7話
雨の音が、控室の窓を叩いていた。
ひかりは、古い録音テープを手にしていた。
それは、彼女が通訳者として初めて現場に立った日の記録だった。
(あの日、私は“訳すこと”しか知らなかった)
テープの中の声が流れる。
「We don’t trust them. They smile too much. It’s suspicious.」
ひかりの若い声が続く。
「我々は彼らを信用していません。笑顔が多すぎて、疑わしいです」
沈黙。
会場の空気が凍る。
日本側の代表が、顔をこわばらせる。
(訳した。でも、伝わらなかった)
その夜、ひかりは先輩通訳に言われた。
「言葉は、訳すだけじゃ足りない。空気を読まなきゃ。小宰相のようにね」
「小宰相…?」
「姫君の“嫌い”を、“ご体調がすぐれないようです”に変える侍女よ。通訳も、そういう仕事」
ひかりは、その言葉を胸に刻んだ。
それから数年後。
彼女は、同じような場面に立っていた。
今度は、こう訳した。
「相手側に対して、慎重な姿勢を求める声が上がっています」
心の声:
(“信用してない”は、訳さない。“慎重”に変える。場を壊さず、意味を残す)
控室で、若手通訳の佐野が尋ねた。
「朝倉さん、昔は直訳してたんですか?」
ひかりは、テープを止めて答えた。
「ええ。訳して、壊したことがあるの。だから今は、訳さないことも選ぶ」
佐野は黙って頷いた。
ひかりは窓の外の雨を見ながら、静かに言った。
「通訳は、言葉を訳す仕事じゃない。
沈黙を守る仕事よ。
そして、過去の自分を、少しずつ編み直す仕事でもあるの」




