外伝Ⅱ もう一人の坊ちゃまの求婚 それから(中編)
僕の弟は実に間の悪い。
そして人の神経を逆なでする言葉選びが秀逸だ。
わざわざ、義姉上と呼んだのは、名前を呼ぶのをためらったのと――気を遣ったつもりだったのだろう。
しかし、今は最悪のタイミングだった。
折角のチャンスを潰されてカサンドラは鼻白む。
さすがに鈍いアリメアでも、「義姉上」という言葉には何か感じっとったらしいが、当惑した顔をしていて、こちらを窺っている。
とりあえず、玄関先で込み入った話をするのはなんだからと、僕達は居間に通してもらうことにした。
今日のチェルトはあくまでおまけであって、今回は最高の特等席で婚約者殿の見物を決め込むつもりだったのだが、どうやらそうはいかないらしい。
いつもなら寛げるはずの居間は、今日は針のむしろともいえる雰囲気を醸し出していた。
通常、カップル同士ならば二対二で座るであろうカウチには、ぴったりとカサンドラとアリメアが座っている。
弟に「僕らも一緒に座ろうか」と言ったら、本気で嫌がられた。
冗談なのに、僕の弟ながらノリが悪い。
アリメアという要石があるために、表面上では凪いだ印象だが、水面下では荒れ狂う海のように緊張感の漂う空気だ。
その理由は勿論僕には関係ない、アリメアに悟らせるわけがない婚約者殿から弟への視線。
――彼女の素の表情は「僕だけの特権」といったのは撤回だ。
今現在、限りなく憎悪の視線を向けられているのは、僕の弟である。
弟は一般人が受ければ、この場から立ち去りたいほどの熱視線を受けても、涼しい視線でそれを受け流していた。
この場にそぐわない柔らかい表情が、逆に不敵な表情とも見える。
本当に義理の姉にならなかったとしても、アリメアを娶る上で、このとても厄介な小姑が付いてくるのは彼にとっておりこみずみの出来事で、敵意を向けられたからといって、喧嘩を買うような性格でもない。買うのは無駄だと思っているからだろうし、僕もそれが正解だと考える。
僕の場合買わないのは、彼女のそんなところが愛しくてずっと見ていたいという正反対の理由だけどね。そして堪能してから、喧嘩を買うという二段構えだ。
しかし、弟が婚約者殿の喧嘩を買わなくても、やることなす事全てが気に食わない彼女にとってはその態度もさらに火を注ぐ結果となっている。
――うらやましい。弟よ、兄は少し嫉妬してしまうよ。
純真無垢なアリメアをたぶらかした大悪人だというのが、彼女の弟に対する評価。
それは、兄である僕も否定しない。
弟はそう言っても間違いじゃないほど、世間知らずのアリメアのじわじわと外堀を埋めてさらに壁を築いて囲みこむほど、用意周到に手に入れたのだ。
まぁ、それらをやりやすくするために、婚約者殿をアリメアから引き離す事に手を貸していたチェルトも、彼女にとっては憎しみの対象だったが、それはアリメアが義理妹になる協力したことで、チャラにしてくれたらしい。
アリメアがお茶を入れ始めると、室内にいい香りがくゆる。
お茶を入れるのを使用人でなくアリメアにやらせているのか、という婚約者殿の不穏な空気をチェルトは感じとって、代わりにそれとなくアリメアに尋ねた。
「淹れて差し上げたいんです」と、私にはおもてなしはそれぐらいしか出来ないから……と、幸せそうに微笑まれる。ついでに「カサンドラに飲ませたかったんです」という完璧な返答で、カサンドラとしては何も言えなくなってしまう。
確かにアリメアのお茶を入れる技術はちょっとしたものだ。
茶葉にさえこだわれば、王に献茶しても差し支えない腕前だった。
今日のお茶の味は、カサンドラ好みの北方のお茶。
そして、リラックス効果がある。
詳しい理由は分からなくても、少し緊張した親友の事を思ってのことだろう。
「驚いただろう?」
「びっくりしました……まさか、カサンドラがそんな事になってるなんて」
「そうね、私もまさかこんなことになるなんて思ってなかったの……だから」
お茶を優雅に飲みながら一服。
アリメアにこれまでの経緯を話したところ、到底驚いているとは思えないふんわりとしたリアクションだった。しかし、長年の付き合いでアリメアが本当に驚いている事には、この場の三人には気が付いている。
「びっくりしましたけど……」
「内緒にしてて怒ってない?」
上目遣いでアリメアの様子を恐る恐る見るカサンドラはめちゃくちゃ可愛い。
アリメアにその場所代わってくれないかと言いたいほどだ。
今はそんな事を言って彼女を怒らせるのは愚策だと、僕は今回はあえて空気を読む。
「怒るなんて」
「友達をやめる! って言われたらどうしようかなと思っていたのっ!」
そう言われて、アリメアが無言になった。
一緒のカウチに座っていても、義理の姉妹になったとしても。
今の二人には、伯爵令嬢とただの使用人の身分の差が確実にある。
確かに、前のアリメアだったらそんなことを考えていたかもしれない、でも今は。
弟の婚約者候補のセールブリア嬢に、堂々と弟と幸せになりたいと宣言できた今のアリメアなら。
アリメアは必死になって首を振り、カサンドラの手を両手をつかんでこう言った。
「カサンドラは、大事な友達です。とってもとっても大事な親友です」
親友。
その一言で……カサンドラが、落ちた音を聞いた気がした。
独特な金の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
感極まった表情を浮かべさせるには、チェルトには至難の業。
彼女をこんなに些細な一言で、落とせるのはアリメアだけだ。
――ここまでくると弟相手とは違い、嫉妬する気も起きないんだよなぁ。
改めて、婚約者殿のアリメアへの愛を目の当たりにして、チェルトはむしろ清々しいまでの敗北を感じていた。
そして同時に、いつか彼女を同じように振り向かせて見せたい……という気持ちも。
「それに前々から、チェルトさまが訪問してくださった時に、カサンドラの名前は聞かずに、色々婚約者さまのお話を聞いていたんですよ。それに気が付かなかったなんて、私の方がうっかり者です……話の内容からカサンドラだって気がついてもよかったのに」
「そう、なの……?」
実はカサンドラには内緒で、時折この家に遊びに来ていたチェルトは、これからの事を色々と考えて、お茶を飲むついでにアリメアに話をしていたのだった。
「一体、どんな話を?」
流石、チェルトの婚約者……察しが良い。
嫌な予感がしたんだろう。
チェルトをちらちらと見ながらも、ぎこちない笑顔でアリメアに尋ねる。
「ご婚約者さまは、私が義妹になるのを楽しみにしていてくださるとか……。どんなに二人が愛し合ってるのかは、聞いた時はまさか相手がカサンドラとは思ってなかったけれど、今は納得しました。ああカサンドラのことだったんだなぁって」
そう、アリメアは他人の不幸など望まない素直で心優しい子だ……。
「親友」が「幸せ」だと疑ってもいない。
弟との結婚の祝福……はともかく。
何と言っても、チェルトとは熱烈な思いで恋愛結婚したという事。
とても嬉しそうに祝福しているアリメアに、勿論愛しの婚約者殿は「嘘よ!」などとは口が裂けても言えるはずもなく。
アリメアが勘違いしたとしても、でも嘘は言ってないよと目でウィンクして合図する。
先に根回しされて、アリメアから祝福を受けるしかない状態に追いやられた。
この状況に、婚約者殿が黙っている訳はない。
アリメアの視線がそれた一瞬。
――屋敷に帰ってから覚えてろよこのど阿呆が。
目は口ほどにものを言う。
怒髪天を突く表情を抑え、口元は微笑みながらつつも、目だけで射殺すようなその視線がたまらない。
先ほどの弟への視線とはまた違った、殺気がこもった、くるくると輝く金の瞳。
こういう時はどのような意味であれ本気で見つめてくれるのだから。
「二人とも、あまりにもお似合いなものだから……」
にっこにこの笑顔でアリメアが、二人の関係をダメ押しする。
その瞳は物語の理想的なカップルを見つめているかのようだ。
急上昇から、一転、急下降。
カサンドラの気持ちが急にすぼんでしまうのが分った。
「私と、彼が……お似合い?」
「カサンドラはとっても素敵な女性です。とても綺麗だし、それに頭もいいし。伯爵令嬢だったって言われて納得するぐらい。私は……あまり頭もよくないし、いつも助けてもらってばかりで。だからカサンドラの言っている事が時折、理解できない事とかあって恥ずかしいんですけど、それをわかってあげられるチェルトさまとならすごくお似合いだなぁって」
カサンドラが対等にありのままでいれる。
確かに、カサンドラの心が包み隠さずにできるのはチェルトだけだろう。
歯に衣着せぬ物言いが出来るのも。
夫よりもアリメアを優先すると、はっきり言うことが出来るのも。
――この世で一人、チェルトだけだ。
わかっているのか、いないのか。
的確な、指摘。
それはチェルト達の父親に近い、本能での感性。
アリメアの場合は、計算などではない、相手を思う気持ち。
「私が言うのもですが、チェルトさま。カサンドラの親友として言わせていただきますね、カサンドラをよろしくお願いします」
そう言われても全く嫌な気持ちにならない、純粋な祝福。
前のアリメアなら、チェルトに意見する、なんて事などできなかっただろう。
でもカサンドラが大切な友達だから、本当に――アリメアは強くなった。
「前の私なら、カサンドラが伯爵令嬢だなんて言ったら私なんかが友達でいいのかなって思ってたと思うんです、けど。
でも旦那様と一緒に居たいのと同じように、カサンドラとも一緒に居たいから、頑張ります」
「アリメア! 私もっ……!! 貴女の義姉として恥ずかしくないように頑張るわっ……!!!」
どれだけアリメアに婚約者殿は蕩かされるのか。
感無量といった程で、カサンドラはアリメアを抱きしめた。
その言葉には、二重に重みがある。
僕の頬は自然と緩んで、本当に素晴らしいお嬢さんを義妹として迎え入れる幸福を今、殊更に噛みしめた。