第18話
一ヶ月前。
夜の寮は静まり返っていた。
廊下に響くのは、遠くで鳴るテレビの音と、窓の外を通り過ぎる風の唸りだけ。
俺はモップを握りしめ、廊下の隅に立っていた。
視線は一点、階段の影に向けられている。
もうすぐだ。
この時間、この廊下を通るやつを、俺は知っている。
清掃員専用の管理アプリを使いこなす俺にとって、一クラス分の生徒の動きなど、簡単に把握できるというもの。
そして夜更けに自販機へジュースを買いに来る生徒の姿。
やがて、足音が近づいてきた。
時間ぴったり、読み通りだ。
俺は何気ないふうを装い、モップを廊下へ滑らせる。
「……掃除?」
驚いた声が背後からかかった。
振り返ると、寝間着姿のクラスメイトがこちらを見ていた。
「気になると寝れないタチなんだよ」
彼は辺りを見渡し、一息つく。
「はぁ、すげーな……。普通、わざわざこんな時間にやらねーって」
「まぁ気にしないでくれ。俺はこういう雑用が好きな性分なんだ」
そう言って、モップを動かし続けた。
あくまで自然に、何気ない雑用のひとつとして。
「……あのさ、綾城」
彼は恐る恐る、俺の名を口にする。
「うん?」
「今日会ったことはさ、出来れば内緒に……」
「分かってるよ。俺はここでただ掃除をしていた。それだけだ」
まぁさすがに今、昇格組と関わることは好ましくないもんな。
クラスメイトは少し気まずそうに笑い、
「そっか。ありがとう。……なんか、真面目だな、綾城って」
そう呟いて、ジュースを買いに行った。
その一言に、俺は確かな手応えを感じていた。
小さな親切。
雑用。
これを印象として、落とし込むことが出来たと。
それから俺はほとんど毎晩、モップと雑巾を手に、寮のあらゆるところに出没した。
Cクラスの生徒が通る可能性の高い場所をあえて選びながら。
もちろん、ただ黙々とやっても意味はない。
大事なのは魅せ方。
クラスメイトの目に触れる瞬間を、常に計算。
わざと時間をずらし、誰かが通るときに水を汲んだり、廊下のゴミを拾ったり。
偶然を装った舞台。
ソーシャルスコアテストで大事なのは、試験内容が発表される前の「素の姿」なのだ。
「お、また掃除してるよ」
「すご……マメすぎない?」
「夜まで残ってるのに、偉いな」
そんな声が、少しずつ聞こえるようになってきた。
最初は物珍しさでしかなかった視線が、やがて「当たり前」のように俺へと向けられていく。
綾城は、真面目にコツコツ頑張るやつ。
そのイメージを植えつけることこそが、俺の狙いだった。
やがて、白石が廊下を通りかかる。
彼女は立ち止まり、俺の背中をじっと見ていた。
「……綾城くん、いつもありがとう」
小さな声。
けれど、その一言には迷いのない感謝が込められていた。
俺はモップを動かしたまま、振り返らずに答える。
「どうせ暇だからな。もし何か他に雑用があるなら言ってくれ」
声をかけてくれた人に対しては、
こうやって「雑用」というワードも織り交ぜる。
この行動一つ一つが、全て結果に結びついていくと信じて。
そして俺が試験のために行ってきたことは、これだけじゃない。
次に狙ったのは、人との接点だ。
放課後、男子寮の一角。
フリースペースに集まっているCクラスの男子グループがいた。
ゲーム好きの四人組。
クラスでも地味な立ち位置だが、妙に情報通で、話題づくりの発信源になるタイプだ。
俺はわざと鞄を肩にかけたまま、通りすがりを装って声をかけた。
「お、もしかしてクラッシュレギオンの話?」
事前にそのゲームは把握してある。
大人気の四人同時対戦型アクションゲーム。
マスコットから魔王まで何でも殴り合うかなりカオスな格ゲーだ。
「……え、綾城くん?」
意外そうに振り返った彼らは、互いに顔を見合わせている。
「ゲ、ゲームとか、興味あるの?」
昇格組とは距離を置くという暗黙のルールがあり、戸惑うのも当然な中、その内の一人が勇気を持って俺と向き合ってくれた。
まぁこの場に誰もいないから、だと思うけど。
「……昔ちょっとやってただけ」
そこから少し話は盛り上がり、部屋にまで呼んでくれるようになった。
当然目的は対戦バトル。
戦いに勝つ必要なんてなかった。
ただ、適度に食らいつき、盛り上げればいい。
「やべっ、落ちた! ってか綾城くん、めっちゃ上手くない?」
「はは、まぐれだよ」
そんなやり取りを繰り返すうち、輪に自然と混ざっていた。
そして何度もその集まりに呼ばれるようになったある時、俺はさらりと話題を投げた。
「そういや……七瀬さんって、どう思う?」
一瞬、空気が止まる。
だが、すぐに一人が肩をすくめた。
「どう、思う……ってまぁ、良い子ぶりっ子って感じかな?」
「いやいや、最近花に水やったりさ、黒板消したり……あれ見てると、別に可愛こぶってるわけじゃないと思うけど」
「うん、俺もそう思う」
彼らそれぞれの意見が出る。
よし――
七瀬の何気なく見える生活の態度が、確実にクラスのみんなに根付き始めている。
こういった無意識に沸きでる印象が、ソーシャルスコアテストでは大事になってくるはず。
そしてさらにもう一押し、俺は火種を仕込む。
「……まぁ今こうやって聞いたのも、俺が七瀬のこと好きだからなんだけどな」
「え!? マジで!?」
「綾城くんって、意外とそういうキャラなの!」
一斉に起こる驚きと笑い。
俺は適度に顔を赤らめて、苦笑を返した。
狙い通りだ。
綾城は七瀬に片想いしている。
この噂が広まれば、七瀬への視線もより一層好意的になものになる。
「仮にだけど七瀬さんが次の中間試験、一位になったら……告白、でもしてみようかな」
「おおっ! こりゃ面白くなってきたぞ!」
「応援するね!」
「……ま、冗談だけどな」
わざとらしく俺は頭を掻き、耳まで真っ赤にしてみせる。
「いやいや、頑張れって!」
「俺たちは聞いたからな? 絶対しろよ?」
と、冷やかしが部屋中を飛び交う。
高校生の頃は、人の色恋に対して特に敏感になる時期。
俺のこの気持ちが広がれば、もしかしたら面白がって投票するやつもいるかもしれない。
俺はゲームの再開に紛れながら、そんな想像を脳内に繰り広げていた。
* * *
「綾城くん、本当に七瀬さんが一位だったな!」
あの時のゲーム仲間四人組が、俺の傍に寄ってきては茶化しにくる。
「本当に告白しちゃえば?」
「えっ、告白って綾城くんが、七瀬さんに!?」
その声、その話題は、この教室内を波紋のように広がっていく。
「えっ、ガチ?」
「まさかのカップル誕生か!?」
男子たちが一斉に囃し立て、手を叩き、背中を押してくる。
女子たちも「キャー!」と声を上げて、からかうように笑っている。
「えっ、えええっ!?」
七瀬は机の上で慌てふためき、顔を真っ赤にして手をぶんぶん振る。
「綾城、本気でいくのか!?」
翼が目を見開きながら、俺の肩を激しく揺さぶってくる。
もちろんこの一連の流れ、昇格組の誰にも相談すらしていない。
正直、視線を泳がせ、耳まで赤く染めた七瀬を見ると、彼女にくらいは事前に相談しても良かったなと、若干の後悔は胸にあるが。
だけどこれで完璧に塗り変わった。
昇格組=無視の対象だったCクラス空気が、今は笑いと好奇心で溢れている。
ようやくこのクラスの一員になれたと、俺たちはこの時始めて自覚することができた。
だが。
その盛り上がりの輪に、ただ一人だけ加わらない者がいた。
士門湊人。
彼は席に腰を下ろしたまま、表情を変えず、冷たい眼差しで俺たちを見ていた。
その周囲だけ、笑い声の熱気が届かない。
こめかみを走る血管が浮かび上がり、唇の笑みは完全に消え去っていた。
誰もが振り返る間もなく、士門は立ち上がる。
次の瞬間――
「な、なんなんだよッ!!」
怒声が教室を震わせた。
ざわめきが一瞬で凍りつき、笑っていた生徒たちも口を閉ざす。
重苦しい沈黙が落ち、誰もが息を潜める。
士門の視線が俺に突き刺さる。
その鋭さは刃物のようで、全員が思わず息を呑んでしまった。
Cクラスを支配していたはずの士門の影響力は、今や完全に薄れ始めている。
残っているのは、俺たち昇格組を仲間として受け入れようとする流れ。
士門はそれを悟ったのだろう。
顔を歪め、鞄を掴むと、乱暴に扉を開けた。
バタン、と乾いた音が教室に響く。
閉ざされた扉を見つめながら、俺は心の中で静かに悟る。
Cクラスの均衡は、今、崩れたと。
だけどそれじゃダメだ。
このままでは、結局士門の闇堕ちは変わらない。
この先必要なのは個人の敗北ではなく、学園の闇、影鳳會の滅亡。
平和な学園都市だ。
それは二度目の人生を歩む俺にとって、絶対に欠かせないことだ。
だから、俺は行く。
士門湊人をこのCクラスの真の仲間として、迎え入れるために。
「ちょっと、行ってくる」
重く続いた沈黙の中、俺はひと声漏らしたのち、一年Cクラスの教室を後にしたのだった。




