何よりの答えになる。
そうか。
きっと俺はこの未来を手にするために、ここへ戻ってきたんだ。
冷たい確信を胸に、俺は職員室の扉をくぐった。




