第15話
士門湊人を尾行したあの日から、気がつけば一ヶ月が過ぎていた。
季節はすでに春の穏やかさを失い、日差しは初夏の熱を帯びている。
五月も下旬、俺たちは次の試験を目前にしていた。
朝の教室。
俺はいつも通り、自分の席に座っている。
Cクラスの教室では、窓から差し込む光に照らされ、ざわざわと賑やかな声が飛び交っていた。
「みんな、おはよっー!」
そんな中、勢いよく扉を開けたのは矢野翼。
彼は教室のど真ん中まで歩み出ると、わざとらしく転んだ。
ドンッと鈍い音を響かせる。
「いってぇ……! なんかさー今日の床、いつもより固くない?」
一瞬、教室にくすくすと笑いが走る。
「またやってるよ」
「ほんと矢野くんって面白い」
女子たちの呆れ声に混じって、サッカー部仲間の男子がさらに乗っかる。
「お前、シュート外した時の転び方すんなって」
「おいやめろって! 黒歴史掘り返すなよ!」
どっと笑いが広がった。
この一ヶ月、翼は「笑いを起こす役割」を果たすべく、毎朝のように何かしらの登場芸を仕掛けてきた。
最初は白い目で見られるだけで、失笑すら起きなかった。
それでも諦めずに続けるうち、次第に「今日もやるんじゃないか」とクラスが期待するようになり、今では自然に「お調子者キャラ」として受け入れられつつある。
俺はその様子を黙って眺めながら、胸の中で小さく頷いた。
この調子なら五月末の特別試験、ユーモア枠として、翼が評価されるはず。
さすがだな、翼。
* * *
四限目の授業が終わった。
今からは昼休みに入る。
ざわめく教室の中で、七瀬陽菜はいつも通り自然体で動いていた。
「よいしょっ」
そう言いながら、誰に頼まれたわけでもなく黒板の文字を、丁寧に端から消していく。
教卓近くにいた数人の女子がそれを目にし、思わず声を漏らした。
「七瀬さん、まめだよね」
「ほんと気が利くなぁ」
七瀬は振り返って、照れたように微笑み、
「やめてよ、恥ずかしい! これって意外と綺麗にできたら、気持ちいいんだよ〜?」
「はは、なにそれ〜」
軽く談笑を交わしている。
黒板消しを窓の外ではたきおわると、七瀬はそのまま教室の隅に置かれた花瓶へと歩み寄る。
朝から少し萎れかけていた花に気づいていたのだろう。
水差しを持ち、静かに注いでいく。
「わっ、花まで見てあげてるんだ」
「なんか七瀬さんを見てると、私安心するんだよね。癒されるっていうかさ」
「分かる、私も同じ」
周囲の声は自然と温かくなる。
これが七瀬の役割であり、強さだ。
誰に言われたわけでもなく、ただ自然に優しさを積み重ねていく。
そして彼女持ち前の明るさで、クラスで信頼をたしかなものにしていった。
初めはそれこそ、色んな意見が飛び交っている。
クラスで良い顔してあざといんじゃないか、
笑顔が嘘っぽい、
女子に嫌われるタイプの女子、
散々言われてきた。
七瀬も辛かっただろう。
だが俺たちにそんな顔は一切見せず、いつも笑顔で大丈夫とポジティブな姿を見せてくれた。
その結果がこれ。
五月に入った頃くらいから、彼女への評価がプラスに変わっていったのだ。
本当によかったな、七瀬さん。
俺は心の中でそう呟きながら、彼女の背中を見守っていた。
* * *
六限目が終わってすぐ。
ざわつく教室の一角で、御影蓮は一人、机に教科書とノートを広げていた。
シャープペンを走らせる音が、雑談の中で妙に耳に残る。
真剣そのものの横顔。
それを見て、周囲の数人が自然と声を漏らした。
「もう授業終わったのに、勉強してるよ」
「さすが御影くん。休み時間まで……」
本人は周りの視線など気にもせず、淡々と問題を解き続けている。
その勤勉な姿が、クラス全体に「真面目キャラ」としての印象を植えつけていった。
「御影くん、部活終わったらでいいからさ、また私たちに勉強教えてよ」
白石を連れた新見が、教室で堂々と蓮に声をかける。
「え、まぁいいけど」
「やった、ありがとう。夏帆も一緒に頑張ろうね!」
「う、うん……」
白石は一瞬たじろいだが、隣で楽しそうに話しかける新見の笑顔に、少しずつ表情を緩めていく。
抱えていた不安が、ほんのわずかにほどけていくのが分かった。
新見には白石の心を支える役割と、蓮の勤勉さをさらにクラスに印象づける役。
この一ヶ月、昇格組一人一人が自分の為すべき役割を全うしてきた。
初めはどれも目を逸らしてきたCクラスのメンバーだったが、さすがに一ヶ月もそれが視界に入り続けたら、無視する側にも限界が来るというもの。
そしてこのクラスのリーダーである士門はというと――
分け隔てなく、クラスメイトと話している……ように見えて、Aクラスの柊木という男の影をチラつかせては、時々決定権を行使する。
そんな一ヶ月を繰り返してきた。
きっともうすぐ始める特別試験も同様。
僕に票を集めれば、このクラスは上に行けるよ、とでも言うんだろう。
ガラガラッ――
教室にざわめきが広がる中、担任の晴海先生が教室に入ってき、教壇に立った。
「みなさん、席に戻ってください。先生から、大事な連絡があります」
その一言に、教室の空気がピンと張りつめる。
昇格組も、他の人たちも、何が来るのかと一斉に視線を担任へ向けた。
「もうすぐ五月末、中間試験が始まります」
当たり前の話題に、何人かが小さくため息をつく。
だが晴海先生は一拍置いてから、にっこり笑い――それでいて妙に冷ややかな目を光らせた。
「――そして同時に。特別試験も行われます」
ざわ、と教室が揺れる。
誰かが「またするのか……」と呟き、別の誰かが「怖いよ」と顔を俯けた。
晴海先生は黒板にチョークを走らせる。
白い粉の音が妙に重く響いた。
《特別試験、ソーシャル・スコアテスト》
大きく書かれたその文字に、全員が息を呑む。
「詳細は追って通知しますが、一つだけ言っておきます。これは君たちが過ごしてきた学校生活の日常すべてが、評価対象になります。教室でも、廊下でも、寮でも。誰がどう過ごしているか――それが今回の点数に直結します」
その言葉に、教室中がざわめきと緊張に飲み込まれていく。
そして俺たち昇格組のみ、互いに目を合わせた。
みんな驚いている。
半ば半信半疑だったことが現実になった。
そんな共通の感情を抱いているに違いない。
だが俺は、心の中で静かに呟いた。
想定通りだ。
ここからが、本当の勝負。
この一ヶ月で積み重ねてきた役割が、未来を変える第一歩になる。
その重みを知っているのは、俺だけだ。
胸の奥で熱が膨らみ、決意が静かに燃え広がっていくのだった。




