プロローグ
朝の控室は、まだ空調の風が眠そうに回っていた。
コーヒーの香りと、紙の擦れる音。
朝倉ひかりは、スーツの袖を整えながら、マイクのチェックを終える。
鏡越しに自分の顔を見て、口元の緊張をほどくように小さく笑った。
その笑顔は、どこか少年のようにあっけらかんとしている。
けれど、眉のラインは凛としていて、目元には光を跳ね返すような聡明さが宿っていた。
髪は肩にかかる長さで、無造作に束ねられているのに、なぜか品がある。
まるで、風に吹かれても崩れない構築物のような、自然体の美しさ。
彼女が通訳ブースに立つと、空気が変わる。
その瞬間、誰もが彼女を“ただの通訳”とは思わなくなる。
言葉を操る者ではなく、場を導く者。
その容貌は、まるで舞台に立つ女優のように、見る者の意識を一瞬で掴む。
隣の若手通訳が、資料をめくりながらぼそりとつぶやいた。
「意訳って、ズルじゃないですかね。なんか、嘘ついてるみたいで…」
ひかりは笑わない。ただ、少しだけ首を傾げて言った。
「小宰相って知ってる?」
「え、小宰相…?」
「昔のドラマに出てくる侍女。姫君が“あの方はお嫌い”って言ったら、小宰相は“ご体調がすぐれないようです”って伝えるの。場が荒れないようにね」
若手は目を丸くする。
「それ、嘘じゃないですか?」
「違うわ。“場を守る”の。通訳も同じ。言葉を訳すんじゃない。空気を調整するの」
ひかりは立ち上がり、通訳ブースへ向かう。
今日のゲストは、アメリカの人気歌手。
記者会見の冒頭、彼が言った。
「Hey Japan! You guys are crazy! I love it!」
ひかりの訳はこうだった。
「日本の皆さんの熱気に圧倒されています。心から感謝しています」
そして、心の声はこうだった。
(“狂ってる”って褒め言葉なのよね。たぶん)
会場が沸いた。拍手が起きた。
司会者が「さすがですね」と笑い、記者たちはメモを走らせる。
若手通訳が、ブースの外でぽかんと口を開けていた。
ひかりは、マイクを切りながらつぶやいた。
「小宰相は、今も生きてるのよ。通訳の中にね」
彼女の視線は、会場の奥に向けられていた。
そこには、言葉の意味を超えて、空気を読み、場を整える者だけが見える風景がある。
通訳とは、言葉の橋を架ける仕事ではない。
感情の谷を埋め、文化の断層をなだめ、誤解という名の地雷原を、笑顔で渡る仕事だ。
そして、誰も気づかないうちに、交渉は終わっている。
拍手が起き、契約が結ばれ、友情が芽生える。
その裏には、ひとりの“ネゴシエーター”がいる。
彼女の名前は、朝倉ひかり。
通訳者であり、交渉人。
そして、現代の小宰相である。




