8話
控室の午後。
ひかりは、若手通訳たちに囲まれていた。
コーヒーとクッキーを囲みながら、誰かが言った。
「朝倉さんって、失敗したことあるんですか?」
ひかりは笑った。
「あるわよ。通訳者は、失敗の数だけ空気を読めるようになるの」
若手たちが身を乗り出す。
ひかりは、指を3本立てて言った。
「訳しすぎた日。訳さなかった日。訳せなかった日。どれが聞きたい?」
佐野が言った。
「全部、聞かせてください」
---
訳しすぎた日
「We are deeply disappointed. This partnership is a mistake. We regret everything.」
新人時代のひかりは、すべてを訳した。
「我々は深く失望しています。この提携は間違いでした。すべてを後悔しています」
会場が凍った。
日本側の代表が、無言で席を立った。
(訳した。でも、壊した)
その夜、先輩に言われた。
「通訳は、言葉の爆弾処理班よ。爆発させたら、意味がない」
---
訳さなかった日
「I don’t trust them. They smile too much. It’s suspicious.」
ひかりは、訳さなかった。
ただ、静かにマイクを切った。
会場は沈黙に包まれた。
その沈黙が、何より雄弁だった。
(訳さないことで、伝わることもある)
---
訳せなかった日
「The pain of losing my child is beyond words. I just wanted someone to listen. Not translate. Just listen.」
ひかりは、マイクに手を伸ばせなかった。
言葉が、喉で止まった。
その場にいた全員が、ただ黙っていた。
誰も訳さなかった。
誰も訳せなかった。
(通訳は、言葉を訳す仕事じゃない。沈黙を守る仕事でもある)
---
若手たちは、静かに頷いた。
佐野が言った。
「通訳って、言葉の職人じゃなくて、空気の守護者なんですね」
ひかりは、コーヒーを飲みながら答えた。
「そうよ。通訳は、ネゴシエーター。
言葉の裏にある感情と沈黙を、編み直す仕事なの」




