旦那様の合理的な動機事由 後編
いつまでもアリメアの返事を聞く事を、先延ばしにする事はできない。
青年は覚悟を決めて、自宅に戻ることにした。
青年からはあえて返事を促さずにいると、夕食の後アリメアが覚悟を決めた顔になった。瞬間に、これは返事を聞かされるんだろうと心構えをする。
優しげな瞳は伏せられて、緊張のあまりか睫が震えていた。そして、小さな唇が動く。それはひどく緩慢な動作に見えた。
待望の答えは――――いいえだった。
「そうですか」
勿論その答えも予想はしていた。
しかし、覚悟していても、時が止まった、終わったような感覚に陥る。
やっと青年が出せた言葉は……。
「何故ですか?」
「えっ!?」
至極もっともな……みっともない、問い。
その問いはアリメアの思いの外だったようで、とっても驚いた表情を浮かべる。そんなアリメアの態度が信じられなくて、青年も驚いて言葉を重ねる。
「流石に求婚を断られたのですから、私には理由ぐらいは聞かせてもらいたいのですがね」
未練がましい男と、思われても仕方がない。
理由によっては、自分に改善できるような内容であれば、食い下がる気でいるほどに。
初めてどうにもならない事を引き止めたいと、自分の元から去っていこうとする人間を引き止め、無理強いする無駄な足掻きを青年はしたので内心とても落ち着かない。
この選択が、アリメアに不愉快な男だと思われないように願うだけだ。
「り、理由です、か」
「はい」
「そ、それはっ……」
アリメアはひどく混乱しているようだった。
アリメアは話し始める。
要約すると、理由は酷くシンプルだった。しかし、そのアリメアの言いたい事がこちらに理解するに到るまで、とても回り道をした説明だった。
青年は口を挟まず、その断片をじっくりと拾い上げてみると、残念な事に理解できない部分が多い。
旦那さまには本当にお世話になったと、今までの思い出を語りだした時は、自分は彼女にそんなに頼りにされていたのだと、喜びを感じるほどだった。
旦那さまの言う事なら、何でも聞いてさしあげたいけれど、と語れば、それならば何故自分の求婚を断るのかと思った。
でもアリメアが考えるのは旦那さまが幸せになってくれる事で、アリメアの一番の望みはそれだから。
だから「楽だから」アリメアと結婚するのはよして、本当に好きになった人としてください、と。
ここの辺りは、青年にはよく理解できなかった。
元から『本当に好きになった人』に求婚しているのに、そう言うなんて。
アリメアはもっと他に、何か別の事を言いたいのだろうか。どんなに深読みしても、彼女の語る言葉からは青年にはうかがい知る事ができない。
「理由はそれで全てですか?」と彼女は混乱しているので、出来るだけ冷静に尋ねると「はい」と小さく返事される、益々解らない。
興奮のあまり涙を流しているアリメアにハンカチを差し出すと、受け取ってもらえなかったが、そのままにも出来ずに許可をえずに頬を優しく拭う。でも拒否されない。
それほど近くにいる関係。
アリメアの話から、自分の求婚を嫌がっていないことだけは理解する。
「話はわかりました」
「……」
「では、貴女が納得するまで、貴女に求婚する事にしましょうか」
「……」
「結婚してください」
「……っ、旦那さま?」
「私は気の長いほうですよ、アリメア」
話の流れからは嫌われてはいないという事はとても感じた。
彼女が混乱して本当の気持ちを話せないというのなら、自分は繰り返すだけだ。
本当に――完膚なきまで拒否されるまで。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい、旦那、さま?」
「貴女が自分の事を好きになってくれるまで、絶対駄目だと分かるまでは……いや分かったとしても諦めきれるでしょうかね」
「そ、そんな無駄な事っ……!」
期待を持った分だけ。
即座に「無駄」と拒否されて、青年は凍りつくしかなかった。
「……そこまで、自分を嫌ってますか?」
いや、嫌いではないという話の流れだったのにもかかわらず、愚かにもこう尋ねるしかない。
「そんな問題ではありません。
なんでそんな事になるんでしょうか、私は旦那さまに、本当に好きな人に結婚してもらいたいと……申し上げたはずですっ……」
「ですから自分の幸せを鑑みた結果ですよ。なぜ、貴女はそういうんですか?」
「私も、申し上げたはずです」
内容のループ。
お互いに何かがかみ合っていない、というか話が通じていない。
青年は一つため息を吐くと、アリメアとの会話を先日の会話からじっくりと思い返してみる。
「貴女と結婚すればこれでお見合いに悩まされる事もなくとても私にいい事なんですが」
「「楽だから」私と結婚するのはよして、本当に好きになった人としてください」
まるでパズルのピースがはまったかのように、青年の思考が開けた。
自分は無意味な求婚をしないと。
アリメアに対する気持ちは、人生で最初で最後の想いだと、自身では解ってはいる。しかし……自分がそんな気持ちでいると、アリメアが知っていているとは限らない。テセウスの例がそうだ。
どんなに他人からの評価が、九分九厘同じ事になる人間だとしても、アリメアがその残りの一厘の人間であれば通じない。
それに、青年はやっと気がついた。
彼女を縛っている求婚を受け入れない理由に納得して、本当に無駄な時を過してしまったと、自嘲する。
「……あぁ自分とした事が、あまりにも当たり前でしたので、口に出していない事に気がつきませんでしたよ」
「?」
アリメアはキョトンとした表情をしていた。
「いえ、自分が悪かったんです」
恋は本当に例外なく人を愚かにさせる。
「……??」
益々解らないという表情になったアリメアにやっと大事な事を告げる。
「貴女を好きなんですよ、こういったら貴女にも分かるでしょうか?」
本当に大事な台詞を、今の今まで言っていなかった。
その台詞でみるみる薔薇色にそまる、アリメアの上気した肌。驚きと喜びがない交ぜになった菫色の瞳を見て、改めて彼女が愛しいと感じる。
そしてまだ信じられないようで、何かを言いかけようとする彼女の唇を、先手を打って自らの唇で塞いだ。
軽く触れるだけの接吻。
それだけで、彼女の挙動不審がピタリと止まる。
アリメアが考えるのは、青年が幸せになる事。
アリメアの一番の望みはそれだから……そう言ったアリメアの言葉が、頭に思い浮かぶ。
「自分の言った事には責任を持たないと」
そう言って、青年は自分でも信じられないほどの喜びが、心だけでは飽き足らず顔に浮かんでいるのが解った。
「旦那様、今晩のテセウス様を招いての晩餐のお料理はどうしましょうか?」
「そうですね、ちょうどテセウスから貰った肉もありましたし、それを使った料理がいいですね、テセウスの好みは考慮しなくてもいいでしょう、あの男は何でも食べますし」
「旦那様のリクエストはありますでしょうか?」
青年は騎士団寮での生活に慣れていたため、基本外で食べてくる事が多かった。
生まれが生まれなだけに一流の味を知っていたが、特に食べる事に拘っているというわけでもないので、ごくたまにアリメアに料理を作らせたとしても軽食などのサンドイッチ。もし客人を呼ぶ事があれば、料理は青年自らが本宅の料理長に指示してこちらに運んでもらっていたので、アリメアは凝った料理を作った事が無い。
本宅では厨房はアメリアの仕事外で、今までアリメアは料理をあまりしていなかった。
しかし、これからは旦那様の奥様になるのだから手料理も! と張り切るアリメアに。今まで通りでもいいとも、なんならコックを雇えばいいとは、青年は言わない。
紅茶のように、いつか上達する日を待てばいい。その長い時間を共に過ごす事を、アリメアに受け入れてもらったのだから。
そういう背景を全て考慮したうえで、青年は答える。
「そうですね、貴女に作ってもらえるのなら……シチューでしょうか?」
「旦那様はシチューがお好きだったのですか? いいですよね、栄養があって」
本当はテセウスに貰ったカギュザーツ地方の牛の肉で作るとしたら、カルパッチョが青年には珍しく好物だったのだが、シンプルなだけに腕が試される料理だ。料理初心者のアリメアには言わない。彼女の腕を鑑みて、一番調理方法で簡単なものと考えると、煮込んでも煮込みすぎると言うこともない、シチューなら失敗は少ないと結論が出る。
婚約して数ヶ月。
本来なら直ぐにでも神殿で愛を誓いたかったのだが色々と処理する事もアリメア自体も花嫁修業をしたいと申し出た事もあり、二人は婚約期間を楽しんでいた。
アリメアは一番心配していた青年の実家の反対も特に無かったので信じられないようだった。
時折、やはり私が旦那様の奥様になんて! といいだすが、その度に「貴方以外に誰が私の側にいてくれるんですか?」と青年は何度でも口説く。
本当に私が旦那様の奥様になっていいのですね、そういうアリメアにやはり根回しに無駄は無かったのだと思う一方、少し不満に思っていた。
「それにしても、アリメア」
「はい、何でしょうか旦那様?」
「……自分は名前で呼んでくださいと、お願いしたはずですが?」
「で、でも……旦那様っ……」
婚約して、今でも彼女は自分の事は名前で呼ばず、旦那様だ。
それが青年の気に入らない所、だが。
「まぁ別に、一般的には旦那様でも特におかしくは無いのですがね」
「…………? あっ!!」
「旦那様で譲歩した訳がこれで分かりましたか?」
自分でも幼稚な事を……と苦笑気味になる青年に、アリメアはワンテンポ遅れて意味が解ったらしく、真っ赤になって恥らっている。
「では、未来の奥様、お茶を入れてくれますか?」
「は、はい」
そういって、自分だけの最高のメイドから
最高の妻になる人のお茶を独占する幸せを青年は手に入れたのだった。
旦那様が……本来の意味での旦那様になるのは後、数ヶ月。
ぐらいの目論見は、アリメア相手では数年かかるのも覚悟している旦那様だった。