10話
国際通訳フォーラムの壇上。
ひかりは、最後の登壇を控えていた。
通訳者としての引退を発表する日。
控室には、佐野をはじめとする若手通訳たちが集まっていた。
佐野が言った。
「朝倉さんが訳さなくなるなんて、想像できません」
ひかりは、静かに笑った。
「訳すことだけが、通訳じゃないのよ。残すこと、渡すこと、そして託すことも含まれるの」
壇上に立ったひかりは、マイクを前にして言った。
「私は今日で、通訳者を引退します。
でも、最後にひとつだけ、訳したい言葉があります」
会場が静まり返る。
ひかりは、目を閉じて、ゆっくりと語り始めた。
「通訳とは、言葉を訳す仕事ではありません。
空気を読み、場を整え、沈黙を守る仕事です。
誤解を避けるために、時に訳さず、時に編み直し、時に沈黙を選ぶ。
それは、誰かの声を守るための、静かな交渉です」
そして、マイクを切った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
会場から、静かな拍手が起きる。
佐野は、涙をこらえながらつぶやいた。
「朝倉さんの訳は、いつも“言葉以上”でした」
ひかりは、控室でコートを羽織りながら答えた。
「次は、あなたの番よ。
訳すか、残すか、沈黙するか——その選択を、あなたが担うの」
佐野は、深く頷いた。
(通訳は、言葉の職人じゃない。空気の守護者。
そして、沈黙を編む詩人でもある)
その日、ひかりが訳した最後の言葉は、誰かの発言ではなかった。
それは、自分自身の哲学だった。
そして、その哲学は、静かに次の世代へと受け継がれていった。




