第5話
4月7日、午前7時22分。
まだ朝靄が残る校門前に、俺は一人立っていた。
この時間、ここを通る生徒はほとんどいない。
だが、彼女は必ずここを通る。
十年前はそうだった。
だから今回も、そのはず。
すると、こちらへ向かう人影が見えた。
それは女子用の制服。
朝日に照らされた薄茶のボブヘアを揺らしながら、彼女は背筋を伸ばして歩いている。
「やっぱり……」
ビンゴ。
七瀬さんだ。
彼女は在学中の三年間、誰よりも早く通学して、教室で一人その日の授業の予習をしていた。
それはAクラスに上がっても続けていた、彼女の欠かすことない習慣だった。
革靴の音が近距離まで迫る。
俺と目が合ったところで、
「……七瀬さん」
彼女を呼びかけた。
「綾城くん、だったよね? こんな朝早くにどうしたの?」
ぱっと笑顔を見せる。
疑いの色はあるものの、元気に声を弾ませるその様子は、十年前から知ってる七瀬そのものだった。
「話があるんだ。少し、時間をくれないか」
「え、なに? まさか告白とかじゃないよね?」
冗談めかした笑みで首を傾げた。
「なーんだ、冗談通じないなぁ。でもいいよ、話くらいなら付き合う」
俺が真剣な顔をしているのを察してか、七瀬は小さく肩をすくめて笑ってみせる。
「じゃあ、行こうか」
それから俺たちは学校の正面玄関へ向かう。
そしてその先目指すのは特別棟の校舎。
人目が少なく、会話にはうってつけの場所だ。
七瀬も俺の数歩後ろから付かず離れず、付いて来てくれている。
それからすぐ目的地にはたどり着いた。
人気のない空き教室。
中に入り扉を閉めると、冷えた空気とわずかな埃の匂いが二人を包む。
特に座る場所もない殺風景な内観。
俺たちは向かい合って話を始める。
「なに、話って?」
まず、口を開いたのは七瀬。
彼女はカバンを抱きしめるようにして問う。
「単刀直入なんだけど……七瀬さん、君は今回の特別試験、朝倉智和とペアを組んだんだよね?」
「……っ、なんでそれを」
反射的に眉が動き、息がわずかに詰まる。
「しかも朝倉は600ポイント以上持っていた。違うかい?」
「えっ、ろ、ろっぴゃく……!? ちょっと待って、なにそれ!? 聞いてないんだけど!」
七瀬は大袈裟なくらい大きく両手をぶんぶん振って、目を丸くする。
なるほど。
アイツ、この時点では七瀬さんにポイントを開示してなかったのか。
まぁそりゃ、Dクラスが一人じゃ得られないほどのポイントを持ってれば何かしら怪しまれる。
そう踏んで、黙っていたんだろう。
「朝倉は……俺から奪ったんだよ。ペアを組むふりをしてな」
もちろん言葉だけじゃない。
俺は同時に証拠を突き出す。
「う、うそ……っ!?」
それは俺のスマホ。
スコア管理画面に、俺から朝倉に送ったという取引履歴が残っている。
ありがたいことに、譲渡したポイント数まで細かく記してくれていた。
「知ってるんだ。朝倉のやり方も、性格も。人を陥れるためなら、手段を選ばない。そうやってアイツは今から三年間、多くの人を裏切って、Aクラスにまで上り詰める」
七瀬は首をかしげて、ぱちぱちと瞬きをした。
「え、それ本当なら大事件! ……でもさ、ここ学園都市だし? そういう人ってどこにでもいるでしょ。仕方ないんじゃないかなぁ?」
自分で言い聞かせるみたいに、明るく笑ってみせる。
「君は、このまま朝倉と組めば昇格できるはず。多分、君ならCクラスはもちろん、Aクラスまで辿り着けると思う」
「え、ちょ、なにそれ。そんな大げだよ〜」
七瀬は表情こそ崩さずに話すが、俺にはその口元がどこか強張って見えた。
彼女にとって、これはとても怖い話。
現実から逃げたくなるのもよく分かる。
だけど、このままじゃいけない。
俺がちゃんと伝えなければ。
「七瀬さん……このままだと、君は朝倉に一生弱みを握られるよ」
「よ、弱みって、どんな……?」
笑ったまま瞬きを繰り返す。
軽く流そうとしながらも、瞳の奥に動揺がにじんでいた。
「朝倉のおかけで昇格できた。そういう借りを作ることになる。しかもそれは学園都市にいる限り、ずっと消えない種類の借りだ」
七瀬は唇を結び、視線を下に落とす。
「そんな、一生って……」
「間違いないよ」
と断言した。
迷いを一切見せずに。
だって俺は見てきたから。
そういう未来を。
「アイツはその借りを武器にする。『あの時俺が手を貸したから君は今の立場にいる』と、ずっと言い続けるだろう。君の判断や意見はすべて、その一言で封じられる。七瀬さんはこの先、そんな未来になってほしい?」
長い沈黙が落ちた。
七瀬の指先がわずかに震えている。
「もし、それが本当なら……私どうすればいいの」
言葉だけは不安げだ。
けれど、その顔には無理に貼りつけたような笑顔があった。
「俺に考えがある。七瀬さんから朝倉を遠ざけて且つ、Cクラスへ昇格できる方法が」
「……それ、本当?」
「あぁ。俺を信じて欲しい」
今の俺はDクラスの一生徒に過ぎない。
金もなければ権力もない。
そんな俺が今は言えることは、信じてくれの一言くらいだった。
「……わかった。綾城くんを、信じる」
七瀬は唇を噛み、やがて小さく頷く。
「あ、ありがとう」
ホッと一息。
俺は安堵し、胸を撫で下ろした。
* * *
放課後――
ちょうど16時半を過ぎた頃。
「失礼します」
「し、失礼します」
俺と七瀬は職員室へとやってきた。
扉を開けると、午後の柔らかな光の中、数人の教師がパソコンの操作を行っていた。
その中で伏見先生は、俺と七瀬の顔を見てすぐに眉を上げる。
「どうした? 結果発表まであと少しだぞ」
「先生、そのことで相談があるんですが」
「ん? なんだ?」
俺はまず、自分のスマホ画面を先生に見せた。
「このポイント譲渡ですが、キャンセルをお願いしたいんです」
「……ポイントの、キャンセル?」
伏見は意外そうに目を瞬かせる。
「譲渡したポイントを返してもらうなんて、聞いたことがないが……何かあったのか?」
俺はこれまでの経緯を説明した。
朝倉智和にペアを組まないかと誘われたこと。
俺だけにポイントを送らせ、自分は七瀬とペアを組んだこと。
もちろんこれは俺の不手際である。
騙された方が悪いと言われてしまえばそれまで。
だけどそれならわざわざ、ルール説明のメールにペア解消は『正当な理由』があれば承認されるなんて書かないはず。
それにこうも書いてあった。
『新入生同士の交流を促し、公平な条件のもとで互いの実力を知る機会』と。
つまりこの特別試験……学園側としては、公平な条件で行って欲しいのだ。
ここで騙し合うことは求められていない。
これがこのゼロ・トラストの本質。
「綾城、少しスマホ借りるぞ」
伏見先生は無言で俺の端末を操作し、確認していく。
そして長い沈黙。
伏見先生は俺と七瀬を交互に見つめ、深く息を吐いた。
「……確かにこれは、正当な理由と言えるだろう」
視線を上げ、俺に向かって頷く。
「だが綾城、ペアの解消は確かに『正当な理由』でできるとメールに記載があった。どうしてポイントの譲渡までキャンセルできると分かった?」
「ペアの解消もポイント譲渡も、似たようなものかと思いまして」
俺は短くそう答えた。
これ以上は説明する気はない。
だってこの先数年後、同じことをして試験を一位通過した者がいたなんていっても、信じられないだろうし。
学校の清掃員をしていれば、その年々にどんな試験があってどんな生徒がどんな方法で突破したのか、嫌でも情報は入ってくる。
このゼロ・トラスト試験もその一つだっただけ。
「伏見先生、ペアの解消もお願いします」
七瀬は俺に続き、そう告げた。
「七瀬、お前まで……どうして?」
「こんな話を聞いてしまったら……私、怖くて彼とペアなんて組めません」
その声には、静かな決意が宿っていた。
伏見先生は腕を組み、しばし黙ったあと、
「わかった」
そう言って、パソコンのキーボードを叩き始める。
それから5分くらいだろうか。
先生がデスクトップ画面からようやく目を離した。
「これで綾城のポイントは元戻り、七瀬とのペアも解消された」
「ありがとうございます」
七瀬は深く頭を下げた。
俺は画面を開き、自分のスコアを確認する。
数字は、奪われる前のものに戻っていた。
よし、これで準備は整ったな。
「先生、ありがとうございます」
「そろそろ17時になる。お前らも教室へ戻れ」
「「はい」」
俺たち二人はすぐさまペアを成立させたのち、教室へ足を運んだのだった。
* * *
そして時は、結果発表後に再び戻る。
全てを知った朝倉は、しばし呆然と立ち尽くしていた。
「……てめぇ、綾城」
低く絞り出すような声。
その目には、怒りと憎悪が渦巻いている。
「よくもオレをハメやがったな……!」
教室の空気が、一気に張り詰める。
周囲の視線が集まる中、俺はただ静かに彼の言葉を受け止めていた。




