第二話 呼び方と関係性の変化
それから、数年が経ち。
お坊っちゃまと、そのお付きのメイド。
そんな二人の関係は、何も変わる事もないままだった。
取り巻く環境は変化していたのに、変わらないという事は、二人の階級の違いを思えば、むしろ奇跡に近かったのかもしれない。
アリメアの母親は流行病で亡くなり、天涯孤独の身になってしまっていた。
大好きな母親を亡くし、アリメアはとても独りぼっちの気持ちで落ち込んだ。そんな中でも坊ちゃまの励ましと、屋敷勤をしていた間にできた沢山の周りの人々の支えで何とか立ち直れた。
本来ならアリメアは、母親のおまけで雇われた身分だったために、その後の身の振り方を考えなくてはいけなかった。
けれどその頃には、努力の甲斐があってか使用人として何とか様になっていた事。同じ使用人同士で仲良くなった友人や、何かとアリメアの事を気にかけてくれていた、執事のオルティスさまのご厚意で、そのまま屋敷に残る事が出来た。
おまけだったアリメアにも、屋敷に立派に居場所が出来ていたのだ。
一方、次男である坊ちゃんの方は。実家に残って家業を継ぐ長男を支える事も、将来有望視された王宮の官吏になる事も拒否して、家を出てこの国の騎士団に入る事になった。
坊ちゃんの将来の展望としては、一家ではあまり予想していなかった進路だったようだ。
お屋敷では数か月間の緊張が強いられた。
坊っちゃまの進路の理由は、一介の使用人であるアリメアには分からなかったけれど……ショックだった。
騎士団員になれば、特別な場合を除いて騎士団寮に入ることになる。家を出ると言う事は、もう坊ちゃんとの接点は完全に無くなってしまう事だ。
しかし、騎士団員になって寮暮らしになった坊ちゃんにしては、かなりの頻度で実家に帰ってくることが多く。その時の担当は、必然的にアリメアになった。
それに勉強の成果を報告してもかまわないと、手紙を書くことを望んでくれて、それだけでアリメアにはとっても嬉しかった。
ご迷惑になるだろうからと、アリメアが手紙の頻度を控えようとすると、坊ちゃまからさりげない便りがやってくる。
手紙のやり取りは絶える事がなく続いた。
その頃には、初めてできたメイド仲間の友人も別の貴族の屋敷へと転職をし、お屋敷を出て行くことになってしまったが、手紙のやり取りを約束して、文通相手が2人に増えた。
本当に、坊っちゃまに文字を習っていて良かったとアリメアはそう改めて坊っちゃまに感謝した。
なかなか会えなくても、手紙でのやり取りで、繋がっていると感じられる。
他のメイド仲間たちからは、アリメアが手紙でやり取りをしているのは、その友人だと思われていたのに。ふとしたことから坊っちゃまとも手紙のやり取りをしていることがバレてしまった。
同僚のメイド達が二人の仲をとんでもない事に疑った。しかしからかうように奪った手紙の内容を見ると……二人の仲を疑う者はいなかった。
アリメアは坊ちゃんの人柄のおかげだと思っていた。
けれど、内容を読むと色事のかけらもない教科書のような文章。
さらに報告書のような、お互いの感情を交えない簡素なやり取りしかしていなかったのだから疑いようもない。
からかい半分で手紙を見た同僚たちも、しらけてしまう程。
まさに教師と生徒……といった感じの内容だ。
でもアリメアにとっては、そんな些細な文章でさえも、心の支えで大事なものだった。
そんなやり取りを繰り返し、宝物のような手紙の束は分厚くなっていき、何度も季節が変わる中。
坊ちゃんは騎士団の中でも順調に出世をしていった。
素人のアリメアから見ても、坊ちゃまの剣の腕も乗馬技術もとても優れていて、正当な評価だと思った。それに坊ちゃまは努力を惜しむことがないので、その努力の成果が実る事は、自分の事のようにとっても嬉しい事だった。
騎士団隊長というそれなりの地位に坊ちゃまは立つ事になり、それをきっかけに騎士団の寮からは出て、騎士団の近くに坊っちゃま個人のお屋敷を構える事になった。
その時期当主である坊ちゃまのお父上が、商売を広げる為に王都とははなれた街に別宅を作った事も重なり、使用人の人事移動が慌しく行われた。
新しい使用人を雇い入れ、仕事の効率を考えて古くから仕えていた人間を分配して、配置換えする事になったのだ。
もし別宅に配置換えになれば、王都を離れなければならない……。
そうなると坊ちゃんに会える事は殆どなくなってしまう。
日々の仕事に追われながら、アリメアは今度こそ本当に坊ちゃまとはお別れなのかもしれないと覚悟した。
――ご主人様と使用人。
元から報われない恋だと知っていても、それでも近くに居られるだけでよかったのに。
そんなささやかな願いさえ、叶う事はないのかもしれない。
まだ配置換えが決まったわけでもないのに、アリメアは憂鬱を抱え、仕事をこなして数日。
晴天の霹靂な事態が起こった。
アリメアの配属場所は、なんと坊ちゃま個人のお屋敷になったのだ。
執事のオルティスさまと坊ちゃまに家宰室に呼ばれ、正式にその辞令は下された。
「あの、私なんかでよろしいのですか?」
信じられない思いで、アリメアは自分でよいのかと確認する。
「古参の者はこの屋敷にこそ必要でしょう。
それに私もそんなに仕事が暇ではありませんし、今から私の世話をするものを、発掘し吟味するほうが無駄手間ですよ」
坊ちゃまの言葉に、オルティスさまはアリメアにはうかがい知れない、何かを納得したように頷く。
アリメアは坊ちゃまの言葉に、何故自分が選ばれたのか納得した。
自分より役に立つものは、本家に残すべきで、そして長年坊ちゃまの担当をしてきた事を考慮すれば、消去法でアリメアが担当になったと言う事だろう。
あと、選ばれたと言う事は、坊ちゃまにとって気の置けない人間だと遠まわしに言われているようで、アリメアは胸が一杯になる。
「アリメア。お前の懸念は最もですが……。
坊ちゃまのお屋敷は基本使用人をあまり置きたくないとおっしゃっている。
基本、通いで家事全般の仕事になってしまうが、できるか? アリメア」
……本来なら住みこみがいいのですが、貴女は若い未婚女性ですから。オルティスさまは、ちらりと坊っちゃまをみてため息交じりに言った。
一般的に考えてみれば確かに。
そんな事は絶対ないのに、坊ちゃまの評判に傷をつける訳にはいかないだろう。
お屋敷からの通いは大変だ、けれど……。
「は、はい! 精一杯頑張らせていただきますっ……!!」
アリメアはそう返事するしかなかった。
そう二人の前で宣言して数ヵ月後。
アリメアは坊ちゃまのお屋敷の専属メイドとなった。
坊ちゃま専用のお屋敷は、メイド身分のアリメアからすれば豪邸だった。
しかし本宅とは比べ物にならないぐらいのこじんまりとした作りで、中身は機能的だった。
これなら基本、一人でどうにか出来そうで、アリメアはほっとする。もし一人で切り盛りできない場合、応援の使用人をよこすので遠慮なく申告するようにとオルティスさまに言われていた。でもせっかく名指しで指名してくれた、坊ちゃまの期待を裏切るみたいで、アリメアはそんな事をしたくはなかった。
一通り屋敷の中を点検していると、この家の主が帰宅する音が聞こえてきたので、慌てて玄関に出迎えの仕度をする。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。今日からお世話に……なります」
出迎えのお辞儀をしてから、坊ちゃまから外出用のコートを受け取る。
「あぁ、アリメア。自分の我侭で、貴女には急で大変な配置換えをしてしまってすみませんね」
「い、いいえ。頑張ります!」
「そう言ってもらえて、ホッとしましたよ。家でぐらいは寛ぎたいですから。貴女なら自分の扱いに慣れていますしね」
「そんな……扱いだなんて」
むしろ、坊ちゃまの方が私の扱いに長けていると言ってもいい。
アリメアは思っていたが口には出せなかった。
「できない時は無理せず、応援を呼んでください。もっと狭い家を探すように言っておいたのですが……」
アリメアはとんでもない! と頭を振った。
家の中を点検して自然と本宅と比べてしまい、比べ物にならないくらい狭くて、こんな家でいいのかと思っていたぐらいだ。でも坊ちゃまご本人はもっと小さい家を望んでいると知ってビックリする。
アリメアのそんな様子を見て、坊ちゃまは何を考えているか分かったのか、かすかに笑う。
「騎士団の寮はこれよりももっと狭かったんですよ? 無駄に部屋を持たなくても生活できると言う事を実践できました」
やっぱり、坊ちゃまの方が私の扱いを分かっている。
「そんなことより。ここで立ち話もなんですから、お茶をいただけませんか?」
「……!!」
一呼吸遅れてハッとして、坊ちゃまに玄関フロアーで立ち話させている事に気がついてアリメアは慌てた。
でも目の前の坊ちゃまはにこやかだ。
許してもらっているとはいえ、初日からこんなに失敗するなんて……。
これから坊ちゃまのおそばに入れるという浮かれた気分が、分不相応な態度を取っていた事に気がついて、アリメアは気を引き締める。
「ああ、それと」
「はい」
他にも何か馴れ馴れしい事があったのだろうかと心配になって、アリメアは怪訝な声で返事を返した。
何を言われるのだろうかと、小首を傾げる仕草に坊ちゃまは更に微笑む。何かを言いかけた後……珍しくアリメアから目をそらして、坊ちゃまは言った。
「――坊ちゃま。と言うのはやめてもらえませんか?」
「?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、アリメアは止まる。
「いえ。これでも自分は、もういい年ですからね……」
坊ちゃまは、すっかり大人の男の人になっていた。
アリメアの身長もとうの昔に追い越しているし、少年の頃は知的な印象が強かったすらりとした身体も、騎士団に入ってからは男性としての魅力のあるしなやかな体つきになっている。
でも幼い頃と全く変わらない柔和な顔の印象の所為か、アリメアはそう意識した事がなかった。
屋敷では当たり前の呼び方になっていたから、考えた事も無かった。改めて意識してみると、大の男が坊ちゃまと呼ばれるのは少しどころか、とても恥ずかしい事なのかもしれない。
あまりに当たり前に呼んでいたので、気が付かなかった。
「すみません……あの、では……何と?」
「そうですね、名前。
私の名前で呼んでもらえませんか?」
「な、名前ですか?」
勿論、長年お使えしている、坊ちゃまの名前を忘れた事はない。
けれどアリメアにとって、それはびっくりする申し出だった。
今まで名前で呼んだ事はなかったので、とても違和感があるというのと……。
アリメアだけの心の問題だとしても、名前を呼ぶなんて、近しくなったような錯覚を覚えるような行為に勝手に戸惑う。
勿論、坊ちゃまに他意はないとは分かっているのに。
坊ちゃまのお言葉に甘えて、これ以上メイドの分際を忘れて浮かれるわけにはいかない。
アリメアはとても困って……沈黙した。
坊ちゃまは昔と変わりなく、アリメアが答えを出すのを待ってくれる。
「…………だ、旦那様では。どう……でしょうか?」
今まで本邸の中で「旦那様」と言えば、坊ちゃまのお父様の事だった。
でもこの屋敷にいる限りは、アリメアの主は坊ちゃましかいない。
自分の仕える相手を名前で呼ぶなんて事が出来ない、アリメアとしては精一杯の変更だった。
坊ちゃまはそれを聞くと少し残念そうな顔をしてから、思い直したように頷いた。
「そうですね。ええ、それで十分ですよ」
アリメアは自分の提案が受け入れられて、心底ほっとしたのだった。