4話
会議室の空気は、冷房よりも冷たかった。
日本の大手商社と、アメリカのエネルギー企業。
契約金額は数十億。
ひかりは、若手通訳・佐野とともに、ダブル体制でブースに入っていた。
佐野は緊張で手が震えていた。
ひかりは、彼の水のボトルをそっと押し出す。
(今日は“言葉の刃”が飛び交う日。訳すだけじゃ、切られる)
交渉が始まる。
アメリカ側の代表が、いきなりこう言った。
「Frankly, your offer is laughable. We expected better from a company of your size.」
佐野がマイクを取る。
「率直に言って、あなた方の提案は笑えるものです。我々はもっとマシなものを期待していました」
日本側の空気が凍る。
沈黙。
重役が眉をひそめる。
ひかりは、すぐにマイクを取り直す。
「率直に申し上げて、今回のご提案には、我々の期待とのギャップがございます」
心の声:
(“笑える”は、訳さない。“ギャップ”に変えるだけで、交渉は続く)
佐野が小声でつぶやく。
「すみません…直訳しすぎました」
ひかりは、目を合わせずに言った。
「大丈夫。言葉は戻せないけど、空気は整えられる」
交渉は続く。
日本側が条件を提示する。
アメリカ側が応じない。
「We’re not here to play games. Either you move, or we walk.」
ひかりの訳:
「我々としては、真剣にこの交渉に臨んでおります。ご提案に柔軟な対応がなければ、別の選択肢も検討せざるを得ません」
心の声:
(“ゲームじゃない”を“真剣に”。“出ていく”を“検討”。交渉は、言葉の温度管理)
佐野が、ひかりの訳を聞きながら、メモを取っている。
その目に、何かが灯る。
交渉は膠着したまま、沈黙が流れる。
ひかりは、あえて訳さない。
沈黙をそのまま、訳す。
(この沈黙は、訳すべき。沈黙は、最強の交渉カード)
やがて、アメリカ側が折れる。
「Alright. Let’s talk numbers again. Maybe there’s a middle ground.」
ひかりの訳:
「では、改めて条件を見直しましょう。お互いにとって納得のいく着地点を探したいと思います」
会議室の空気が、わずかに緩む。
佐野が、ひかりの横で小さくつぶやく。
「沈黙も、訳すんですね…」
ひかりは、初めて彼の方を見て、微笑んだ。
「沈黙は、最も雄弁な言葉よ。訳すというより、残すの」
会議が終わり、商社の重役がひかりに頭を下げる。
「朝倉さんがいてくれて、本当に助かりました。まさに勝利の女神ですな」
ひかりは、佐野の方を見て言った。
「いえ、今日は“勝利の見習い”も、いい仕事をしましたよ」
佐野は、照れくさそうに頭を下げた。




