第26話 マシュー
その日は、ヨルドは、朝から晩まで畑仕事や、荷物運びなどを強制的にやらされた。昼と夜に、水と一切れのパンだけ与えられた。
パサつき冷めた硬いパンであったが、腹に入れると身体は喜んでいた。
ヨルドがゆっくり味わいながら自分のパンを食べていると、目の前の少年が、隣にいる男にパンを奪われていた。パンを奪われた少年は、ふわふわとした銀色の髪の毛にラズベリー色の瞳をしていて、小枝のように腕が細かった。年は、7歳くらいだろうか……。
「それは、僕のだ。返して!」
奪われた少年は、必死に手を伸ばすが、パンは彼が届かないほど高い位置に上げられた。
「ふんっ。お前は、小さいから、半分でいいだろう」
「いいから、返して」
少年が必死に手を伸ばすが、奪った男は、強引に残りのパンを全て自分の口に放り込んだ。
「もう食べたから無理だ」
そして、食べた男は、逃げるように去っていく。
「ぐすん……」
パンを奪われた少年は、涙目になっていた。かわいそうに思ったヨルドは、自分のパンを半分にちぎって彼に渡した。
「い、いいの?」
「ああ。俺は、あんまりお腹が空いていないんだ」
「ありがとう。お兄さんの名前は、何ていうの?僕は、マシューだよ」
マシューは、天使のようにニッコリと笑った。
「俺は、ヨルド」
「ヨルドって綺麗な目をしているね」
ヨルドは、血のように赤い目をしていた。黒髪に赤い目は、悪魔みたいな気がして好きでなかったが、目を褒められることは嬉しかった。
「ありがとう。マシューの目も綺麗だね」
マシューは、美しいラズベリー色の瞳をしている。大きくなれば、きっと人目を惹く青年になるだろう。
しかし、こんなろくに食べ物も与えられない生活を送っているマシューが、ちゃんと成長できるか考えだすと、不安で胸がいっぱいになった。
その日から、マシューはヨルドに懐いた。食事の時間は、いつもヨルドの近くに来て、話しかけてきた。ヨルドも、自分に懐いてくる幼いマシューが、かわいくてたまらなかった。マシューを見ていると、ついモニカのことを思い出したが、彼にモニカを重ねているわけではなかった。
2日目も曇りだったため、真鏡探しは進まなかった。
収容所での生活は、これまで経験した生活よりも過酷なものだった。作業時間は、朝6時から夜11時から12時頃まで。途中、15分ほど栄養補給の時間が2度ある。トイレは、深夜の時間を除けば、行けるタイミングが決まっていた。
仕事内容は、共同作業もあれば、個別で行う作業もあった。
ヨルドが収容所に来てから、3日目に言いつけられた仕事は、織物であった。機械を使用して布を作ることは、一度覚えてしまえばそこまで難しくなかったが、ノルマは1日で6メートルもの布を織ることだった。そして、達成できなかったものは、鞭打ち100回の罰があるらしい。
その日は、汗を垂らしながら、必死で手を動かし続け、言われた時刻よりも早くヨルドはノルマを達成することができた。
しかし、ふと右側を見ると、マシューの織物は、4メートルにも満たなかった。小さな手と身体で、ここまで本当によく頑張ったと思う。だけど、このままでは、マシューは罰で鞭打ちされてしまう。
だったら、自分がマシューの代わりに鞭打ちを受ければいいんじゃないか。
そう思ったが、冷静になって考えてみる。
(これから、俺は、真鏡探しをしなければいけない。もしも鞭打ちをされて怪我をしていたら、戦う時に不利になってしまうかもしれない。余計なことで体力を消耗せず、温存しておいた方がいい。ここは、食べ物も少なく、環境も劣悪だ。自己管理くらいちゃんとしないと……。だけど、マシューの小さな体だと鞭打ちを受けたら、死んでしまうんじゃないか……)
ヨルドが唇を噛み締め、マシューの方を見ながら考えていると、左側にいた青髪の男が話しかけてきた。
「あんた、あの少年を助けようか迷っているの?」
彼は、まるで夜みたいに暗く沈んだ声色をしていた。
「よく気がついたな」
「ここでは、当たり前のように毎日、人が死んでいく。過労死、病死、栄養失調、鞭で撃たれて死ぬもの、管理人の気まぐれでなぶり殺されるもの……様々だ。弱い奴から、すぐに死ぬ。無意味な偽善はしない方がいい」
青髪の男は、人形のように表情を変えないまま、淡々とそう忠告してきた。彼は、透き通るように綺麗な青髪に、吸い込まれそうな青い瞳をしていて、妖精のように神秘的で繊細な美貌の持ち主である。身長は190㎝以上ありそうで、手足はすらりと長い。薄汚れた灰色のボロボロのTシャツとズボンでも、彼が着ているとおしゃれに見えた。
「君は、優しいんだな」
ヨルドがそう返すと、彼は怪訝そうな顔をした。
「だって、俺のことを心配してくれたんだろう」
「……俺は、優しくなんかない。昔は、もっと優しくなれたけれど」
彼は、遠くを見るような目をしていた。もう何年もここで過ごしてきた人なのかもしれない。ずっと辛い思いをしてきたのだろうか。
「名前は、何て言うんだ?俺は、ヨルド」
「スヴェン」
「スヴェン。俺のことを気にかけてくれて、ありがとう」
ここは、誰もが生きていくことに必死で、思いやりをもつ人間なんてあまりいないと思っていた。だけど、そんなことはないのかもしれない。
「……別に君のためじゃない」
スヴェンは、そう言うと、ヨルドから視線をずらし、織物の続きを始めた。
ここで、俺は、マシューを見捨てるべきだ。鞭打ちなんて、されたら、動けなくなるかもしれない。
だけど、このままマシューを見捨てることは、できない。
(俺は、俺が憧れた人間でありたい。目の前に、助けたい人がいたら、助けたい。火あぶりになった三人を見捨てたように、みんなを助けられるわけじゃない)
あの時、妹を救えなかった自分を思い出す。あのことを、今でも、後悔している。優柔不断な偽善者であった自分を絞め殺したいくらいだ。
(でも……マシューを助けたいと思ってしまったから、仕方がない。自分に嘘は、つけない)
ヨルドは、泣きながら編物をするマシューの背中をトントンと叩いた。
「うひゃあ!」
マシューは、尻尾を踏まれた猫のように身体をビクッとさせた。
「び、びっくりした……。ヨルドか……」
「マシュー。俺と場所を変わってくれ」
「え……。でも、ヨルドが……」
「俺は、強いから、鞭打ちくらいへっちゃらだ。でも、マシューは、鞭打ち100回されたら、死んでしまうかもしれないだろう」
「……」
マシューは、顔を隠すように下を向いた。
「マシュー?」
「どうして僕なんかにそんなに優しくしてくれるの?」
マシューの声は、まるで泣いているかのように震えていた。
「俺が、助けたいと思ったから」
「ごめん、ヨルド。ごめんなさい……」
マシューは、ラズベリー色からポロポロと滝のように涙を流し始めた。彼の顔もぐしゃぐしゃに歪む。ヨルドは、そんなマシューの背中を優しくポンポンと叩いた。
「大丈夫。マシューが大きくなったら、俺に恩返ししてくれればいい」
「うん……」
マシューは、大きくうなずいたが、その声が泣いているせいか、かすれていた。




